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小野寺百合子さんのこと(2) [人]

 昔といっても30年ほど前、「はいからさんが通る」という映画がはやったことがある。南野陽子が主演で、主題歌も歌っていた。さすがに気恥ずかしくて、映画は見たことがない。しかし、歌のベストテンのような番組で、南野陽子が大正時代の女学生の格好をして、舌足らずな調子で歌っていたのを覚えている。
 小野寺百合子さんは、いってみれば「はいからさん」だった。
 幼稚園はお茶の水幼稚園。入園したのは明治43年(1910)、満3歳のときだ。送り迎え専用の小女(こおんな)に連れられて、渋谷からお茶の水まで市電に乗って通ったという。両国行きに乗って、赤坂見附で須田町行きに乗り換えた。外堀に沿って、お茶の水まで行く道筋は、なかなか景色がよかった、と百合子さんは書いている。
 お茶の水の幼稚園の正式名は女子高等師範学校付属幼稚園である。日本では最初の幼稚園だった。現在はお茶の水女子大学付属幼稚園となり、場所も文京区大塚に変わったが、当初はまさにお茶の水(地名でいえば湯島)に、高等師範も付属女子校も付属幼稚園もあった。現在、このあたりは東京医科歯科大学が立っている。
 幼稚園は3年保育で、1の組、2の組、3の組からなり、遊戯室や付き添い用の部屋も設けられていた。お付きの人は、ひけの時間まで、この供待ち部屋で裁縫をしたり編み物をしたりして時間をすごすのである。
 百合子さんの通園は、着物ではなく洋服だった。母がシンガーの手回しミシンで洋服を縫ってくれ、靴下も夏はレース糸の模様編み、冬は黒のスコッチ毛糸の手編みだったという。
 幼稚園時代の思い出は、皇后陛下(後の昭憲皇太后)の幼稚園への行啓と、明治天皇の崩御である。
 祖父の一戸兵衛は青山練兵場での大喪に参加した。柩は大喪のあと、列車で京都まで運ばれた。一家は列車が近くを通過するとき、服装をあらためて線路の方角に向かって遙拝した。
 そのとき、伝わってきたのが、乃木大将夫妻自刃の報であった。祖母と母がふたりとも声をあげて泣き伏したのを百合子さんは覚えている。
 幼稚園を卒業した百合子さんは、そのまま付属小学校に入学した。担任の先生は1年生から6年生まで同じで、「まことに謹厳」だった。生徒ひとりひとりについて、何もかも把握していた。当時の「先生は窮屈な存在で、親しく甘えるようなものではなかった」という。
 子供たちは着物が多かったが、小学校でも、百合子さんは母の縫ってくれる質素な洋服で通した。弁当は麦飯と粗末なおかずだったが、少しも気にしなかった。
 小学生になると、もう付き添いはいらなくなり、友達もできて、通学は楽しかったという。
 第1次世界大戦では、日英同盟のもと、日本軍はドイツが基地を擁する青島(チンタオ)を攻撃し、大勝した。
 東京は提灯行列にわきたった。だが、小学生だった百合子さんは「[ドイツが]なぜ悪いか、どうして日本が出兵して撃たなければならないか」、さっぱり理解できなかったという。
 小学校の校庭では「陣取りをしたり、人取りをしたり、石蹴り、縄跳び、あらゆる遊びをして駆けずり回った」。
 学校には水道が来ていたが、渋谷の自宅に水道はまだなかった。渋谷は、まだ区にもなっていない、いなかだったのだ。しかし、家の2階からは遠くを見渡すことができて、天気さえよければ富士山がみえた。
 小学校をでると、そのまま付属女学校にはいった。女学校は5年制である。教育方針は、あくまでも良妻賢母の養成で、そのために小笠原流の作法や、様式の立礼(りゅうれい)、冠婚葬祭や贈答品のやりとりまで習った。
「人間の尊厳とか女性の自覚とかに触れる教育が皆無に等しかった」ことを、のちに百合子さんは批判している。「わが校からは平塚らいてうと宮本百合子の二人以外とびぬけた女性を出していない」と。
