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限界効用と消費者余剰──マーシャル『経済学原理』を読む(7) [経済学]

 需要についての考察が進んでいる。
 マーシャルは「需要の弾力性」という考え方をもちだしている。
 価格の変化が購入量に大きな変化をもたらす場合は、需要の弾力性は高く、逆にちいさな変化しかもたらさない場合は、需要の弾力性は低い。
 需要に所得階層があることもマーシャルは認めている。富裕な人びとは何本でも高級ワインを買えるが、貧しい人びとは安い焼酎しか買えない。
 しかし、一般的傾向として、「とにかく財がひろく一般に使用されるようになれば、その価格が相当低落すればその需要の大幅な増加がまもなくおこってくる」といえるだろう。
 とはいえ、価格が最低限にまで下落していくと、需要の弾力性も低くなっていく。つまり、需要が飽和状態に達してしまうのだ。その度合いは財によっても所得階層によってもことなる。
 マーシャルは当時のイギリス社会に即して、需要の弾力性を分析しているが、社会的地位を誇示するための上流階級の消費は、量的にはかぎられているものの、見境がないとしている。これにたいし、庶民にとっても、塩や砂糖はすでに需要の弾力性が低くなっているとしている。
 食肉やミルク、バター、羊毛、タバコなどは、値段を安くすればまだ需要がある。上等の果物、上質の魚などは、労働者には手が届かないが、中流階級にとってはまだ需要が見込めるなどとも述べている。
 小麦などの必需品は例外で、需要の弾力性は低い。もともと安い食料だが、多少値段が上がっても必需品は購入せざるをえないし、逆に値段が下がっても余分に購入しようとは思わないからである。
 いっぽう、魚や野菜などは値段の変動が激しくても、耐久性がないため、需要は非弾力的である。住宅については、必要性だけではなく社会的地位とも関係しているので、需要がなくなることはない。ごく日常的な衣服は需要に飽和点があり、価格を安くしても、需要が増えない、などとも述べている。
 水や塩にはじまって、必需品、住宅、医師や弁護士のサービス、高級品、高級肉、音楽会にいたるまで、商品にはことごとく需要があり、また需要の弾力性の大小をともなう、というのがマーシャルの見方である。
 マーシャルはエンゲルが分析した年収別の家計支出についても紹介している。
 それによれば所得の低い階層ほど、食料に支出する割合(いわゆるエンゲル係数)が高く、教育や保健衛生、娯楽にかける割合が低いというものだ。逆に所得の高い階層は、エンゲル係数が低く、教育や保健衛生、娯楽にかける割合が高い。
 経済学者はこれまで生産や企業に重点を置き、消費や家計の分析をおこたってきた。マーシャルの研究は、需要、とりわけ消費者需要の重要性を指摘したものである。
 いっぽう、マーシャルは消費研究の困難さは時間にあるとも論じている。その理由は、第1に時代によって貨幣の購買力が変動するからである。第2に景気変動によって消費行動が変化することも挙げられる。第3に人口と富の成長が消費行動に変化をもたらす。第4に新商品の登場も消費に大きな変化をもたらす。

〈ある財の価格の上昇が消費に与える影響があらわれつくすには時間がかかる。消費者がその財の代わりに代替品をつかいなれるにも、生産者が代替品を十分多量に生産しつづけるようになるにも時間がかかる。新しい財をつかう習慣が形成されるにも、それらを経済的に使用する方法を発見するにもまた時間がかかる。〉

 にもかかわらず、経済学者は消費の世界でおこりつづけている変化を注意深く見極めねばならない、とマーシャルはいうのである。

 商品世界においては、欲望は欲望そのものとしてはあらわれない。貨幣にもとづく需要のかたちをとってあらわれる。貨幣を使うにあたっては、諸商品の効用がはかられ、どの商品にどれだけ支出をすれば、効用の減少を防ぎ、全体としての効用を最大化することができるかが判断されることになる。
 購入される商品は、消費財とはかぎらない。長期にわたって利用される財やサービスもあるだろう。そこには不確実性の問題や、現在から将来にわたって、いかに価値を配分するかといった問題も生じてくる。
 人は「一般に将来の快楽がただ確実でさえあれば、これを得るために現在の同じ大きさの快楽をすすんで犠牲にする」と、マーシャルは書いている。貯蓄や年金保険などが、これにあてはまるだろう。
 しかし、将来などほとんど考えない人もいる。かれらは「忍耐心や克己心が弱いために、すぐに手にはいらないような利便にたいしてはほとんど興味を示さない」。「いな、同じ人でもその気分がいつも同じではなく、性急に現在の享楽を求めることもあれば、将来のことを考え、そう無理なく延期できる享楽ならすべてこれを繰り延べてしまおうとすることもある」
 つまり、需要には価格弾力性だけではなく、それが促進されたり繰り延べられたりする時間的(あるいは世代的)弾力性もあるのだ。
 将来の利便性を考慮して、現在の価値を「割引く」ことは、消費行動においてよくみられる。その割引率の大きさは貯蓄性向に影響を与える。そのいっぽう、より効用のある耐久財を求めるために、現在の消費を抑制するといった消費行動も存在する。
 耐久財(たとえば土地)を求める欲望には、はかりしれないものがある。

〈これら耐久的な財に関連してこそ所有のよろこびが感ぜられるのだ。所有しているという感情だけからの狭い意味の通常の快楽よりも強い満足を味わう人々が少なくない。……所有それ自体のよろこびのほかに、その所有によって得られる見栄からくる喜びがある。〉

