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信用と恐慌──ハーヴェイ『〈資本論〉入門(第2巻、第3巻)』を読む(7) [本]

 信用制度に関する考察を、マルクスは完成することができなかった。
『資本論』第3巻に残されている書きおきは、多くのメモと抜粋からなる。
 だが、それはマルクスが信用制度を軽視していたということではない。
 ハーヴェイはこう書いている。

〈信用制度は、貨幣資本の流通を一種の中枢神経系として再配置し、資本一般を再生産する資本の流れを誘導する。さらに、それは資本の社会化を含意しており、それは資本の性格にある抜本的な変化が生じていることを示唆している。〉

 株式会社は信用制度の産物だったともいえる。
 意外なことに、マルクスは当時、勃興しはじめていた信用制度と株式会社を、非資本主義へと向かうステップとさえ考えていたのだという。
 20世紀後半まで、信用制度は金属(金銀)準備を基礎にしていた。
 信用制度の基軸は中央銀行であり、中央銀行の発行する銀行券は、金属貨幣との兌換性を保証されていた。
 信用貨幣(紙幣)と商品貨幣(金銀銅貨)とのあいだには緊張関係がある。
 生産量のかぎられている商品貨幣だけでは、お金の動きが窮屈になり、生産の拡張は制限されてしまうため、信用貨幣の登場は必至だった。それでも、信用貨幣の信頼性は、商品貨幣との兌換性によって保証されていなければならなかった。
 1970年代以降、信用貨幣はさらに自立をはたし、もはや金属貨幣の裏づけを必要としなくなった。世界がもはや金本位制に復帰する可能性はまずないだろう。いまや信用貨幣を保証しているのは、各国(あるいは地域連合)の中央銀行である。
 信用制度のはじまりを、マルクスは高利貸資本にみている。その後、利子生み資本が発生する。こうした一種の信用制度は、産業資本主義以前から存在していたのである。
 高利貸資本はひとつの経済権力である。だが、それは資本主義的生産を生みだしたわけではない。古い体制に寄生虫のようにしがみついて、その体制を弱体化させていく。実際、高利貸資本は、封建的領主と小生産者を没落させ、それによって、資本主義的生産様式の到来を準備する役割を果たした、とマルクスは述べている。
 利子生み資本は高利貸資本の延長にある。しかし、利子生み資本の場合は、借り手が潜在的な資本家だというところに特徴がある。マルクスによれば、「財産はないが、精力、決断力、能力、事業知識のある人物が、このようにして[利子生み資本を借り入れることによって]資本家に転化される」。
 利子生み資本は資本に直結している。そして、商業資本と産業資本が発達するにつれて、利子生み資本もそれに付随して発展していく。
 利子生み資本の役割を担ったのが銀行である。
 さらに現在では、中央銀行と銀行が結合し、「国家─金融結合体」が生まれている、とハーヴェイはいう。経済社会全体を金融面でコントロールしようとする体制である。
 資本が全面的に展開するためには、信用・銀行制度の発展が欠かせない。
 しかし、驚くべきことは、マルクスが「信用制度が、資本主義的生産様式から協同労働型の[つまり社会主義的な]生産様式へと移行するに際して強力な梃子(てこ)として役立つ」と記していることである。
 だが、この文言からどういうイメージが引き出せるかは、あまりにも漠然としている。むしろ、その後の社会主義的計画経済の失敗から学ぶべきだろう。
 それはともかくとして、信用制度の歴史的発展を踏まえながら、マルクスは信用の役割と銀行制度をめぐって考察をつづけている。
 もう一度、おさらいになるが、マルクスはこんなふうに考えていた。
 信用の役割は、貨幣の流れをスムーズにして、資本の循環を促進することにあった。その役割をはたすためには、金銀に束縛される通貨を脱して、紙幣が創出されなければならなかった。
 信用を媒介することで、資本は株式会社形態をとることが可能になる。そして、強化された資本のもとで、生産規模は劇的に拡大する。
 マルクスは信用と株式会社が、「私的所有としての資本の廃絶」につながるという構想をいだいていた。資本が個人の所有ではなくなっていくからだ。
 だからといって、マルクスが信用と株式会社を絶賛していたわけではない。
 株式会社の発足によって、そこには資本家とは異なる経営者という新人種が登場するかもしれない。だが、株式会社は同時に、金融貴族を生みだし、創業者、投機家、名目だけの役員といった新種の寄生者も生みだす、とマルクスは書いている。
 さらに信用制度のもとでは、資本家は単に金を借り、他人の貯蓄を使って金を稼ぐという構図も生まれる。ハーヴェイによれば、それは「略奪による蓄積」といってよいものだ。
 加えて信用制度は、過剰生産や商業における過剰投機をもたらす危険性をはらんでいる、とマルクスはいう。
 要するに、信用制度とは、資本が価値増殖の限界を突破する手段なのだ、というのがマルクスのとらえ方だとみてよい。
 それは、もちろん資本家側に都合よくはたらく。しかし、マルクスは株式会社を労働者の協同組合に変え、協同組合が結合資本を管理するとともに、すべての信用を労働者管理国家のもとに集中するという展望をえがいていたように思える。
 この構想について、社会主義を信用していないぼくはいささか懐疑的だ。

