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ポランニーとウィーン──若森みどり『カール・ポランニー』を読む(2) [思想・哲学]

 第1次世界大戦後、ウィーンでは社会民主労働党が10年以上にわたって政権を保持し、労働者の生活改善や福祉政策、教育改革などに取り組んでいた。「赤いウィーン」と呼ばれたゆえんである。
 このころウィーンに亡命していたポランニーの関心は、中央集権的ではない社会主義の可能性を探ることであった。
『ビヒモス』と名づけた長大な草稿を書きつづけるかたわら、ポランニーは新聞や雑誌にさまざまな論説を寄稿するようになる。
 初期ポランニーの特徴は、自由についての独特の考え方にある。
 人は自由な意志にもとづいて行動しなければならない。しかし、その行動が人や社会にもたらす影響については責任をもたなければならないというのだ。ポランニーの場合、自由は社会への自覚および責任と裏表一体の関係になっていたといってよいだろう。
 こうした考え方がでてきたのは、ポランニーがハンガリーにおけるベラ・クン共産党独裁政権のもとでの弾圧を経験したからにちがいない。ほんらい解放をめざすべき共産党政権が、なぜ独裁と弾圧に転じてしまうのかという疑問が、渦巻いていた。
 1920年から22年にかけて書き綴られた草稿『ビヒモス』(その全容はまだ公刊されていない)において、ポランニーは一見実証主義的な社会科学を絶対視することに疑問を呈している。
『ビヒモス』のなかで、ポランニーは、人間は自由に行動しているようにみえても、実際には国家や社会、取引や市場、学校や労働組合、世論、風習、近所、知り合いの意志に従っていることが多く、私の自由の領域は意外と少ないものだと論じている。
 すると、自由とはいったい何だろう。

〈私は堅固な客観性として存在する疎遠な意志の力が直面する、ささやかな疑問符となるだろう。〉

 私が提出するのは、堅固な慣性(イナーシア)にたいする「ささやかな疑問符」でしかない。しかし、たとえそうであっても、自由は疑問符から発するのだ、とポランニーはいう。
 それは科学的法則とされるものにたいしても同じである。
 決定論的な見方は「人間の自由の倫理的な意味を排除する」。
 これは科学的社会主義なるものによって独裁権力を正当化しようとするマルクス主義者の傲慢にたいする痛烈な批判ともなりうる。
 ポランニーは歴史法則や経済法則をけっして自明のものとして、受け入れない。あくまでも、自由な意志を尊重するのだ。
 しかし、意志の自由を確保するには、不断の努力を必要とする。それは、いつも全体性によって押し流されてしまいがちになるからである。
 自由には条件がある。人が自由を求めるのは、理想を追いかけるからだ。だが自由が価値をもつのは、責任をともなう場合においてのみである。
「われわれは、尽きることなく自分たちの内的願望に責任を付与することによって、自分たちの世界を創出していかねばならない」
 ポランニーにとって、社会主義とは倫理にほかならなかった。資本家が労働者を「自由に」搾取するのはまちがっている。かといって、共産主義者が反対派を「自由に」暴力で抹殺するのもまちがっている。社会主義の理想は、自由と責任の論理によって裏づけられていなければならなかった。
 ポランニーの社会主義は、ソ連型の中央集権制とはまるでちがっていた。

 ウィーン時代にポランニーがかかわった論争がある。
 当時、オーストリアの経済学者ミーゼスは、社会主義のもとでは、合理的な経済計算ができないと主張した。簡単にいえば、社会主義は経済的に成り立たないということでもある。
 これにたいして、ポランニーは反論し、「社会主義経済計算は集権的社会主義経済のもとではできないが、機能的民主主義に基づく社会主義システムの下においては可能である」と論じた。
 ここでポランニーがもちだしている社会主義のモデルは分権的である。
 それは生産者評議会(アソシエーション)と消費者評議会、それにコミューン(民主的政府・自治体)から成り立っている。
 諸個人の生活は、生産と消費、くらしによって成り立つが、そうした分野は、生産者評議会と消費者評議会、コミューンによって社会的に保証される。
 生産者評議会は生産に責任をもち、消費者評議会は流通に責任をもつ。コミューンの役割は、社会全体の調整をおこない、公共サービスを向上させることである。
 さらに、くらしを支える賃金や物価の基本は、コミューンを含む3者の交渉と協議によって決定されることになっていた。
 社会主義経済がめざすものは最大生産性と社会的公正である。効率のよい生産と、生産物の公正な分配、それに生産調整がなされねばならない。
 ポランニーは価格システムにもとづく社会主義を構想していたともいえるだろう。その場合、社会主義企業がどのようにものになるのか、その具体的なイメージははっきりと描かれているわけではなかった。しかし、かれは社会主義のもとでこそ、より適切な賃金と、社会的費用の公正で透明な配分が実現できると考えていた。