「ただ一つよかったことといえば私がお転婆娘で昼休みと放課後をテニスにバスケットボールにとフルに活用したことである」というあたりは救われる。
 ほんとうに元気いっぱいだったのだ。
 5年生になると、裁縫の時間に洋裁が取り入れられた。数十台の足踏みミシンがはいって、洋裁を基礎から教えられた。
 このころ、祖母の勧めで、佐々木信綱が主催する竹柏会に入会し、歌も勉強している。遠縁にあたる柳原白蓮(1885〜1967)と出会ったのも、この会においてである。ドラマ『百合子さんの絵本』では、加藤剛が佐々木信綱役を演じていた。
 大正12年(1923)の大震災のとき、百合子さんは二学期の始業式を終え、渋谷の自宅に戻っていた。
「下から突き上げるような衝撃の次にグラグラという大揺れが来て今にも家が潰れるか」と思うほどだったという。
 祖父は旅行中で、父は沼津の竹田宮邸にいた。その夜は、庭に大きな蚊帳(かや)を張って、みんなで横になったが、眠れるものではなかった。
 お茶の水の学校が全焼したため、授業は半年間、女子学習院でおこなわれた。「私にとっては御殿でお親しくしている姫宮様方とはご挨拶を交わし、英会話を勉強に言っていた双葉会の同クラスの友達とはふざけもし、むしろ楽しい半年であった」と、百合子さんはふり返っている。
 5年間の付属女学校を終えたあと、百合子さんは専攻科に進んだ。専攻科というのは、いまでいう短大のようなものであろう。
 本校(女子高等師範)に進めば、授業料は無料だが、教員義務があった。専攻科は授業料が必要だが、申請すれば教員免状がとれた。百合子さんは、結婚が整えば、いつでもやめると親に約束し、専攻科にはいった。
「専攻科卒業は満二十歳で、すでに『嫁きおくれ』と陰口を言われたものである」というから、現在とは隔世の感がある。いずれにせよ、百合子さんは無事専攻科を卒業する。
 その前に、お見合いをした。お見合い当日は大正天皇大喪の日で、ひどい雨降りだった。相手は軍人で、料亭の席に、グショグショに濡れた靴下のままやってきたことを、百合子さんは覚えている。
 相手とは何度か会って、縁談が調った。しかし、3月25日の卒業式を終えた夜、母が危篤になり、翌日の明け方に亡くなってしまう。娘の結婚を楽しみにしていた母が、あまりにもあっけなくこの世を去ってしまったのだ。
 そこで、母の遺体を前に、急遽、結婚式が挙げられることになった。
 夫となった小野寺信(1897〜1987)は、岩手県出身で9歳年上だった。陸軍士官学校を卒業したあと、陸軍歩兵少尉となり、百合子さんと結婚したときは陸軍大学校の2年生だった。
 夫は結婚してからも、軍事研究の日々で、「うちでも八畳間いっぱいにはぎ合わせた地図の上におおいかぶさって夢中で勉強する日が多かった」という。
 長女が生まれた。夫は陸軍大学を卒業すると、原隊である会津若松の第29連隊に戻り、中隊長になった。しかし、現場の軍隊生活は1年3カ月で終わる。
 昭和5年(1930)3月に、陸軍歩兵学校に転勤となり、その研究部主事兼教官に任命されたからである。
 陸軍歩兵学校は、現在の千葉市稲毛区天台にあった。校長は小畑敏四郎(1885〜1947)。小畑は小野寺を見込んで、歩兵学校の教官に引っぱったようだ。
 千葉には長くいるつもりで、家を建てた。祖父の一戸兵衛が資金を援助してくれた。だが、半年もたたないうちに転勤となる。今度は参謀本部ロシア班での勤務である。時あたかもノモンハン事件が発生し、夫の仕事はものすごく忙しくなった。
 そのため千葉の自宅をあきらめて、原宿隠田(現神宮前)に引っ越す。
 夫は参謀本部勤務に加えて、陸軍大学校の教官も兼務していたので、家庭を顧みる暇もないほどだった。
 そのころのことを、百合子さんはこう回顧している。