 人間には所有の欲求とよろこびがある。それを無理やりに抑えつけることには無理がある、とマーシャルは考えている。
 将来の利便と現在の価値を比較することは不可能である。とはいえ、貨幣によって、将来の利便にたいする割引率を測定することはできる。たとえば100万円の貯蓄(投資)が、20年後に122万円になるとすれば、そのさいの利率(割引率)は年1%と想定されていることになる。
 また耐久財の価値は、1回の使用で消耗してしまうわけではなく、将来にかけ多くの効用を生みだすことになるから、その価値は長期の使用による効用の総計にほかならない、とマーシャルは述べている。
 ここで、マーシャルは価格(価値)と効用の関係を取りあげる。
 消費者はじゅうぶんな効用が得られると考えて、ある価格の商品を購入する。価格にくらべて得られる効用が低いと思われたら、その商品は購入されないだろう。したがって、商品が購入されるさいには、だいたいにおいて、得られる効用が失う貨幣(価格)より大きいと考えられる。これをマーシャルは「消費者余剰」と呼んでいる。
 前に挙げた例でいうと、ある消費者が3000円なら1袋しか買わないコーヒー粉が、2600円なら2袋買うとすれば、そこに消費者余剰を認めているということになる。ほんらい6000円するものが5200円で買えるのだ。2200円なら3袋なのに1400円なら5袋という場合も同じだ。ほんらい1万1000円のものを7000円で買うことができたのだ。
 これはまるでトリックのようにみえるけれども、その関係は一個人の場合よりも、市場全体にあてはめたほうが、より納得のいく説明となるだろう。
 ある財の限界効用は全体効用を示すものではない。たとえば水や塩は人間にとってなくてはならないものであり、その全体効用は茶やコーヒーより高い。しかし、水や塩は茶やコーヒーより豊富にあって、(ブランドの塩や水は別として)その限界効用は低く、価格も安い。価格に作用するのは、全体効用ではなく、あくまでも限界効用なのである。
 マーシャルは、同じ1万円のもたらす満足が、貧乏な人と富裕な人とでは異なることも指摘している。たとえば年金額が1万円減ったとしても、貧乏な人と富裕な人とでは、その受け止め方はずいぶん異なる。
 またパンの価格が上昇すると、貧しい労働者の家計は苦しくなり、それでも食肉や嗜好品への消費を切り詰めて、よけいにパンを買うといった特殊な反応も出現する。
 しかし、マーシャルは経済学が扱うのは、あくまでも一般的傾向だと論ずる。「消費者余剰論を適用しようとするのは[すなわち需要曲線の分析は]主として、とりあげている財の価格が慣行的な価格の近傍において変動したのにともなって起こる変化に関することがらである」
 マーシャルは消費論において、価格と需要の関係を論じ、そのさい限界効用や消費者余剰という概念にもとづいて、需要曲線の法則を導きだした。これはかれの大きな功績である。
 消費論を終えるにあたって、マーシャルは、いかにも賢者らしく、富と幸福との関係について論じているので、それを紹介しておくことにしよう。
 こんなことを書いている。

〈人の幸福はその外部的な条件よりも、かれ自身の肉体的・知性的かつ道徳的な健康によって左右される……[さらに忘れられがちなものが]自然の天与の贈り物である。〉

 健康と自然の恵みは、物質的な富からだけでは得られない。
 とはいえ、「ある人の富のたくわえは、その使用などがあってはじめて幸福をもたらす手段となるのである」。
 人は生存を維持できる所得を得ることではじめて満足し、その所得が増加するにつれて、その満足度を増していく。逆に所得が減るにつれて、満足度は減っていく。これをマーシャルはベルヌーイの説だとしている。
 しかし、人はしばらくたつと新しい富によろこびを感じなくなってしまう。逆に、富を失うと、大きな苦痛を感じる。
 富はやっかいだ。ありすぎると、かえって肉体的な力が衰え、神経の疲れが増し、感受性が失われることもある。
 文明国では、人生の理想は欲望や欲求にながされて物質的な富を求めるのではなく、静穏な心の落ち着きを得ることだという仏教的な考え方をする人もいる。だが、いっぽうで、新しい欲望と欲求があってこそ、人は努力するのだと考える人もいる。
 マーシャルはこの両方の考え方を批判する。前者のような仏教的な考え方は、努力の放棄につながる。しかし、ひたすら貨幣を求めて働く後者のような考え方は、まるで「人生のために働くのではなく、働くために生きる」ようなものだと述べている。
 マーシャルの人生哲学は次のような箇所に言いあらわされる。

〈真理はむしろ、人間性にはなんらかのつらい仕事をやり、なんらかの困難にうちかつことがないと、急速に退化していく傾向があり、肉体的にも道徳的にも健康であるためには、なんらかの苦しい努力を傾けることが必要であるというところにあるであろう。人生の充実のためには、できるだけ多くの資質をできるだけ高く展開させ活動させることがたいせつである。それが実業上の成功であれ、また芸術と科学の発達であれ、あるいは同胞の生活の向上であれ、とにかくなんらかの目標を熱意をもって追求することのうちに深いよろこびがあるのだ。〉

 マーシャルは人に見せびらかすための誇示的な消費を批判する。むしろ「労働者階級の富が増大すれば、それは主として真の欠乏をみたすためにつかわれるであろうから、人間生活の充実と品位を高めることになる」と述べている。
 富の追求に意味があるとすれば、それは贅沢ぶりをひけらかすためではない。すべての家族に生活と教養のための必需品が行き渡り、公共的な建造物や公園、美術館、図書館、競技場などが充実し、それらをだれもが利用できるようにするためだ、とも述べている。
 さらに、将来の消費のかたちとして、すべての人が安い粗悪品をやみくもに選択するのではなく、高賃金労働でつくった美しく機能的な優良品を適量購入するようになれば、世の中はもっとよくなる、とも考えていた。
 このあたりは、マーシャルがまさに「冷静な頭脳と温かい心」の持ち主だったことを示している。

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