変わりゆく村 [くらしの日本史]
村が変わっていったのは、町が発達してきたからだ、と宮本常一は書いている。
町は自給できないから、村に食料や原料を依存しなければならない。すると、どうしても交換が必要になってくるため、町から村に商品が流れていく。百姓道具をはじめとして、着物、家具などが町から村にはいってくる。
そうした商品がはいってくると、村自体も変わってくる。
ほしいものができると、お金が必要になってくる。そのため、農産物を売りにだすようになる。こうして市ができる。
そのあたりの関係は、どっちが先なのか、よくわからない。
市はもともと決まった日に開かれていた。四日市とか、五日市、八日市、十日市などの地名はその名残である。
そうした市が常設の店になり、店が集まると、新しい町ができていった。神社や寺が市を管理し、それが町へと発展していく場合もあった。
交通が発達してくると海には港町ができ、陸の交通の要所には宿場町が発達する。
江戸時代には、武士が村から離れ、城下町に集まるようになった。
宮本によると、町の古い家は何代か前をたどると、いなかからでてきて住み着いた人がほとんどだという。そんなふうに、町は大勢の人がさまざまな地方からやってきて、大きくなっていったのだ。
税によってくらす武士はともかくとして、庶民が町で食っていくには商売をするほかない。ものをつくったり、集めたりして、それを売って、生活の足しにするのだ。
町や近在の村でつくられる商品の量や種類は、どんどん増えていく。
商品は町だけではなく、村にも流れていく。
村の人がそれを買うにはお金が必要だから、村では米や麦以外にも、お金になる作物をつくるようになる。山ではコウゾや茶がとれたが、畑ではナタネやワタ、サトウキビ、アイ、アサなどがつくられ、クワをつくって蚕を飼う仕事もはじまった。
しかし、そうした換金作物を栽培するには、肥料を買って、それを畑にいれなければならなかった。田畑で使う鍬や鋤、家で使う釜や鍋、山で使うノコギリやナタも町から買わなければならない。
町といなかを結んで、あちこちを回りながらものを売っているのが行商の人たちだった。高野聖(こうやひじり)とは、もともと旅をしながらものを売って歩く高野山の坊さんだったという。
人の通行が盛んになると、どんな山の奥にも、道は次第に開けていった。
ものを運ぶ決まったルートもできていく。
飛騨や信濃の山中では、ボッカと呼ばれる人たちが重い荷物をかついで、山道を往復していた。富山の海でとれたブリはボッカによって運ばれ、「飛騨ブリ」として信濃で珍重された。
天竜川筋では、三河のほうから、馬で塩などが運ばれていた。
京都の町に柴を売りにくる大原女も有名である。
『ふるさとの生活』の最後に、宮本常一は日本の衣食住の変遷を記している。
着物は、もともと家でつくられていた。フジやコウゾ、アサなどから糸をつくり、それを布に織り、裁断して仕立てた。ずいぶん手間がかかっただろう。糸車や機(はた)は、その苦労をしのぶよすがである。
江戸時代にはいって木綿が登場すると、木綿はまたたくまに日本じゅうに広がっていった。麻にくらべると、木綿のほうがやわらかで、あたたかく、紺の色があざやかに浮き立った。
村でふだん着る着物は上下別々になっていて、上着は腰のあたりまでしかなく、下はモンペやモモヒキをはいていた。作業をしやすくするためである。
ふとんが使われるようになったのは比較的新しく、ワタがいくらでも手にはいるようになってからだという。それまで、村人はワラにもぐったり蓑をつけたりして寝ていた。
ワラからは、蓑やわらじ、ぞうり、背中当て、背負い袋などがつくられた。いまでいえば、コートや靴、スリッパ、リュックサックというところか。身につけるものに、ワラが使われなくなったのは、明治の洋服時代になってからだ。
食べ物についていうと、狩猟採集時代に人が食べていたのは、貝や木の実、動物の肉などだった。それが2000年ほど前、弥生時代にはいると、コメやムギ、アワ、ヒエ、豆、サトイモなども食べられるようになった。
しかし、百姓はそんなにコメを食べていたわけではない。コメは特別の日の食べ物で、ふだんはムギ、アワ、ヒエが常食だった。コメは多くが年貢や小作米として収められ、残ったコメもお金を得るために売られていた。
ポルトガル人により日本にトウモロコシ(中南米原産)がもたらされたのは16世紀終わり。それ以来、四国や近畿の山のなかではトウモロコシが多くつくられるようになった。
同じく中南米原産のサツマイモが、中国から琉球にはいってきたのは1600年ごろ。以来、サツマイモは薩摩をへて、救荒作物として日本じゅうに広がっていった。
モチや団子はハレの日の食べ物で、神さまと縁が深かった。
そして、祭りといえば、酒盛りとうたが欠かせなかった。
うどんやそうめんは、もともと中国の食べ物だったという。
いなかとちがい、江戸時代から、町ではコメばかり食べていた。コメを煮て食べるようになったのも江戸時代からだという。食事の回数が2回から3回になったのも、このころである。
菓子の語源は野生のくだものの実。いなかでは、ヤマモモ、ブドウ、ヤマナシ、イヌビワ、アケビ、カキ、クリなどを食べていた。それが、だんだんちがった意味になり、ついに現在のお菓子が誕生する。それも江戸時代だったろうか。
動物の肉を食べることが少なかった日本人は、その代わり、魚を多く食べた。
生活には塩が欠かせなかった。最近は見かけることも少なくなったが、塩田がつくられるようになったのは1700年ごろといわれる。
そして、最後に住居である。
大昔の人は竪穴式住居に住んでいた。高床式の家はもともと神を祭ったり、食物をいれたりするものだったが、次第に人も床の上に住むようになる。しかし、煮炊きは土間のほうが便利だった。
村の家には神棚とイロリがあり、土間にはカマドがつくられていた。
屋根は茅葺きか藁葺き。それが明治以降、瓦葺きに変わっていった。
床にはふつうムシロが敷かれていた。しかし、町の影響を受けるようになると、だんだん畳が敷かれるようになる。
コモをたらしていた窓にも、障子がはめられるようになると、家のなかはずっと明るくなった。
こんなふうに、宮本常一の記述にしたがって、衣食住の変遷を並べてきたけれど、ざっと並べてみただけでも、その変遷ぶりはとどまることがない。
いまも町や村は、めまぐるしく変わっている。人のくらしもどんどん変わる。せめて、それがよい方向に変わるようにしたいものである。
2016-01-29 07:48
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