〈私が娘以来しみついて持っていた「武士の妻は夫をして後顧の憂いなからしむ」の精神は、戦時を想定した覚悟であったのだろうが、私は結婚当初から約十年間、平時にあって実際は戦時並みの毎日そのものであった。その間に長女、長男、次女、次男と四人の子供をもうけ、姑、小姑、義弟たちの大家族を抱えて、私の生活は最も日本的な因習に終始した。〉

 その努力も限界に達しそうになったとき、夫にラトヴィア国日本公使館付陸軍武官という辞令がでた。昭和11年(1936)のことである。
 陸軍武官は外交官の扱いで、妻は同行しなければならない。百合子さんは、かえってほっとしたようだ。「この時ほど神の恩寵を感じたことはなかった」と書いている。
 夫はさっさと赴任してしまった。姑が上の子をふたりあずかってくれるというので、百合子さんは下の子ふたりを連れていくことになり、旅の準備をはじめる。
 そのとき二・二六事件が起こった。事件はことのほか早く収拾されるが、百合子さんは叛乱軍の将校のなかに、会津時代、よくうちにやってきたふたりの名前をみつけて、心を痛める。
 当時、陸軍には統制派と皇道派の2大派閥があったことを戦後知った。あるとき夫にあなたは皇道派だったのと聞いたら、めずらしいほどの剣幕で叱られたと記している。しかし、夫が冷遇されたのは、陸軍の派閥争いが関係していたのではないか、と百合子さんは疑っていた。
 いずれにせよ、百合子さんは赤ん坊と3歳の子を連れて、ラトヴィアに向かった。マルセイユまでは43日間の船旅で、迎えに来てくれていた夫とともに、パリ、ベルリンを経て、ラトヴィアの首都リガに向かった。
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[ラトヴィア行きのパスポート写真。本書より]

 ラトヴィアはいわゆるバルト三国のひとつで、長くロシア帝国の支配下にあり、第1次世界大戦後にようやく独立をはたした。そのうち、夫はエストニアとリトアニアの武官をも兼任するようになり、周辺からロシア情報を探ることになる。そのとき、つちかった情報網が、のちのストックホルム滞在中も大きく役立つのである。
 昭和13年(1938)に夫は参謀本部に戻り、ロシア課に勤務することになった。前年から日支事変(日中戦争)がはじまっていた。夫はひそかに日支事変の収拾をはかるため、板垣征四郎陸軍大臣の許可を得て、上海にいわゆる小野寺機関をつくった。ひそかに蒋介石と直接和平交渉をはじめようとしたのだ。
 ところが、いっぽうで、陸軍は近衛首相の「蒋介石を相手にせず」の声明にもとづいて、汪精衛(汪兆銘)をかつぎだして、南京に傀儡の国民政府をつくらせようとしていた。
 こうして、小野寺工作は闇にほうむられ、けっきょく日中戦争は終わることなく、つづくのである。
 NHKのドラマは小野寺信が昭和15年(1940)にスウェーデンに赴任するところからはじまっていたが、その前にこうした軍部内の暗闘があったことを覚えておいたほうがよい。
 スウェーデン駐在の背景には、小野寺を辺境に追いやろうとする陸軍中央の意向がはたらいていたのではないだろうか。
 いま、スウェーデン時代の小野寺信をえがいた『バルト海のほとりにて』が、ぼくの手元にない。ドラマが放映されるというので、最近なかなか手にはいらないこの本を人に貸してしまったからだ。
 そこで、このつづきは、本が戻ってきてから書くことにしよう。それは、ドラマで再現されたように、おどろくべき歴史である。

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