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利子と銀行──ハーヴェイ『〈資本論〉入門(第2巻、第3巻)』を読む(6) [本]

 資本となる貨幣には、独自の役割がある。その貨幣を貨幣資本と呼ぶことができる。貨幣資本は、それ自体が商品としての形態を取りうる(たとえば預金や貸付金、ローン、あるいは株式、投資信託などといったように)。
 ハーヴェイは「われわれは今や、いかにこの貨幣資本がそれ自体としてますます多くの貨幣を生み出す魔術的で謎めいた力を持つものとして現われるかを理解することになる」と述べている。
 貨幣資本といわれて、まず連想するのが利子である。
 利子とは何か。それはいったいどこからやってくるのか。
 マルクス自身は利子が「自立的で独立した」ものだが、利子が成立する前提として、価値と剰余価値の生産がなくてはならないと考えていた。
 ここで、マルクスはまず貨幣資本家と産業資本家とを区別している。貨幣資本家とは、貨幣権力を保有する者にほかならない。実際には銀行家のような存在を想定すればよいだろう。
 そして、利子率は貨幣資本家と産業資本家の力関係、実際には貨幣資本の需要と供給の関係によって決まるとされる。
 しかし、『資本論』で、マルクスは産業資本家が貨幣資本家に転ずる可能性も示唆している。大きな剰余価値を得た産業資本家が、もはやその剰余価値を新たな生産過程に投入せず、利子生活者として生きる道を選ぶかもしれないからだ。しかし、資本家がすべて貨幣資本家になってしまえば、産業資本家がいなくなり、剰余価値は生まれず、利子率自体もゼロ近くまで下落してしまうだろう。
 貨幣には特異性がある。それは貨幣が限界なしに蓄積しうるということである。歴史的に貨幣が金や銀という貴金属に拘束されることなく、紙幣や銀行口座の数字などで表されるようになると、限界なき蓄積という妄想はますます膨らんでくる。それが証券市場などで、バブルを引き起こす原因ともなるのだ。
 それはともかく、貨幣資本は産業資本に関与するだけではない。流通過程や消費過程にもかかわることによって、商品の供給と需要を促進する。そして、どの局面においても、利子率を形成するのである。
 マルクスは、利子の取得を目的とする貨幣資本を、利子生み資本と名づけている。
 利子生み資本としての貨幣資本が、産業資本や商業資本に資金を提供するとしよう。産業資本では貨幣資本の助けによって、剰余価値が生みだされる。だが、それだけでは剰余価値は実現されない。それが実現するには、流通過程で商品が売れなくてはならない。商業資本の役割は産業資本と同じくらい大きい。そこで、産業資本と商業資本において、利潤率がほぼ均等化され、それにもとづいて剰余価値が配分される。したがって利潤とは、配分された剰余価値にほかならない。
 貨幣資本は潜在的資本とみることができる。貨幣資本にとっては、貨幣が商品なのであり、その対価として貨幣資本は利子を受け取るのである。マルクスによれば、利子とは「利潤のうち機能資本家[この場合は産業資本家と商業資本家]が自分のポケットに入れずに[貨幣]資本の所有者に支払わなければならない部分を表わす特殊な名前、特殊な項目にほかならない」ということになる。
 利子生み資本において、貨幣は第三者に貸し付けられる(所有権の移転されない)特殊な商品である。それは同時に潜在的資本でもある。そこで、貨幣資本が貸し出されるさいには、所有権の移転をともなわないことを確認するために、貸し手と借り手のあいだで、法律上の契約が交わされなければならない。
 貨幣資本の使用価値は「価値を生んで増大させる能力」だ、とマルクスはいう。この貨幣資本(利子生み資本)は、返却を迫られるまで、無期限に流通しつづけ、剰余価値(利潤)をつくりだす。だが、借り入れた貨幣資本にたいしては、使用者は利子を支払わなければならない。その利子は、実現された利潤の一部から支払われる。
 とはいえ、利子率には自然利子率といったものはなく、それは「無法則的で恣意的なもの」である、というのがマルクスの見方だった。利子率の規定は法律上の契約にもとづくものであって、純粋な商取引ではないからだ。
 とはいえ、平均利潤率が利子の最高限度を決定することはいうまでもない。利子が平均利潤率よりも高ければ、だれも貨幣資本を借りようとはしないだろう。そして、利潤率が低下傾向にあるとすれば、とうぜん利子率も低下していくと思われる。
 信用制度が発達してくると、貨幣資本が銀行に集中してくる。マルクスも19世紀後半のイギリスで、金利生活者の階級が増えていることを指摘している。金利生活者はもちろん銀行にお金を預けているのだ。
 ここで、また前に戻って、貨幣資本家と産業資本家が、産業資本で生まれた利潤をどう分けあうのかを確認しておこう。
 マルクスは、貨幣資本は資本家階級の共同資本だと断言する。その貨幣資本は銀行によって貸し付けられ、大量の資本のかたまりとして、産業と市場を動かすのである。
 とはいえ、貨幣資本家と産業資本家のあいだで、利子をはさんで、総利潤の取り合いが生じるということは、両者のあいだで競争があるということだ。その場面では、貨幣をはさんで、資本の単なる所有者と資本の使用者が向きあっている。
 しかし、それは対立とはかぎらない。産業資本家である企業者は、剰余価値の一部を貨幣資本に回し、みずから貸し手となることもできるからである。とはいえ、資本家のだれもが貨幣の貸し手となる道を選び、企業者が減ってしまうなら、剰余価値は生まれず、貨幣資本は減価して、利子率はとてつもなく下落してしまうだろう、とマルクスはいう。
 したがって、利子生み資本はあくまでも剰余価値に従属する。
 利子と利潤のあいだには、どこかに力の均衡があると考えられる。異常に低い利子率は、慢性的な貨幣資本への偏りを示しているのではないか、とハーヴェイは指摘している。
 これは現在の日本の状況を示すものだ。つまり、利潤が企業の投資に回らず、不均衡に貨幣資本化している可能性がある。
 銀行から資金を借りて企業を運営する産業資本家は、企業利得をみずからの監督賃金と考えるきらいがある。しかし、それはまちがいだ、とマルクスは断言する。企業活動によって生じる総利潤にもとづく、利子や企業利得は剰余価値の一部にほかならない。
 資本と経営が分離されて、監督者、管理者としての経営者が存在する場合も、経営者への報酬は、利潤のなかから支払われている、と、マルクスは明言する。
 しかし、この問題にからんで、ハーヴェイはこう述べている。

