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資源収奪主義を超えて──『これがすべてを変える』を読む(3) [本]

 ドイツのハンブルクでは2013年に電気、ガス、地域暖房の供給網をふたたび市の管轄下におくことにしたそうだ。エネルギーと環境の問題は、営利目的の民間企業にゆだねるべきではないと主張した住民に、市が応えたのだ。
 ドイツでは再生可能エネルギーへのシフトが進んでいる。グリーン・エネルギー(風力、太陽光、バイオガス、水力)の割合は2013年に25パーセントに達した。2035年にはそれが55〜60パーセントになるだろうという。
 世界じゅうでエネルギーを風力、水力、太陽光に移行するプランが作られようとしている。その実現には公共部門の関与が欠かせない、と著者は主張する。
 エネルギー問題だけではない。医療に関しては国民皆保険制度が絶対に必要だ。洪水や干魃、異常気温、山火事、暴風雨にたいしても、公共支出なしでは対処できない。気候変動に対応するインフラ整備も重要になってくる。
 しかし、緊縮財政のなかで、公共支出はむしろ減らされようとしている。再生可能エネルギー関連の予算も削られているのが現実だ。
 著者が求めるのは汚染者負担の原則、つまり「環境に悪影響を及ぼす“汚染者”に、気候変動に対応した公的領域の整備のための資金を確実に支払わせること」である。
 そのためには累進的な炭素税をかけることも必要になるだろう。さらには、自治体が鉱山や鉱区、油田の使用料を大幅に引き上げなくてはならない。また石油の大口使用者である軍や自動車会社、運輸業界、航空会社にたいする負担も求める必要がある。より多くのエネルギーを使用する富裕者への課税も強化すべきである。
 さらに著者は金融取引税の導入や、租税回避地(タックスヘイブン)の閉鎖、億万長者税、軍事費の削減、炭素税、化石燃料にたいする補助金の廃止なども提案する。こうした措置によって、税収を確保し、それを気候変動に対応する費用にあてようというのである。
 2009年にオバマ政権が誕生したときは、新政権による本格的な気候変動への取り組みが期待されていた。リーマン・ショックのあとで、新自由主義(市場原理主義)は勢いを失っていた。そこで、いよいよ環境にやさしい未来に向けた政策がスタートすると思われていたのだ。
 しかし、その期待はあえなくついえる。オバマには「公的領域を強化・改革し、尊厳ある仕事を創出し、企業の強欲を徹底的に抑制するシステムの構築」を実現するという、長期的な経済計画が欠落していた、と著者はいう。
「地元の原材料を買い、地元民を雇う」政策が採用されて、しかるべきだった。再生可能エネルギー、公共交通、高速鉄道に重点を置き、その分野に公共投資をおこない、多くの雇用を創出すべきだった。
 ゼロカーボンのエネルギーに移行するつなぎとして、天然ガスやシェールガスを利用するという考え方に著者は否定的だ。著者が望ましいとするのは、相補的な再生可能エネルギーのネットワークを構築することである。しかも、それは「エネルギーを使う地域社会が協同組合または『共有資産(コモンズ)』として民主的に運営する、新しい形の公益事業」の形態をとるべきである。
 それを実現しようとしているのが、世界でもっとも早く再生可能エネルギーへの移行が進んでいるドイツだという。ドイツではすでに900以上のエネルギー協同組合が生まれている。
 エネルギーの分散型管理もだいじである。地域住民が風力発電や太陽光発電を管理するのだ。これはかつての社会主義政権による中央集権的な計画とは根本的に異なる。
 国には国としての全体を調整する役割があるが、エネルギー分野にせよ、交通システムや水道システムにせよ、その計画や管理は地域コミュニティが担うというところがポイントである。また地域に根ざした小規模農家が現代科学と経験にもとづいて、持続可能な農業を実践する「アグロエコロジー」の考え方もだいじになってくるだろうという。
 とはいえ化石燃料業界をはじめとする大企業の力は強大で、アメリカやドイツの首脳も容易にそれを抑えることができないでいる。むしろ、新自由主義の巻き返しがはじまっているのではないか、と著者は感じている。
 新自由主義は、やっきになって新たな産業技術を開発しようとしている。しかし、それは「在来型の資源以上に大量の温室効果ガスを排出するエネルギー源という、間違った方向へと向かわせている」と著者はいう。