 ところで、銀行について、ハーヴェイはこう書いている。

〈銀行業者は、生産のために貸付資本を提供することもできるし、生産された商品を購入するための信用[たとえば住宅ローン]を消費者に提供することもできる。……支払手段(消費者信用)に対する要求と購買手段(貸付資本)に対する要求とはけっしてシンクロしているわけでも、均等であるわけでもない。しかし、どちらかが不足すると、産業資本の流通内部に制限がつくり出される。〉

 これは信用制度が生産過程にも流通過程にも入りこんで、資本の価値増殖に寄与するということを意味している。
 ここで、マルクスは擬制資本(架空資本)という考え方を持ちだしている。これは貨幣資本が剰余価値を生みだしているわけではないのに、あたかもそれ自体が利子を生むかのように錯覚されるような資本の形態をさしている。
 言い換えれば、擬制資本とは、「自分自身で価値増殖する自動体としての資本という観念」にほかならない。
 有価証券はそうした擬制資本のひとつである。それは実際には「[株主が前貸しした貨幣によって充当された]資本が実現するべき剰余価値に対する比例半分的な所有権限にすぎない」。その資産価値は、期待や思わくに応じて、上がったり下がったりする。
 したがって、擬制資本の購入は、実際には投機である。だが、こうした擬制資本は、膨大な利子生み資本、あるいは貨幣貸付資本として、金融市場を徘徊することになる。
 マルクスは銀行(いまなら証券会社を含む)の資本の大部分が、手形と国債証券、株式などの擬制資本から成り立っていると指摘している。だが、その資本はもともと、公衆が銀行に預けた資本なのだ。
 マルクスの銀行論は体系化されておらず、断片的な記述にとどまっている。しかし、ハーヴェイはその概観を把握するのは可能だとみている。
 まずマルクスが注目するのは、信用制度には階層的構造があるということだ。
 その頂点には中央銀行があり、その下に銀行(や証券会社)がある。ほかにもブローカーや貨幣資本家などが商品貨幣を扱っている。だが、それはルーズに結合したシステムであって、信用の動きは中央銀行のコントロールをすりぬけていく。
 国家は中央銀行を掌握することによって、経済社会における貨幣の流れを調整しようとする。だが、その秩序は常に安定しているとはかぎらない。
 銀行は資本家や労働者、地主などの余剰貨幣を一時的または長期的にプールする場所として機能する。だが、その余剰貨幣は、単に保管されるだけではなく、どこかに貸し付けられ、利子をともなって銀行に環流する仕組みになっている。
 その貸し付けの内訳は、産業資本や商業資本への貸し付け、国家への貸し付け(国債の購入など)、住宅ローンなどの消費者ローン、天然資源、土地・不動産などへの投資、株式など擬制資本への投資などからなる。
 問題は貨幣資本の世界が、変動性と不安定性に満ちていることだ。
 マルクスは、ほんらい貨幣資本の役割を、資本の循環をスムーズにし、資本の回転を滞らせないようにすることだとみていた。だが、現実はそれだけではなかった。
 ハーヴェイにいわせれば、貨幣資本は過剰流動性をもっており、経済を振り回しているのだ。
 マルクスは金融のそうした異常な側面に困惑していた。しかし、経済が周期的な好況と恐慌をくり返すのは(現にマルクスの時代はほぼ10年ごとに恐慌が発生していた)、背後に貨幣資本の動きがあるのではないかと勘づいていた。
 富の蓄積は、擬制資本の増大をともなうことが多い。擬制資本は現実に資本価値として流通するけれども、それは幻想的でもある。
 どういうことなのだろう。
 たとえば自分が財産として、ローンの残っている不動産や、証券会社で買った投資信託をもっているとしよう。だが、その財産は多くが擬制資本である。
 不動産はバブルがはじけて暴落するかもしれないし、投資信託とてその価値が保証されているわけではない。
 不動産の価値に裏づけられていると思っているローンにしても、株や投資信託にしても、それらは、じつは擬制資本、言い換えれば仮想資本なのである。
 こうした仮想資本はうまく売り抜けることができれば、現実の貨幣資本に転化することができる。しかし、それに失敗すれば、資産を失い、借金で首が回らなくなる事態を招くかもしれない。
 それは企業でも個人でも同じである。
 1991年の日本のバブル崩壊や2008年のリーマンショックにおいても、まさにそうした事態が起きていた。
 そうした波乱は世界じゅうに波及していく。
 ハーヴェイによれば「信用の増大は世界市場の創出を促進し、他方、商業の地理的規模の拡大は信用制度の拡大を必要とする」。したがって、信用はグローバル経済の展開と結びついているのだ。だが、それは一種の投機でもある。
 マルクスはグローバル経済について論じていない。マルクスが論じているのは、景気循環に信用がどういう役割をはたしているかについてである。
 マルクスによれば、資本の拡大再生産がつづいているかぎり、信用もまた拡張しつづける。ところが、資本の回転が遅れ、市場が供給過剰になり、価格が下落し、何らかの停滞が生じるようになると、信用は突然干上がり、支払いがストップし、経済はパニック状態におちいる。
 貨幣資本の過剰はバブルを意味する。バブルとは、実態以上に株価や地価が上昇し、商品が過剰になっている状態を指す。にもかかわらず、手形によって資本の価値が滞りなく実現されているような錯覚が生じているのだ。
 だが、バブルは突然はじける。
 バブルが崩壊するのは、産業資本が不足しているからではなく、資本が過剰なためだ、とマルクスは指摘している。
 そこで、有名なテーゼがでてくる。

