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『隣国への足跡』を読む(2) [本]

 黒田勝弘氏の日韓歴史事件簿をひもといている。
 時代は日清戦争(1894-95)の直後にさかのぼる。
 この戦争で日本は清国を打ち破り、韓国にたいする支配権を握った。
 ところが、独仏露の三国干渉により、日本は影響力の拡大をはばまれる。
 とりわけ、韓国では、親日勢力にたいし親露勢力が巻き返しをはかった。その中心人物と目されたのが、閔妃(ミンピ)、国王・高宗の皇后である。
 こうして1895年の閔妃暗殺事件が発生する。
 日本の駐韓公使、三浦梧楼をトップとする日本人集団(軍人、警察官、壮士を含む)が、王宮を襲撃し、乱暴にも王妃を殺害したのだ。
 福沢諭吉は「実に言語道断の挙動にしてその罪は決してゆるすべからず」と非難した。
 事件後、三浦梧楼をはじめ事件にかかわった者は、ただちに日本に呼び戻されたが、罪を問われることはなく、全員無罪放免となった。
 この事件は「百年を超え、今にいたるまで日本の歴史的痛恨になっている」、「あの事件には『武士道』のかけらも感じられない」と、著者もいう。
 まったくひどいことをしたものだ。
 ちなみに、日露戦争後、いわゆる「武断統治」によって韓国支配を強化したのは、長州閥、とりわけ長州閥の陸軍首脳だという。
「明治日本が朝鮮半島の“管理”を薩摩系にやらせておけば歴史は変わっていたかもしれない」とまで、著者は論じている。武断派ではありえない伊藤博文にしても、事件に責任がなかったわけではない。
 著者は「閔妃暗殺と伊藤博文暗殺は行って来い」の関係なのだから、「もうあの件は恨みっこなしにしようじゃないですか」と韓国側に言っているそうだが、韓国人は納得してくれない、という。あたりまえかもしれない。
 ところで、閔妃暗殺事件には、韓国人部隊も加わっていた。その中心人物、禹範善(ウ・ポムソン)は、事件後、日本に亡命したが、広島の呉で暗殺された。
 そして、著者は広島で亡くなった韓国人のひとりとして、朝鮮王族のイ・ウ(注・ワープロでウの漢字が出てこない)殿下(陸軍中佐)のことを紹介している。殿下は広島への原爆投下で亡くなったのだ。悲運である。
 日本側は韓国の王族の死にたいして礼を尽くした。殿下が亡くなったとき、お付き武官の吉成弘中佐は責任感から自決している。
 広島で被爆により死亡した人の数は20万人にのぼる。だが、その1割の2万人が韓国人被爆者だということは、案外知られていない。
 以前は平和公園の西側にある本川のほとりに「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」が立っていた。1970年に民団広島県本部が立てたものだ。
 しかし、現在、この慰霊碑は平和公園内に移された。韓国メディアが「死んだ後も韓国人は差別されている」と非難したためだ。
 おかしな話だ、と著者はいう。
「在韓被爆者問題に関しては曲折を経ながら広島も日本も官民双方でそれなりによく努力してきたと思う」のに、それを評価する声が韓国ではいまなお聞かれないのは、「実に切ない」と、著者は述べている。
 いっぽうで韓国の土になった日本の皇女もいる。李方子(1901-89)妃である。
 梨本宮方子妃は、李王朝の最後の皇太子、李垠(イ・ウン)殿下と結婚した。夫妻は戦前から戦後にかけ日本に住んでいたが、1963年に韓国籍を与えられ、韓国に“帰国”することができた。李垠殿下は1970年に亡くなる。
 韓国では昌徳宮(チャンドックン)の楽善斎(ナクソンジェ)に住んでおられ、李雅子妃は昭和天皇が亡くなられた同じ年に亡くなった。
 正式には最後の皇太子妃だが、韓国では王妃扱いされていたという。その葬儀は最後の王朝葬礼となった。
 方子妃は障害者福祉事業を通じて、韓国国民から尊敬されていた。
 日韓の苛酷な歴史を背負った李方子妃のことを日本人は忘れてはならない、と著者は書いている。
 なぜか、わが家には方子妃がつくられたという皿が飾ってある。
 これがどういう経緯で、うちにやってきたのかはよくわからない。
DSCN5407.JPG


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krause

黒田の最新著作ですね。私も早速入手しました。
by krause (2017-07-24 15:39) 

だいだらぼっち

若いころ、黒田さんにはいろいろお世話になりました。やさしい人です。
by だいだらぼっち (2017-08-19 06:25) 

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