 その一例がフラッキング(水圧破砕法)による天然ガスの採掘であり、新たに発掘された天然ガスは石炭以上にメタンを発生させる恐れがある。シェールガス、褐炭、オイルサンドも同様だ。それらは地球にやさしい資源とは、けっして言えないだろう。
「業界が革新と呼ぶのは、自殺へと至る最後のあがき」のようなものであり、「それは革新ではなく、狂気なのだ」と、著者は断言する。
 化石燃料業界による新エネルギー源の採掘と精製が地球温暖化に拍車をかけている。石油や天然ガスの新たな開発も進められている。化石燃料会社が保有する埋蔵量はいまも巨大な量にのぼっており、業界は今後もハイリスクな炭素資源を追い求めていくだろう。それらの炭素資源を燃焼しつづけていくなら、気候変動のリスクはとめどなく大きくなっていくことはまちがいない。しかし、巨大な利益をあげる化石燃料業界は強力なロビー活動を展開し、気候変動への本格的対策がとられるのを阻止している。石油企業にかぎらず、大企業は計り知れない政治的影響力をもっている。この力関係を逆転するのはむずかしい、と著者は書いている。
 一般市民のあいだに諦めの空気が広がっているのもたしかだ。だが、環境危機は現前に迫っている。ぶれないことがだいじだ、と著者はいう。新自由主義とは、ごく少数の人間のために多くの命を犠牲にする政策にほかならない。「世界のほんのひと握りの超富裕層が世界の富の半分を握っていることを示す新たな統計が出されるたびに、民営化と規制撤廃という政策が、薄い皮一枚むけば『強奪の許可証』にほかならないことが暴かれる」と、著者は指摘する。
 だとすれば、いまはむしろチャンスなのだ、と著者はいう。「地球環境を改善すると同時に、崩壊した経済や荒廃したコミュニティを修復する計画を打ち出すチャンスがあるとするなら、今こそがそのときなのだ」
 気候正義を求める運動は、社会システムを変革する運動でもある。
 人は気候変動になかなか気づかない。「というのも、気候変動とはその性質からいって速度が遅く、また場所と深く結びついた危機だからだ」。さらに、人は気候変動がいかに経済活動と関係しているかも気づかない。しかし、たとえば、かつての南海の楽園、ナウルがいまどうなったかをみてみよう、と著者はいう。
 ナウルでリン鉱石が本格的に採取されるようになったのは1960年代からだ。その結果、島民の生活は豊かになり、1970年代から80年代にかけては1人あたりGDPが世界でもっとも高い水準を記録した。ところが、20世紀末にリン鉱石が枯渇すると、ナウルの経済は突然崩壊する。
 いまやナウルの土地は荒廃し、巨額の借金をかかえ、さらに海面上昇による危機を迎えている。「環境を破壊する採掘に依存して経済を築いた末の自殺行為ともいえる結末を、ナウルほど鮮やかに体現している場所は、地球上ほかにまず見当たらない」。しかし、これはナウルにかぎったことではない。
 近代の経済全体が資源収奪主義(extractivism)のうえに成り立っているのだ。近代人は際限なき成長をめざす経済モデルにもとづき「欲しい物質を掘り出す一方で、採掘が行われる土地や水のこと、あるいは採掘された物質が燃焼された後の大気に残る廃棄物のことはほとんど考えない」。それは左右のイデオロギーを問わない。資源の採掘と収奪によって経済を拡大させるという考え方は、帝国主義も社会主義も変わらない、と著者はいう。
 新しい技術と化石燃料によって、人は膨大な消費財をつくりだすことができるようになった。市場経済はこうした膨大な財を配分し、そのことによって、さらなる生産を刺激するというエンドレスなシステムにほかならなかった、と著者はみる。
 だが、いまその反動があらわれている。

〈化石燃料の力を利用することで、人類のかなりの部分は少なくとも2、3世紀の間、自然と絶え間なく対話する必要性や、計画も野望も予定もすべて自然条件の変動や地形に合わせる必要性から解放されたかのように見えた。……[しかし]過去数百年に燃焼させた化石燃料の累積的影響によって、今や、たまりにたまった自然の感情が激しく牙を剥きつつあるのだ。〉

 1972年にローマクラブが発表した『成長の限界』の予想は、その後の技術革新による経済成長を予想していなかったという点ではあたらなかったが、地球が汚染を吸収する能力に限界があることを示した点は先駆的だった、と著者はいう。
 いまだいじなのは、地球を救うことを新たなビジネスチャンスと考えることではない。資源収奪主義から脱して、ソローのように「地球は身体であり、魂をもち、有機的である」と考えるところから再出発しなければならない、と著者は主張している。

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