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定常状態──ミル『経済学原理』を読む(12) [経済学]

 資本が蓄積されるにつれ、利潤率は低下し、いずれ資本が飽和状態に達する時点がやってくる、とミルは予想した。こうした事態を避けるには、政府が資本を吸収するか、資本を輸出するか、あるいは新たな機械の導入によって利潤率を高めるという方法をとる以外にない。
 だが、どの方法をとろうと、いずれ経済的進歩には、ひとつの終点が訪れる、とミルはいう。

〈そもそも富の増加というものが無際限のものではないということ、そして経済学者たちが進歩的状態と名づけているところのものの終点には定常状態が存在し、富の一切の増大はただ単にこれらの到来の延期に過ぎず、前進の途上における一歩一歩はこれへの接近であるということ、これらのことは、経済学者たちにより、非常に明瞭であったかどうかというちがいはあるが、ともかく必ずいつの場合も認められてきたことである。〉

 経済が終局的に定常状態に達することは避けられない。
 富の増加をめざして、経済は発展しつづけなければならないという考え方は、当時も一般的だった。これにたいし、ミルは富と人口の定常状態は、それ自体忌むべきものではないという見方を打ちだした。
「私はむしろ、それ[定常状態]は大体において、今日のわれわれの状態よりも非常に大きな改善となるであろう、と信じたいくらいである」とまで、ミルはいう。
 さらにミルは「互いにひとを踏みつけ、おし倒し、おし退け、追いせまる」といった産業社会の風潮には、まったく魅力を感じないとも述べている。
 富を獲得する道がだれにでも開かれ、だれもがカネ儲けに野心を燃やしている時代を否定するわけではない。

〈けれども、人生にとって最善の状態はどのようなものかといえば、それは、たれも貧しいものはおらず、そのため何びとももっと富裕になりたいと思わず、また他の人たちの抜け駆けによって押し戻されることを恐れる理由もない状態である。〉

 ミルはそういう。
 人間にとっては、戦争にエネルギーを費やすより、富の獲得に奔走するほうが、よほどましにきまっている。それでも、ミルは富裕者がさらに富裕になろうと奔走し、「有業の富裕者から無職の富裕者に成り上がるということが、なにゆえに慶ぶべきことであるか、私には理解できない」と断じる。
 それよりも、労働者層の給与が高く、生活に余裕があり、資本家が莫大な財産をもつことなく、人びとが荒々しい労苦を免れ、機械に振り回されずに、ゆったりと人生を楽しめるような社会のほうがずっといい、とミルはいう。
 資本と人口の定常状態は、人間的進歩の停止状態を意味するわけではない。むしろ、あくせくしないなかで人びとの文化や道徳は発展していくだろう。
 定常状態において、産業上の改良は労働の節約とのみ結びつく。このとき、科学者が自然のなかから獲得した知識と技術は、はじめて人類の共通財産となり、万人の分け前を増加させるのに役立つのだ、とミルは宣言している。
 第4篇の最後に、ミルは労働者階級の将来について論じている。
 ミルは、現代の課題は「総生産物がその分配にあずかる人たちの数に比較して相対的に増加すること」だと述べている。労働者の所得を上げるべきだと考えていたのである。
 当時、労働者にたいしては、上流階級による保護と下層階級の服従が相呼応するというとらえ方があった。そのいっぽう、労働者の自立を求める声も上がりはじめていた。ミルが後者の立場をとっていたことはいうまでもない。
 労働者の独立心を促すのは教育の力だ、とミルは信じている。それによって労働者は良識をもって行動するようになり、人口増は抑制され、「人口は資本および雇用に対し漸次逓減する割合を示す」ようになる。こうして労働者は自立し、女性の地位も改善されるだろう、とミルはとらえた。
 労働者はいつまでも服従に甘んじないだろう。「人類を雇用者および被雇用者という二つの世襲的階級に分けておくなどということは、永続的に維持しうるものではない」と、ミルはいう。
 さらにミルは「進歩向上の目的は……人間が従属関係を含まない関係において互いに他の人たちとともに、また他の人たちのために働きうるようにすることでもなければならぬ」と述べている。
 そして、そうした人間の対等な関係が、現在の抑圧的な仕事場とは異なる、労働者と資本家の共同組織、あるいは最終的には労働者どうしの共同組織を生みだすにちがいないと論じている。
 そこで、ミルはまず労働者と資本家の共同組織について紹介している。
 こうした組織では、利潤の何パーセントかが労働者に還元される。たとえば中国貿易をおこなうアメリカ船舶でも、イギリス・コーンウォールの鉱山でも、パリの家屋塗装業者でも、賃金に加え、労働者に利潤の一部が支払われるようになっている。これは一種のボーナスといってよいだろう。
 もっと進んだ例としては、ヨークシアの炭鉱で実施されているように、会社の3分の2の株を経営者が所有し、3分の1を職員と労働者が保有するといったケースもみられる。
 さらに、つづいて、ミルは労働者どうしの共同組織についても紹介するが、その前に、こんなふうに述べている。

