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商品と価値──ハーヴェイ『〈資本論〉入門』を読む(2) [商品世界論ノート]

 最初にマルクスは、資本が生産を担う世の中では、商品があふれかえっていると述べている。19世紀後半がそうだったのだから、まして21世紀の現在、その傾向はますます強まっているといえるだろう。。
 ハーヴェイは「われわれはあらゆるところで商品に囲まれており、商品を買い物し、眺め、それをほしがったり拒否したりして時間を過ごしている」という。
 マルクスが関心をもつのは、商品がどのように求められ、使われているかという問題ではない。商品がもつそうした価値は「使用価値」と名づけられる。だが、使用価値の問題は、歴史研究ならともかく、経済理論においては捨象してよいと考えられている。
 マルクスにとって、だいじなのは、市場で商品が一定の価格によって売買されることである。商品はなぜ市場で交換が可能になるのだろう。われわれなら商品に価格がついているからだと考えるが、マルクスはそうではない。もっと根源的に、商品には「交換価値」があるからだととらえる。
 そして、ここから交換価値を中心とした、はてしない議論がはじまるのである。
 その議論を紹介する前に、ぼく自身の関心を話しておいてもいいだろうか。
 ハーヴェイは「われわれはあらゆるところで商品に囲まれて」いると書いている。これはほんとうだが、かならずしもそうとは言いきれない。
 いうまでもなく、商品は市場で売買されているものを指す。
 たしかに、われわれがもっている車やテレビ、パソコン、冷蔵庫、洗濯機、掃除機、それにスーパーなどで買う食料品なども、すべて商品である。
 商品がなければ生きていけない。その意味で、「われわれはあらゆるところで商品に囲まれて」いる。そんなとき、たとえば、そうした商品のなかった江戸時代の人は、どんなくらしをしていたのだろうか、とふと思うことがある。われわれのくらしは、ほんとうに進歩しているといえるのだろうか。
 それに、商品をめぐる定義もある。いったん売買されてしまえば、再度、中古品として市場に出されないかぎり、商品は商品でなくなる。だから、われわれはあらゆるところで商品に囲まれているといっても、正確にいえば、それはもともと商品だったものというのがほんとうで、売られている商品は、いったん買われると、あくまでも自己の所有物になるのである。
 だから、商品を動かしているのは、それを所有したいという強い欲望だといえるかもしれない。その欲望を力ずくで満たすことは、犯罪や強奪につながる。しかし、交換にもとづくものであれば、それは正当だと認められることになる。
 商品の歴史は、人間の欲望の歴史でもある。それを抜きにして、商品は語れない。そして、その欲望が飽食に達したときは、いったんの眠りがおとずれ、また次の欲望をかきたてる何かが生まれるのだろう。商品の波はいつもそんなふうに動いてきた。
 マルクスがそんな商品世界の歴史を、使用価値の問題として抽象化し、捨象していることは、念頭に置いておくべきだろう。
 マルクスがとらえようとするのは、それよりも資本のつくりだす世界の構造であり、ダイナミズムである。かれは資本の一般理論を構築したいと考えていた。
 マルクスにとって、重要なのは、商品本体がどのような実用性あるいは欲望充足性をもつかということより、それが売買を通じて交換されること自体の意味をさぐることである。そのために、使用価値の問題はとりあえず脇において、交換価値の実体が追求されることになる。
 いうまでもなく、商品の価値は、使用価値と交換価値から成り立っている。そのどちらかが欠けても、商品は成立しない。
 たとえば空気や水などのように、ものすごく有用であっても、値段がゼロならば、それは商品ではない(もっとも近ごろはきれいな空気も水も貴重になってきた)。逆に、腐った野菜のように、いくら値段がつけてあっても、だれもほしいと思わないものであれば、それは商品にはならない。
 しかし、マルクスがここで使用価値の問題を捨象するのは、使用価値があまりに多様であるためではない。資本にとっては、交換価値の実現、ありていにいってしまえば、早く商品を売ってカネに変えることが、何よりも重要だと認識しているからである。
 そこで、交換価値とは何かということである。
 交換価値といえば、ふつうは価格を連想するだろう。
 しかし、マルクスは、交換価値は同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働に還元されるという。
 この抽象的人間労働というのがわかりにくい。
 交換価値が価格としてあらわされているとして、商品によって価格にちがいが生じるのは、商品に投下された労働量の大きさが異なるということだろうか。
 だが、それはなぜ抽象的人間労働なのだろうか。
 抽象的人間労働といわれれば、対称的に具体的人間労働ということばを思い浮かべるだろう。具体的人間労働は、目の前の自然や素材に対応して、人間にとって有用なものをつくりだす。具体的人間労働は使用価値を生みだす労働である。その労働のあり方は、それぞれじつに多様だといえる。
 これにたいし、抽象的労働は一律なものととらえられる。
 具体的と抽象的のちがいを理解するには、たとえば町を走っている車を考えればよい。そこにはトヨタのエスクァイア—やヴィッツ、日産のマーチ、ホンダのフリード、三菱のパジェロ、スズキのアルトなどなどが走っている。それらは実際に走っている具体的な車である。しかし、それらを一律的にとらえれば、そのどれもが同じ「車」というジャンルに属することになる。
 労働も同じことがいえる。それは、どれも具体的には別々なのに、一律にみれば、それらはどれも抽象的な「労働」なのである。
 抽象的とは目に見えないということでもある。商品には、それぞれ商品をつくるのに必要な労働が投入される。しかし、それが商品として市場に並べられるときには、その交換価値は価格としてあらわされるしかない。それが抽象的という意味である。市場で並べられた商品の背後には、その商品を苦労してつくった人間の姿があるはずなのに、それは消されてしまって、目に見えるのは製品と価格だけということになる。
 マルクスはこの価格を交換価値、さらには抽象的人間労働へと還元していくのである。とはいえ、価格はおのずから決まる。同じパンをつくるのに、3時間かかるヘタな職人と1時間しかかからない上手な職人がいたとする。だからといって、ヘタな職人がつくったパンを900円とし、上手な職人がつくったパンを300円とするわけにはいかない。ヘタな職人がつくったパンも300円でなければ売れないだろう。
 だから、マルクスは交換価値の本質を「抽象的人間労働」から、さらに「社会的必要労働時間」と言い換えるのである。
 社会的必要労働時間は、生産性の水準によって変化するだろう。生産性が2倍になれば、たとえばいままで2時間かかってつくられていた製品が1時間でできるようになる。すると、同じ商品の交換価値、すなわち価格は半分に低下する。ハーヴェイのいうように「われわれが『価値』と呼ぶものは不変なものではなく、絶えざる革命的変革にさらされている」。
 もう一度確認しておこう。商品の価値は、使用価値と交換価値によって二重化されている。使用価値だけでも交換価値だけでも商品は成立しない。だが、経済学においては、使用価値の問題は捨象することができる。
 したがって、交換価値のみを検討することにすれば、商品の価値は交換価値だと言いきってもよい。その交換価値は、人間労働を根拠としており、社会的必要労働時間によって決定される。そして、社会的必要労働時間は需要と供給の均衡を前提としている。これが大まかにいって、マルクスのこれまでの議論だといってよい。
 ここで、もう一度、商品の流通プロセスをふり返っておこう。
 資本家、労働者という言い方をするのではなく、ここでは生産者、消費者という言い方をする。というのは、資本家、労働者はともに生産者でもあり、消費者でもあるからである。商品の流通プロセスにおいて登場するのは、あくまでも生産者と消費者としてくくられる主体である。
 商品の流通プロセスは、次の3段階の図式で示される。

