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国家と法、宗教、人権──滝村隆一『国家論大綱』を読む(14) [本]

 理論や方法論を抜きにして、ごくごく簡単に滝村国家論のエッセンスを紹介している。これは邪道にはちがいないのだが、学者とは縁遠いぼくのような素人にとっては、いまはともかく、国家論のテーマをおおづかみにするだけで満足するほかないだろう。
 今回は、近代国家における法や宗教、人権の問題を取りあげる。
 国家の支配は、法にもとづいておこなわれる。法は公的・社会的な規範であり、個人にたいする圧倒的な強制力をもっている。そして、国家のいかなる活動も法的規範にもとづいてなされるのが、近代の特徴だといえる。逆にいえば、いかなる国家機関も法を逸脱して行動することは許されない。
 諸法の頂点に位置づけられるのが憲法である。憲法においては、まず国家権力全体の構成、つまり国家がどのような機関によって成り立っているかが規定される。これを補うのが行政法であり、そこでは個々の行政機関の組織と活動がこまかく規定される。行政法には、内閣法や国家公務員法、地方自治法、国防関連諸法、警察関連諸法などが含まれる。
 憲法が規定するのは国家権力の構成だけではない。そこには社会体制の規定もある。さらには、国民の権利と義務をも規定されている。さらに憲法の前文では、国全体の考え方や方向性が示されている。その意味で、憲法は国家の基本的骨格を法的に表現したものといえる。
 これにたいし、刑法、民法、商法などの社会法は、これまでの社会的規律や習俗、慣行などを、近代的な国民国家に対応するよう編成しなおし、国家として国民のあいだのルールを定めたものである。
 一般に法律は統治関連の法と、行政関連の法に区別することができる。統治関連の法としては、憲法や行政法、刑法、国際法などが挙げられる。また行政関連の法には、民法や商法、経済法、社会法などがある。
 統治関連の法は公法、行政関連の法は私法と分類されることもある。歴史的にみれば、公法が私法に先行するのはいうまでもない。またアジア諸国は公法を中心に発達し、西欧諸国は公法に負けず劣らず私法が発展したことを、著者は指摘している。
 法は新たな発生した事態に対応しなければならない。しかし、社会的変化への対応にはしばしばタイムラグがともなう。そのため、時代遅れの法律が改正されることなく、いつまでも存続することがありうる。とりわけ公法の分野においては、その傾向が強いという。
 国民国家においては、行政活動の活発化にともない、私法関連の法が飛躍的に増大していく。ただし、近代においても、戦時国家体制が形成される場合は、国民の市民権が制限されることはいうまでもない。
 諸法の上に君臨する特殊な公法としての憲法がつくられたのは、近代になってからである。それによって国民国家が成立した。近代憲法においては、国家権力の組織形態と、市民権(人権)が規定され、それをつなぐものとして、普通選挙権にもとづく政治的民主主義がかかげられた。
 しかし、20世紀における社会主義革命は、プロレタリア独裁思想にもとづく、きわめて特異な専制国家体制をつくりだした、と著者はいう。社会主義国家の「憲法」には人権規定がなく、そこでは財産権も自由な政治活動も経済活動も言論活動も認められていない。
「社会主義憲法における、市民としての自由と権利は、社会主義・共産主義の思想と政治・経済体制に同意し服従しているかぎりでの諸個人に付与された、紙のうえのものでしかない」と、著者はいう。
 さらに社会主義憲法には、プロレタリア独裁権力の中枢に陣取る共産党についての法的規定がなく、共産党は事実上、憲法外的な存在となっている。
 それによって、「専制的国家権力中枢のすべての政治的意志決定が、共産党中枢によって独占的に掌握される」。
 国家権力の中央から地方にいたる各種機関の指揮中枢は、共産党員によって独占される。こうして、社会主義国家では、トップを占めるのは共産党書記長であり、首相(大統領)や議会議長はその下に位置するという変則的な事態が生じる。
  社会主義憲法は、20世紀以降における「最悪の専制国家憲法」だとまで、著者は断言している。
 著者はさらに日本国憲法の特異性についても述べる。
 日本国憲法は、第9条において、戦争と軍事力の放棄を規定しているが、そのこと自体、国家主権を実質的に放棄したものだ、と著者はいう。それによって、戦後の日本国家は「実質的に米国政治的傘下の、統治能力をもたない『自治行政権力』へと、貶められた」。
 第9条を廃棄しないかぎり、日本の主権は回復されないというのが、著者の主張である。そこには、日本がこれからもアメリカの属国として、「平和と民主主義」を享受していけるのかという疑問が横たわっている。アメリカがいつまでも覇者として、世界に君臨するとはかぎらない。日米安保条約もいつか廃棄されるときがやってくる。そのときに備えて、日本は独立の気構えをもち、主権国家として自立する道を探るべきだというのが、著者のメッセージだといってよい。

 次に国家と宗教の関係について。
 近代以前においては、国家と宗教はメダルの表裏のように密接不可分に結びついていた、と著者はいう。というのも、国家の専制的支配は神的・宗教的ベールを必要としていたからである。そこでは支配者はあたかも万能の神のごとく神格化されるか、そうでない場合も宗教権力によって裁可され承認されていた。
 とりわけ西欧諸国では、ローマ帝国が解体していくなかで、ゲルマン諸族が王国や帝国を形成するには、ローマ法王による承認が必要だった。
 ところが、近代において国民国家が成立するようになると、宗教的権威による国家の承認は必要ではなくなる。議会制民主主義が発達し、国民は政治的代理人を通じて、みずからの政治的意志を国家的意志へと転成していくようになる。
 こうして社会とは無縁の外部的な政治意志が、国民に押しつけられることはなくなる。それにつれて、政教は分離され、国民は信仰の自由を認められるいっぽうで、国家権力が特定の宗教(宗派)を国教として選び、その宗教(宗派)に特権的な地位を与えることは許されなくなった。
 こうして、宗教は政治過程から分離されて、諸個人の精神的世界にのみ関係するようになり、社会関係においては、国家の法的規範が、宗教的規範よりも優先されるようになるのである。
 著者は、最後に国民国家と人権の関係についてもふれている。
 国民国家においては、他者の生命や財産を侵害しないかぎり、原則的に市民的権利が認められる。そうした権利のなかには、職業と営業の自由、思想の自由、政治活動や文化活動の自由、言論や集会の自由、信仰の自由などが含まれる。しかし、こうした自由も、戦争など社会全体の危機が発生したさいには、制限されることもありうる。
 とはいえ、近代以降の国民国家の原理が、人権論を基本にしていることはまちがいない。人権論とは、人が天賦の神聖な自然権をもつという考え方である。
 人権の基本は自由と平等である。人は法に違反しないかぎり、自由にすべてをおこなうことができる。ただし、自由の濫用については、責任を負わなければならない。
 いっぽう、人は法の前での平等を保証される。いかなる支配者も法にしたがわなくてはならない。「職業や貧富、生まれ育ちや思想・信条などのいかんで、人間を法的に差別してはならない」と著者は論じる。
 さらに自由、平等を軸とした人権論からは、民主政と国民主権の考えが導かれる。
 とはいえ、著者によれば、国民国家の原理は、単なる市民主義ではない。それは、市民—国家主義というべきものである。
 人権論はけっして反国家主義ではない。人権論は「〈国家権力による社会の国家的構成〉の必要と必然、という意味での〈国家主義〉を、当然の思想的また論理的な前提としていた」と、著者は論じている。
 その意味で、人権の拡充は、国家権力の拡充とも同時的に結びついているのだった。

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