〈いやしくも人類が進歩向上をつづけるとした場合に、結局において支配的となるものと期待されなければならぬものは……労働者たちがその作業を営むための資本を共同で所有し、かつ自分自身で選出し、また罷免しうる支配人のもとで労働するところの、労働者たち自身の平等という条件に則った共同組織である。〉

 翻訳がわかりづらいけれど、ここにはミルの社会民主主義的なビジョンが示されている。ミルにとって、社会主義とは国家と国家エリートによる経済の統制を指すわけではなかった。自立した労働者どうしの共同組織が広がり、それにもとづいて、国家が最大多数の最大幸福を支えていく体制こそが、ミルのいう社会主義なのである。
 だが、労働者の共同組織ははたして実現可能なのだろうか。成功し、繁栄している共同組織はいくらでもある、とミルはいう。あるピアノ製作工場は、当初は創立者のわずかの資金に加えて、貧しい労働者たちのわずかな資金をもとに発足した。だが、このピアノ工場は発展していく。
 仕事は厳しかったが、労働者たちはみずから定めた規則のもと仕事に励み、出来高払いではない毎月の賃金を受け取り、年末には利潤の一部が労働者にも分配された。それでも、このピアノ工場は、10年間のうちに資本が1000倍以上に増えるほど成長したという。
 さらに、イギリスでも、フランスでも、ドイツでも、イタリアでも、協同組合が成功を収めた事例は数知れない、とミルはいう。その詳細については省略するが、不必要に多い卸売や小売商の数を削減し、生産的エネルギーに大きな刺激を与えたのは、協同組合の功績だとしている。さらに、かれが強調するのが、協同組合運動による「社会の道徳革命」である。

〈社会の道徳革命は次のような状況をもたらすにちがいない。労資間の恒常的不和は緩和されるだろう。人間の生活も、相対立する利害のために闘う階級闘争ではなく、万人にとって共通な利益を求める友好的なライバル関係へと転換していく。労働の尊厳性も高まるだろう。労働階級のなかでは安定感と独立性が芽生える。各自の日々の時間も、社会的な共感や実際的な教養を学ぶ場へと変わっていくだろう。〉

 ミルのいわんとする道徳革命のイメージをつかんでもらえるだろうか。
 ミルは敏腕な個人の経営する会社のほうが、ときに共同組織、協同組合よりも、果敢に行動し、大胆な改革をなしとげることもあると認めている。共同組織や協同組合は、個人会社を排除するものではない。しかし、社会の進歩につれて、資本家の個人会社よりも、いずれ共同組織や協同組合が経済運営の主流になっていくだろう、とミルは信じていた。
 ただし、ミルは競争の役割を強調することを忘れていない。共同組織や共同組合どうしの競争があってこそ、生産上の改良にもつながるし、個々人の向上への努力も生まれるし、消費者の利益、ひいては勤労者階級の利益にもつながるとしている。
「競争は、進歩への刺激として、考えられうる最良のものではないかもしれないが、しかしそれは現在においては必要な一刺激であり、またそれがいつの日に進歩にとって不可欠なものでなくなるか、何びとも予見できない」と、ミルはいう。つまり、ミルは競争(切磋琢磨)なくして進歩なしと考えていたのである。それは経済が定常状態となっても、言えることだった。


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