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三権分立論──滝村隆一『国家論大綱』を読む(11) [本]

 著者は、国家権力は一般的に専制的な形態をとるという。民主主義が採用されるのは、短期間の例外を除いて、近代以降であるにすぎない。
 なぜ近代国家は民主主義的な形態をとるのだろうか。
 近代国家の特徴は、巨大な国家組織を備えていることだ。自由な社会に対応するためには、それだけの組織が必要になってくるからである。
 しかし、その巨大組織が時の支配者や官僚によって恣意的に運営されたとしたら、どうなるだろう。かつてない専制国家の暗黒が到来するにちがいない。
 そうした危惧が、議会制民主主義を生んだ、と著者はいう。
 議会制民主主義は、三権分立の上に成り立っている。
 三権分立とは、いったい何をさしているのだろう。
 三権分立とは、司法、行政、立法がそれぞれ機関として分離、独立し、牽制しあう権力のありかたをさす、というのが一般的な理解かもしれない。
 三権分立を唱えたのは、18世紀フランスの思想家モンテスキューである。かれが三権分立を提起したのは、絶対王政による専制に対抗するためである。そのこと自体、議会制民主主義とは直接関係がなかった。にもかかわらず、その後の議会制民主主義の発達によって、三権分立は近代国家の組織原理として欠かせないものになった。
 議会、政府、裁判所は、かならずしも立法、行政、司法と直接対応しているわけではない、と著者はいう。
 議会は法律の裁可と決定をおこなうだけではない。政府の行政裁量を監視したり査問したりする国政調査権も有している。裁判官の違法行為を裁く弾劾裁判権ももっている。
 いっぽう政府は、法律にもとづいた執行をおこなうだけではない。その行政的執行が、法解釈の変更をともなってなされることもある。それが、実質的な法的執行につながることもある。また国によっては、執行機関が官庁職員にたいする内部的な行政裁判権を有することもあるという。
 さらに裁判所もまた司法権を有するだけではない。裁判の判決を通じて、実質的な法的規範の定立をおこなうこともある。
 このようにみると、議会、政府、裁判所も、単純に立法、行政、司法をおこなっているわけではない。したがって、三権分立は単なる議会、政府、裁判所の役割分担を意味するわけではない、と著者はいう。
 著者によれば、重要なのは法律が国民に適用されることだけではなく、その法律を執行している国家権力自体が違法行為を犯していないかがチェックされること、それが三権分立の核心なのである。
 したがって、三権分立の意味は、著者によると、こうである。

〈具体的にいうと、直接には三大機関の分立としてあらわれる、三権分立制の制度的根拠は、規範としての意志の形成[立法]と、定立された規範にもとづく実践的遂行[執行]、それにこの規範としての意思の形成・支配の全過程が、定立された規範の規定にもとづいて、正しく実践されているか否かをたえず厳しく監視し、違法行為があった場合には、規範にもとづいて審査し処罰する[司法]。〉

 平たくいうと、法をつくる議会、法を執行する政府、そして法を監査する裁判所が、正しく法をつくっているか、正しく法を執行しているか、正しく法を監査しているかを互いにチェックしあう仕組みが三権分立ということになる。こうした仕組みができるのは近代以降である。
 専制的国家においては、専制的支配者があらゆる国家意志の決定権を握り、三権は未分化ないし形式上のものにとどまっている。
 しかし、そこから議会が分離独立すると、民主主義のもと国民の総意が法律として形成されるようになる。さらに専制的支配者がもっていた裁判権が司法として独立すると、形式的には司法権が最高の権力となって、法治国家が成立するのである。
 三権分立において、もっとも重要なのは、議会制民主主義によって、議会が立法権を独占的に掌握することである。しかし、政府の強大化が進むと、議会が形骸化され、挙げ句の果てに、行政府の長が自分は立法府の長でもあると宣言するような奇妙な事態も生じてくる。これは三権分立の実質的解体を意味する。
 こうした事態を避けるためには、国民が中央ならびに地方の議員を直接選出するだけではなく、中央ならびに地方の首長をも直接選出できるようにしなければならない、というのが著者の考え方である。すなわち、あいまいな議員内閣制を避け、大統領制と議会の組み合わせにもとづく、行政府と立法府の分離こそが、近代法治国家のあり方だということになる。
 三権分立にもとづく近代国家においても、国家権力の中心が実質的には行政権にあることはまちがいない。しかし、民主的な法治国家においては、独立した立法権と司法権が行政権の暴走をチェックする役割を果たす。
 そうした政治形態が可能になるのは、民主制のもとにおいてでしかない。民主制の根本は、国家意志の形成に国民が直接・間接に関与し、参画しうるところにある。
 逆に国民が国家意志の形成にかかわれない場合は、そこでは専制が敷かれているということになる。専制のもとでは、諸個人の現実的・精神的な自由が大幅に制限されている。近代以降に登場した、ファシズム国家や社会主義国家は、そうした専制国家の典型だったといえる。
 以上で『国家論大綱』(第1巻、第2巻)全3巻のうち、大ざっぱながら、約3分の1を見てきたことになる。少しくたびれてきた。このつづきは、気力が戻ってきたところで、ということで。

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