〈マルクスの時代には、監督賃金はおそらく、実際に生み出された企業者利得よりもはるかに低いものだったろう。しかし、いったんこの区別[資本と経営の区別]が導入されたら、次には所有者と監督者とのあいだの力関係はあらゆる点で引っ繰り返ることになる。株式会社の場合、監督者──CEOや経営者──はますます所有者を犠牲にして自分たちの私腹を肥やすことに成功した。〉

 これはいかにもアメリカ的な現象である。しかし、日本とも無縁とはいえない。日本でも経済格差がますます広がりつつあるからだ。
 貨幣(利子)を生む貨幣は、まるで天の恵みであるかのようにとらえられがちだ。マルクスはこういう見方こそ、資本崇拝にほかならないと指摘する。ここでは資本はあたかも無限の複利を生みだすかのように観念されている。だが、それはもちろん幻想にすぎない。
 ただし、マルクスのいうように、資本主義制度の発展とともに、さまざまな商品の取引が活発になり、それとともに信用制度が拡大され、一般化しているのはたしかだろう。
 マルクスの時代においても、貨幣はますます「計算貨幣」としての性格を強め、支払いを約束する「手形」も信用手段として流通するようになっていた。手形のことを、マルクスは「擬制資本」と呼んでいる。手形とは、創出された貨幣であり、その名目価値は、当時、すでに金の総額をはるかに超えていた。加えて、銀行自体も銀行券を発行し、信用を拡大するようになっていた。
 マルクスによれば「貨幣の個々の貸し手に代わって、銀行業者は貨幣のすべての貸し手の代表者として、産業資本家と商業資本家に相対するようになる」。
 銀行が登場したところで、『資本論』は信用制度の分析にはいっていく。この前後の記述は、マルクスがさまざまな著書からの引用と簡単なメモしか残していないので、綱渡りのように記述をつないでいくしかない、とハーヴェイは嘆いている。
 たしかに、どうもすっきりしないのである。

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