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空の思想──栗田勇『芭蕉』から(6) [芭蕉]

 また、栗田勇の『芭蕉』を読む。
 はっきりいって難解だ。わかるところだけを読んでいる。
 延宝8年(1680)冬、深川の芭蕉庵(当初の名は泊船堂)に移り住んで以来、芭蕉はそれまでの荘子や唐宋詩に加え、禅にのめりこむようになった。
 芭蕉庵は西側が隅田川、南側が小名木(おなぎ)川に接し、東側には六間堀の運河が流れていた。まさに水辺の風景である。
 目の前の隅田川は三つ叉になっており、向こう岸には水戸藩の河端屋敷、さらにその向こうには江戸の町が広がっている。深川村と江戸市中は両国橋で結ばれていた。新大橋はまだできていない。
 入庵直後の句は何やらわびしい。

  柴の戸に茶を木の葉掻(か)く嵐かな

 優雅な隠棲のようにみえて、茶も出せないほどの貧乏暮らし。外は嵐で木の葉が舞っている。
 目の前の小名木川にかかる万年橋を渡ると、すぐに仏頂(ぶっちょう)禅師(1642-1715)の住まう臨川庵がある。芭蕉はここに数年間、参禅に通った。
 仏頂は「常陸国鹿島の臨済宗根本寺の住職であったが、鹿島神宮と寺領の訴訟の件で、江戸に居つづけ、深川の臨川庵に仮の根拠地をおいていた」とある。
 芭蕉より2歳年上。鹿島神宮が寺領を奪いとろうとしたことに抗議して、根本寺が幕府に訴えたというのがおもしろい。訴訟は9年がかりとなり、天和2年(1682)に寺側の勝訴で決着した。
 仏頂は訴訟終了後も江戸に滞在し、臨川庵に居住したという。したがって、芭蕉とのつきあいは2、3年といわず、もっと長かったはずだ。
 栗田は芭蕉のことを「象徴主義の詩人」と呼び、19世紀フランスの詩人ボードレールと比較しているが、そのあたりの話は省略しよう。「芭蕉は複雑深淵な詩人だった」と書いているところだけに注目しておく。それはおそらく、芭蕉が漂泊の人(精神のホームレス)でありながら、超越的なものをとらえていたことと関係している。
 芭蕉に大きな影響を与えた仏頂禅師とは、どういう人物だったのだろう。
「深川移転は、貧に徹し、行脚僧の暮らしに徹し、仏頂禅師に親しく師事し、新しい芭蕉風、いわゆる蕉風の俳諧へと歩をすすめるためであったろう」と、栗田は書いている。学識があり修行を積んだ相当の坊さんだったろうと思われる。
 栗田は仏頂の残した法語を長々と紹介しているが、理解するのがむずかしい。ただ仏頂が精神の集中を説き、自然を友とすべきことを勧め、空(永遠)を観して迷いを去ることを説き、万物の背後に霊性がひそむことを教えていたことは、それとなくわかる。
 著者はいう。

〈蕉風といわれる芭蕉の手法「匂い・響き・移り・位」など、それと婉曲に暗示される象徴の世界は、数多く語りつがれているが、その根底にある「空」の思想を忘れてはなるまい。その要だからである。〉

「匂い・響き・移り・位」というのは連句の決まりごと。匂いとは情緒、響きとは気分、移りとは余情、位とは品格。前句から、それらを引き継ぐべきものとされる。だが、そうした手法を別にして、空の思想をとらえねばならないと著者はいう。
 空の思想というのは、ぼくなどには、実際のところ、よくわからない。おいおい、わかってくることを期待しよう。
 芭蕉が臨川庵に通いはじめたころにつくった作品が残されている。

  枯枝に烏(からす)のとまりたるや秋の暮

 古来の画題「寒鴉枯木(かんあこぼく)」を俳諧にしたものといわれる。
 この句はのちに元禄2年(1689)の『曠野(あらの)』では、次のように改作される。

  枯枝に烏のとまりける秋の暮

 前者が絵をみての印象であるのにたいし、後者は脳裏に浮かぶ一幅である。それだけに思い入れが深く、強い意志のようなものを感じる。

枯木寒鴉図.jpg
[河鍋暁斎「枯木寒鴉図」]

 カラスは高貴な鳥とはいえない。俗世間にまみれた鳥である。それでも枯れ枝にとまって、世間の移り変わりをじっと見つめている。そこには人の世の永遠の相をみようとする張りつめた緊張感のようなものがただよっている。その一瞬がたぶん空なのである。芭蕉はその孤独なカラスに、みずからを重ねている。

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