 1927年にポランニーは「自由論」を執筆する。
 ポランニーにとっては、自由こそが社会主義の眼目だったのだ。かれは資本主義の経済論理に縛られない自由の領域をいかに広げるかに最大の関心をもっていた。
 こう述べている。

〈社会主義者にとって「自由に行為する」というのは、われわれが人間の相互的関連──その外部にいかなる社会的現実も存在しない──に関与することに対して責任があるという事実、まさにこのことに対して責任を担わねばならないという事実を意識して行為する、ということである。〉

 ポランニーはかならずしも社会主義革命を優先しているわけではない。むしろ、自由の領域を拡大することを目指して行動しつづけることが、社会主義者の役割だと主張しているのだ。こうした考え方はジョージ・オーウェルとも共通する。
 ポランニーにとって、自由とは責任や義務からの自由ではない。カネさえあれば人間は自由に何でもできるわけではない。むしろ、なにごともカネで解決することによって、その背後にある社会の現実が見えなくなってしまうのだ。
 これにたいし、ポランニーの倫理的社会主義は、社会的自由の拡大をめざす。それは権力を取得することによってなされるというより、むしろ「社会的存在の避けられない負債残高を自由にわが身に引き受け」ることによって実現されるのである。
 ポランニーは、「社会主義の生活形式」にとっては、機能的民主主義が欠かせないと考えていた。というのも機能的民主主義があってこそ、社会生活の現実が、力によって隠されることなく、透明化されるからである。
 見通しがないところには自由もない。社会的現実があらわにされることで、現実的改革ははじめて可能になるのだ。これに反して、全体主義は社会的現実を隠すことで、人びとを虚無の幻想へと巻きこんでいくだろう。

 全体主義の暗雲がウィーンにも近づいている。
 1929年には世界大恐慌が発生。それ以降、政治の流れは大きく変わっていく。オーストリアでは、保守的な傾向が強くなり、反ユダヤ主義が頭をもたげる。かつての帝国への郷愁もよみがえりつつあった。
 ウィーンを握っていた社会民主労働党に対する反発が強まっていく。オーストリアの中央政府は、もともとキリスト教社会党が政権を掌握していた。だが、社会民主党とはうまく協調をはかっていた。ところが、右翼勢力が台頭してくると、キリスト教社会党も権威主義的な色彩を強めていくことになる。
 1931年には、大銀行クレディット・アンシュタルトが倒産し、失業が急増、街頭では左右勢力の衝突が激しくなった。
 国民社会主義を名乗る右翼勢力は、まもなくナチと呼ばれるようになる。突撃隊(SA)運動が4万人の若者たちを引きつけ、オーストリアの政治をのみこんでいく。
 1932年には、キリスト教社会党のエンゲルベルト・ドルフースがオーストリアの首相になった。ドルフースはイタリアのムソリーニに心酔していたものの、ヒトラーの提案したドイツとの合併(アンシュルス)構想は拒否した。あくまでもオーストリア一国のファシズム体制をつくろうとしていたのだ。
 1933年3月、ドルフースは議会を解散し、大衆集会を制限し、新聞に検閲を課した。これにたいし、社会民主党は反発し、戦闘準備を整える。いっぽうナチはテロ行為に走った。
 5月、ドルフースは祖国戦線を創設し、政党を解散、護国団による人民国家を樹立すると発表する。社会民主労働党にたいする弾圧がはじまり、1934年2月には、オーストリア社会主義者の砦、ウィーン市庁舎に、ついに護国団の旗がひるがえる。労働組合は非合法化された。
 ドルフースが社会民主労働党を完全に追いだしたのをみはからって、こんどはナチがドルフースに攻撃をしかける。1934年7月、ナチはドルフースを暗殺した。
 この事件によって、オーストリアではかえってナチにたいする反発が強まった。とはいえ、オーストリアの政権は弱体であり、けっきょく1938年3月にオーストリアはドイツに合併されることになるのである。
 こうした激動のなか、ポランニーはどうしていたのだろう。
 1924年からポランニーは『オーストリア・エコノミスト』の副編集長となり、国際問題をテーマとして、さまざまな論説を執筆していた。その基本的な方向は、民主主義にもとづく自由で平和な国際関係の擁護であり、自由主義的資本主義に取って代わる経済体制の模索であったという。
 しかし、ファシズム勢力が台頭するなかで、1933年にポランニーはイギリスへの移住を余儀なくされるのだ。それはあたかもドルフースがオーストリアの全権を掌握し、社会主義勢力の排除をはかろうとしていた時期にあたる。
 妻のイロナは、その後もウィーンで非合法活動をつづけていた。だが、そのイロナもついに1936年にイギリスに渡った。
 ポランニーは1938年まで、「海外編集長」として、『オーストリア・エコノミスト』に寄稿しつづけた。だが、この雑誌もついに廃刊を命じられる。
 第2次世界大戦がはじまろうとしていた。

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