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価値形態と物神性──ハーヴェイ『〈資本論〉入門』を読む(3) [商品世界論ノート]

 ハーヴェイの解説書にもとづいて、相変わらず自己流の『資本論』読解をつづけている。
 マルクスは何が何でも商品の価値を労働に還元しようとするため、相当な無理を重ねているようにみえる。
 商品が交換可能となるのは、それが抽象的人間労働を実体とする交換価値をもつからだとされる。だから、商品が交換される場面においては、じつは社会的必要労働時間からなる価値どうしが交換されているということになる。
 この過程はもちろん目に見えるわけではない。現実に生じているのは、たとえばコンビニでおにぎりを100円で買うといったことである。
 商品はなぜ売ったり買ったりすることができるのだろう。コンビニなどでおこなわれているのは、商品とお金のやりとりだが、お金を貨幣商品とみるならば、ここでくり広げられているのは、商品どうしの交換だということになる。
 そこで、マルクスは商品の価値形態が、どのように商品そのものから貨幣へと移行していくのかを考察していく。
 それが、いわゆる「価値形態論」である。ここでは商品のなかから貨幣がいかにして生まれていくのかが、論理的に実証されることになる。
 論理的にというのは、歴史的には、はたして商品が先か、貨幣が先かはよくわからないからである。これはニワトリが先か卵が先かの論争に似て、頭の痛い問題である。
 しかし、マルクスにとっては、断然、商品から貨幣が生まれないと困るのである。貨幣もまた金や銀でつくられた商品だった。商品も貨幣も同じ人間労働(抽象的人間労働)によって製造されたものである。
 価値形態論において、マルクスは商品から貨幣が生まれる過程を実証しようとした。ところで、ぼくは思うのだが、ここで示されたのは、商品から貨幣が生まれたということよりも、貨幣がなければ商品は存在しえないということなのではないか。
 商品がなければ貨幣がないのではなくて、貨幣がなければ商品はない。ここには商品のもうひとつの謎が隠されている。マルクスもそのことにうすうす気づいていたように思われる。
 それはともかくとして、ハーヴェイはこのあたりをどう解説しているのだろうか。
 マルクスによると、商品の価値形態は4つの段階を経て、貨幣形態にいたる。
 それを図示しておこう。

(1)a量の商品A=b量の商品B
(2)a量の商品A=b量の商品B or c量の商品C or d量の商品D……
(3)b量の商品B or c量の商品C or d量の商品D……=a量の商品A
(4)b量の商品B or c量の商品C or d量の商品D……=e量の金

(1)は物々交換のようにみえるがそうではない。a量の商品Aがb量の商品Bにみずからを関係づけ、その価値を商品Bに投影しているだけである。
 マルクスは商品Aが相対的価値形態をとり、商品Bが等価形態をとるとしている。つまり、商品Aはみずからの価値を商品Bによってしかあらわせないから相対的なのであり、商品Bは商品Aによって等価のかたちをとらされるのである。
(2)においては、(1)の関係がそれこそ無限に拡大される。そして(3)においては、その関係が逆転され、さまざまな商品がみずからの価値をひとつの商品によってあらわすようになる。
(3)から(4)への移行は単純である。(3)で等価形態として指示された商品が、金や銀などの貨幣商品に転移するだけである。そして、じつは(1)と(4)は同じであったことがわかる。つまり、(1)のなかに(4)への移行は予見されていたのである。
 ハーヴェイは、この価値形態の展開について、こう述べている。
「市場システムは、ある種の貨幣商品が効果的に機能することを必要とするが、貨幣商品は、市場交換の出現を通じて初めて登場することができる」
 だが、おそらく問題は、市場交換が出現し、それから貨幣商品が登場するということではない。
 商品が最初から交換、ないし別の何かとの取り替えを求めて、みずからをアピールするというところに、商品の秘密がひそんでいるといってもよさそうである。
 このことは、商品が交換過程においてしかみずからの価値を実現できないこと、さらには何らかの等価形態(とりわけ貨幣)によってしかみずからの価値を表現できないことを意味している。
 そして、マルクスにとっては、商品が貨幣によって、みずからの価値を表現することのなかに、抽象的人間労働、厳密には社会的必要労働時間の量が表出されるということになる。
 つまり、重要なのは、マルクスが価値形態論において、貨幣が存在しなければ、商品はみずからの価値を表現できないことを明らかにした点である。商品から貨幣が生まれるというのは、いわば論理的な綾にすぎない。
 商品が交換過程においてしか、貨幣であらわされたみずからの価値を実現できないことから、商品はフェチ性を有するようになる。フェチ性とは正確にいえば、フェティッシュな性格ということであり、しばしば物神性と訳される。しかし、ここでは略してフェチ性ということにしておこう。
「商品はきわめて気むずかしい物であって、形而上学的小理屈と神学的偏屈にみちたものであることがわかる」とマルクスは書いている。
 気むずかしいのは、おまえさんのほうだといいたいような気もするが、へらず口はやめて、素直に引用をつづける。