(1)生産者→商品(価値:交換価値─使用価値)←消費者
(2)生産者→商品(使用価値)→消費者
(3)生産者←商品(交換価値)←消費者

(1)の段階では、それぞれ顔の見えない生産者と消費者が、市場で商品をはさんで向きあっている。その商品をめぐって生産者と消費者とのあいだではさまざまな葛藤が巻き起こっている。しかし、マルクスは需要と供給は均衡しているとみなして論議を進める。
(2)と(3)の段階では商品が動くが、それは同時に発生するプロセスである。だが、流れは逆だ。消費者は商品を手に入れ、代金を支払う。逆に、生産者は商品を手放し、代金を得るのである。
 商品を手に入れることによって、消費者の生活世界には変化が生じる。商品には一瞬で消えていくものから何十年も残っていくものまで、さまざまなものがあるだろう。商品は購入された時点で、商品ではなくなり、自己の所有物へと転じている。したがって、それはどんなものであっても、生活世界を変えていくことになるのである。
 いっぽう、商品を売ることによって、代金を得た生産者もまた変化していく。そこからは、資本の世界が新たに展開されていくことになるだろう。
 マルクスが検討しているのは、おもに資本の世界であって、生活世界ではない。商品世界は(1)(2)(3)すべての世界をさすが、マルクスが把握しようとするのは、抽象化され形式化された(1)と(3)の世界である。したがって、そこでは資本の世界構造が追求されているといってよい。
 またしても前置きが長くなってしまった。
 ごたくはこれくらいにして、先に進むことにしよう。

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