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統治と行政──滝村隆一『国家論大綱』を読む(10) [本]

 引きつづき、滝村国家論について、雑な要約と感想をつづっている。
 きょうは、国家的活動について論じることにしよう。国家的活動をおこなうのは、いうまでもなく国家権力である。
 国家的活動は大きく分けると、対外的活動と対内的活動に分かれる。前者を外政、後者を内政と呼ぶことができる。
 しかし、より本質的にいうなら、国家の活動は統治と行政から成り立っている、と著者はいう。
 統治は国家の根幹を保持するための対外的な政治活動である。対外的というのは、外部の動きにたいして、国家がどのような姿勢を示すかという問題である。それは、具体的には、外交、軍事、通商、治安、金融などへの対応から成り立っている。
 これにたいし、行政は国民に向けられた、いわば対内的な政治的対応である。著者によれば、行政とは「国家権力による当該社会の内部的な統制・支配の全般的活動」と定義されている。
 具体的には財政政策や公共土木工事、労働政策、社会保障、警察活動などが含まれるだろう。教育や宗教政策も行政に含まれているが、それは統治にもかかわる問題といえるかもしれない。
 統治と行政はいちおう区分けできる。しかし、たとえば行政レベルで問題が解決できず、それが国家の根幹を揺るがす事態になれば、問題はとうぜん統治レベルへと格上げされることはいうまでもない。また対外的な政策が、国内に影響をもたらすこともたしかである。その点、統治と行政は密接にからんでいる。
 それでも、滝村国家論が特徴的なのは、国家権力による国家的活動を、統治と行政に区分けしたところである。統治なき行政、行政なき統治はともに国家の存立をあやうくするだろう。
 そこで、まず統治について、見ていくことにしよう。
 ここでもっとも重要なのは対外政策(外交・軍事)である。対外政策では、大げさにいえば、国家の存亡と興廃がかかっている。
 現実の世界では、主要な敵国を念頭において、政治的同盟政策が展開されている。それは軍事同盟の性格をもつから、対外政策は軍備力をともなう軍事政策と関連していく。
 現実の世界において、はたして非武装中立、あるいは武装中立はありうるんだろうか。
 国際政治の世界は、「力の均衡」によって成り立っている、と著者はいう。その均衡は、「自国の現状に飽き足らない諸国」が「飛躍的な発展」を遂げることによって崩れやすい。
 そのために「均衡」政策は、「新興政策による『秩序』の革命的破壊を未然に封殺し、局地での紛争が『秩序』破壊にまで拡大しないよう、強力に制御すること」をめざしているという。
 しかし、それが抑えられず、国際世界の政治秩序が大きく破壊されるときには、世界戦争が勃発する可能性がある。
 国家権力が外交と軍事を掌握するのは、端的にいって、国家を守るためである、と著者はいう。国際政治の現実は無視できない。外交と軍事にたいする、しっかりした自主性があってこそ、国家は守られるのだ、と著者は考えている。賢い選択が必要だろう。
 著者はさらに対外政策としての通商問題にも触れている。通商政策はけっきょく自由貿易か保護貿易かの選択に帰着する。具体的にいえば、通商政策は関税や自由化、国内産業の保護育成、輸出奨励などの問題にかかわっている。
 通商政策は、外交や軍事といちおう切り離すことができる。たとえ政治的には敵対関係にあったとしても、通商関係は経済問題として扱える。だが、いくら経済的に切り離せるといっても、経済関係の対立が深まれば、それは容易に外交問題、さらには軍事問題へと発展する可能性を内在している。
 とはいえ、外交関係の樹立なくして、通商関係がありえないことはいうまでもない。
 さらに著者は、統治にかかわる重要課題として、治安活動に触れ、それが二重に分化するとして、こう述べている。
「それは、当該社会全体を直接震撼させる、大規模な組織的違法[犯罪]活動を制圧し、また未然に制御するための特殊〈治安警察〉活動と、その他の個別的違法[犯罪]活動に実践的に対応する、一般〈行政警察〉活動との分離である」
 つまり、治安活動は、治安警察活動と行政警察活動にわけて考えることができる。そして、ここから政府に直属する治安警察と、地方の管轄する行政警察が設置されることになる。
 これはあたりまえのように思えるが、そうではない。軍と警察の分離、治安部門と行政部門への警察の分離と二重化は、きわめて近代的な現象なのである。
 言い換えれば、近代以前においては、軍と警察が一体化しており、それはすべて国家権力のための治安活動に向けられており、国民の安寧はほぼ無視されていたといってよい。
 そして、次は行政が論じられる。
 行政は資本主義的生産様式と議会制民主主義とがセットになった近代国家において、はじめて発現する、と著者は書いている。
 行政のなかでも、とりわけ重要なのが経済政策である。
 経済政策は財政政策と金融政策に分類することができる。
 基本的に国家の財政は、国民から強制的に徴集された租税によって成り立っている。
 国家財政は予算にもとづいて運営される。その予算は議会において審議され、承認される。
 国家予算は外交・軍事・治安など統治にかかわる部分と、公共事業・社会保障・医療・文教・環境・公害防止など行政にかかわる部分から成り立っている。
 財政政策が登場するのは1930年代以降である。それによって、予算は社会に還元されるようになった。それまで財政は専制的国家を維持するためにのみ運用されていた。
 いっぽうの金融政策は、中央銀行が金融の流れを調節することによって、金融制度全体の維持・安定をはかることを目的としている。
 とりわけ1930年以降は通貨が兌換制から管理体制へと移行するなかで、金融政策の重要性が高まってきた。金融政策は景気循環を調整し、とりわけ恐慌を防止する手段として、広く活用されるようになった。
 社会政策はもっとも新しい分野である。著者によれば、社会政策が本格的に展開されるようになったのは第2次世界大戦後であって、「社会的な弱者・貧困者への国家的保護・救済の必要」が高まったからである。
 その背景には、普通選挙制度を通じて議会制民主主義が定着し、それによって労働組合が大きな勢力として登場したことがあるという。
 とはいえ、社会政策には長い前史がある。それは治安維持と結びついた救貧行政からはじまって、失業者対策などの労働政策、さらに社会保険の導入へとつづき、現在では医療・失業・年金の社会保険に加えて、生活保護の公的扶助が加わるようになった。
 著者によれば、社会政策は「個別資本による労働者への際限なき苛酷な搾取と抑圧に、国家権力が〈平均的な必要労働[つまり雇用]の保障〉という、一定の歯止めをかけるもの」であったという。
 つまり、社会政策には、労働者の生活を改善することで、労働者階級の反乱を防ぐとともに、消費市場を拡大するねらいがあった。
 そして、最後が公教育である。著者は、公教育とは単に国家による教育を指すのではないという。それは国民教育でもあって、「国家権力が社会構成員[国民]の全子弟に対して、一定期間明確な目的をもって行なう学校教育」であり、義務教育としての性格をもっている。
 さらに著者は、「〈公教育〉とは、国家権力による目的的な人間形成であり、とりもなおさず〈近代社会〉に対応した社会的人間を、目的的につくりあげるためのものであった」と述べている。
 そのため、公教育においては、読み書きそろばんに加えて、自然科学の知識や道徳・倫理、社会・歴史の知識が生徒に注入される。それは、国民になるための「思想的・イデオロギー的教育」の性格をもっている。
 以上で、統治と行政からなる、国家権力の実質的構成が概観された。
 滝村国家論はいかにもぶっきらぼうである。
 しかし、それは国家嫌いの左翼の幻想を打ち破るとともに、国家至上主義の思想を振りまく右翼にも痛棒をくらわす性格をもっているのである。

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