〈人間がその活動によって、自然素材の形態を、人に有用な仕方で変えるということは、真昼のように明らかなことである。例えば材木の形態は、もしこれで一脚の机を作るならば、変化する。それにもかかわらず、机が木であり、普通の感覚的な物であることに変わりない。しかしながら机が商品として現われるとなると、感覚的にして超感覚的な物に転化する。机はもはやその脚で床の上に立つのみでなく、他のすべての商品にたいして頭で立つ。そしてその木頭から、狂想を展開する、それは机が自分で踊りはじめるよりはるかに不思議なものである。〉(向坂逸郎訳)

 マルクスはこうした商品の神秘的な性格を、フェティッシュ(物神的)な性格と呼んでいる。そして、人びとは、商品を物神崇拝(フェティシズム)の対象とするのである。マルクスはもちろんこうした商品の神秘性を徹底的にあばくという立場をとる。
 それにしてもマルクスのえがく机は、まるで呪物のようである。机を手に入れたい人にとっては、寝ても覚めても、その机のことが頭に浮かぶ。現代人にとっては車やパソコンがほしくてたまらないときのことを考えればよいかもしれない。商品には、そんな人を引きつける魔力のようなものがひそんでいる。それをマルクスは商品のフェティッシュ性(フェチ性、物神性)と呼んだ。
 商品には人に強い愛着を感じさせる何かがあることをマルクスは指摘した。それは、商品がただ生産されるだけではなく、市場でデビューをはたさなければならないことを意味している。生産者も消費者も、こうした商品のデビューを、固唾をのんで見守る。市場は商品のフェティシズムが発生する場となる。商品への幻想がかき立てられるなかで、生産者はそれが高く売れることを願い、生産者は何とかしてそれを手に入れたいと願う。
 商品自体のフェティッシュ性は、興味深いテーマである。だが、マルクスはそれをたいして考察するわけではなく、商品社会全体にフェティッシュ性(物神性)の概念をかぶせ、その幻想性をあばきだすという方向に舵を切る。
 だれもが商品社会をあたりまえのように崇拝している。しかし、それは歴史的産物にすぎず、いつか「自由な人びとの協同体」によって乗り越えられていくべきものだと、マルクスはいう。
 だとすれば、われわれがフェティシズムを感じている商品世界の実態は、いったい何なのだろうか。
 マルクスの言い回しはとても難解である。ぼくにはなかなか理解できないところがある。しかし、あえていえば、市場や商品や貨幣からなる商品社会のもとでは、隠された真実がひそんでいるということなのだろう。
 その真実とは、商品社会を支えているのは、人間労働にほかならないということだ。
 商品社会は人間にとって、自然物ではなく、歴史的につくられた社会関係にほかならない。そこでは「商品生産の上で労働生産物を包み込む」魔術がくり広げられている。
 プロテスタンティズムは、そうした魔術信仰のひとつの宗教形態であり、経済学もまた商品社会の神秘性をあがめることに終始している。
 マルクスの立場は、こうした商品社会を物神崇拝するのをやめて、人間労働の現場に立ち戻り、資本主義の謎を解明しようというものである。
 ハーヴェイの本書を通して、ぼくはこんなふうに『資本論』を勝手に読みこもうとしている。あまりの難解さに頭がへんになりそうだが、ここであきらめずに何とか先まで進んでみたいものだ。

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