〈あらゆる現実の究極の根拠は依然として常に大衆の貧困と消費制限なのであり、それに対して、資本主義的生産は、あたかも社会の絶対的消費能力だけが生産力の限界をなしているかのごとく生産力を発展させようとする衝動を有しているのである。〉

 これは過剰生産説である。剰余価値を含めて商品の価値が実現する(つくられた商品がすべて売れる)ためには、賃金労働者の消費だけでは不十分だ。資本家や不生産階級の消費もなくてはならない。資本家による生産的消費の追加(すなわち設備投資)も必要になってくるだろう。
 信用はその過程を促進する。産業資本家や商業資本家への融資もそのひとつだし、労働者へのローンもそのひとつだろう。
 経済に新機軸が生まれると、生産は促進され、労働者の雇用も増して、信用も加速されて、経済は好況期にはいる。だが、それが行き着くところまで行くと、経済は突然、収縮しはじめるのだ。
 銀行は不良債権をかかえ、倒産の危機に見舞われる。工場は操業停止に追いこまれる。
 そのあとつづくのが、労働者の解雇、需要の低迷、商品の滞貨、工場の運休、賃金の引き下げ、いっそうの労働者の解雇といった下降スパイラルである。
 恐慌がはじまる。
 だが、恐慌はいつまでもつづくわけではない。
 マルクスは恐慌後の回復、下降スパイラルの逆転についても述べている。
 そこでも信用は大きな役割をはたす。
 恐慌の余波から生じた遊休貨幣資本が、低い利子率で産業資本に貸し付けられるのだ。それによって資本家はその貨幣資本を生産手段と労働力に投資する。こうして、経済はふたたび景気循環の軌道を回復していく。
 景気循環に信用が連動していることをマルクスは記述している。
 マルクスのモデルでは、国家の金融・財政政策は登場しない。そのアイデアが生まれるのはケインズの時代になってからだ。だが、ケインズが万能でなかったことは、その後の歴史が証明している。
 マルクスは手形が落とせなくなる(貨幣に変えられなくなる)ところに、恐慌の発端をみて、こう書いている。

〈……これらの[手形の(ローンといってもいい)]売買が社会の必要を超えて拡張されることこそ、恐慌全体の究極的な基礎なのである。しかし、それに加えて、これらの手形のうちの膨大な量が純粋な詐欺的取引を表わしていて、それが今では明るみに出されて破裂する。同じくこれらの手形が表わしているのは、借り入れた他人の資本で行なって失敗に終わった投機であり、最後に、減価するか売れなくなった商品資本や、けっして戻ってはこない環流である。〉

 このあたりの記述はみごとである。
 だが、恐慌は一国だけでは終わらない。世界じゅうに波及していく。それは世界の国々が輸出や輸入によってつながっているからだ。
 ハーヴェイは、資本の過剰が恐慌の根源にあるという命題を掲げている。
 景気循環の波は、いまもつづいているといってよいだろう。
 ところで、産業資本と商業資本、貨幣資本の3つの資本が出そろったところで、ハーヴェイの『資本論』読解は、第3巻から第2巻へとふたたび戻っていく。ここからは資本の運動を総合して、総資本の動きが理論的に論じられることになるだろう。

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