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村のくらし [くらしの日本史]

 新しい土地をひらくときには、神さまを祭らなければならなかった、と宮本常一は書いている。
 山と田のあいだには山の神、ひらいた土地には田の神(地神)、屋敷や畑にはお稲荷さんを祭った。
 新しく家を建てるときの地鎮祭にも、そうした名残がある。
 畑の字は火と田からなる。これはもともと林や森に火をかけて、田をつくっていたことの名残である。いわゆる焼畑だ。
 これにたいし、火をかけないでひらいた「はたけ」が、白い田、つまり畠である。
 畠や畑では、ヒエ、アワ、ダイズ、アズキ、ソバ、ダイコンなどがつくられていた。
 家をつくるときには、ともかくも水が確保できること、風よけがあること、たきぎがとれる森や林を背後に控えていることがだいじだった。
 田畑は家の前に開けていた。
 東北の古い村では、御館(おやかた)と呼ばれる中心の家があり、そのまわりを二、三十戸の名子の家が取り囲んでいたという。
 本家と分家がひとかたまりになった村、草分けの百姓たちが集まった村、親方と子方でむすばれた村もあった。
 村は入会地や共有地をもっていた。
 そこは村人がたきぎや草をとる場所だった。
 村のくらしは、どんなふうだったのだろう。
 ここでも宮本常一に教えてもらうのが、いちばんのような気がする。
 男の子は、15歳で若者組にはいるか、元服をすませると大人になった。
 女の子はだいたい11歳から15歳のあいだに成人式を迎えたという。
 昔は動力も機械もないので、仕事はすべて人の力に頼るほかなかった。
 田植え、田の草取り、収穫はけっこうな労働を要した。
 ぞうりやわらじを編むのは男の仕事、布織りは女の仕事だった。
 村では共同作業が多かったという。
 田植えや畑おこし、作物の収穫も、村人の手伝いがなければできなかった。家を建てたり、カヤで屋根をふいたり、草を刈ったりするのも、共同作業である。
「村の人はみんな大工のうでがあり、屋根をふくことが上手だった」と、宮本常一は書いている。
 こうして、たがいに手伝うことをユイと呼ぶ。
 田植えもユイでなされたが、大きな田では、着飾ったさおとめが四五十人も集まり、にぎやかで、はなやかなお祭りみたいになったという。
 センバコキができるまでは、稲穂から籾をとるのは、たいへんな作業だったろう。とてもひとりではできなかった。
 地域によっては、コウゾを煮たり、みそをつくったりするのも、共同作業、つまりユイでおこなわれたという。
 農家ははたらきづめで、なかなか8時間労働などでは仕事が片づかなかった、と宮本は書いている。
 田や畑で作物をつくり、収穫をし、草取りをし、夕飯後は夜なべでわら仕事をするといった毎日だった。
 そのうえ、不作に備えて、たくわえも用意しておかなければならなかった。
 そんな忙しい毎日でも、休みの日はあった。
 それは神を祭る日だ。
 正月やお盆、節句、お宮の祭、ほかに年中行事などもある。
 さらに、家の祝いや祭りの日も休みをとった。
 祭の日は、ハレの日で、この日ばかりは日々の仕事のことを忘れて、先祖に感謝し、一家の無事を祝い、村人こぞって楽しく遊んだ。
 しかし、そんな村の生活もだんだん変わっていく。

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