SSブログ

脱成長と低炭素社会への移行──『これがすべてを変える』を読む(2) [本]

 アメリカでも気候変動対策など無用だという意見は根強い。環境問題をもちだすのは、企業活動の自由を阻害しようとする共産主義者の陰謀にほかならないいうのである。
 さらには地球温暖化という事実そのものを否定する向きもある。一般に気候変動への関心は低いといえる。むしろ、気候変動への対応を唱えるリベラル派にたいする反発がむしろ高まっている、と著者はいう。
 規制緩和、自由貿易、税の軽減、公有資産の民営化を唱える市場原理主義が社会を支配している。市場原理主義の立場からすれば、規制をともなう気候変動対策などしてはならないことだし、そもそも経済活動と気候変動とは無関係ということになる。
 要するにカネもうけがすべてだ。ほかは何がおころうと、そんなの関係ないというわけだ。カネさえあれば、たとえ温暖化があろうと乗り切れる。また温暖化をネタに商売ができるのなら、それもけっこうだという風潮がみられる。
 気候変動は貧富を問わず、すべての人に影響をもたらす。しかし、現に気候変動がおきているなかで進んでいるのは「持つ者と持たざる者の二極分化」だ、と著者はいう。
 なかには、気候変動はアメリカより発展途上国を痛めつけるから、アメリカにとってはむしろ有利だといういまわしい議論さえみられる。災害がおこっても、自分の面倒は自分でみろという発言もまかり通っている。
 右派は政府の介入を批判する。しかし、温暖化対策は政府の介入抜きには成し遂げられない、と著者はいう。1992年のリオ地球サミットで締結された条約は、ほとんど実行されず、問題は先送りされたままだ。
 右派のなかには、原子力や地球工学、遺伝子組み換え技術などによって気候変動に対応できると主張する人もいる。だが、著者によれば、こうしたハイリスクな技術は「さらに危険な廃棄物を生み、しかも明確な出口戦略はまったくない」。それは「大企業や大規模軍隊による巨大技術を駆使した気候変動対策」にほかならない。「そんなことはすべきではない」というのが著者の考え方だ。
 不思議なことに、自由貿易協定が環境技術の普及を阻害している面もある、と著者は指摘する。
 太陽光パネルや風力タービンに関しては、地元産業が優先されるのがとうぜんと思われるかもしれない。しかし、WTOはそうした地元優先政策が自由貿易協定に違反するものとみなす。こうして、多くの地元企業が苦境におちいっていった。自由貿易協定のもとでは自国企業と他国企業の製品を差別してはならないとされているのだ。
 それでも太陽光発電市場はいちじるしい発展を遂げている。しかし、新自由主義の壁が、気候変動への取り組みを阻んできた。
 化石燃料と気温上昇との関係が明らかになったのは1950年代だが、その問題が広く意識されるようになるのはトロントで気候変動に関する国際会議が開かれた1988年からである。高度消費社会のライフスタイルにも批判が集まるようになった。ところがソ連が崩壊すると情勢は一変し、市場原理主義が前面に出てきたのだ。
 その後の10年間は、気候変動への取り組みと、自由貿易協定の締結が並行しておこなわれる時代だった。両者には矛盾した側面がある。だが、つねに優先されたのは国際貿易のルールだった。気候問題が貿易に優先することは認められなかった。
 自由貿易システムのもとで生産拠点が海外におかれるようになると、温室効果ガスの排出場所が移動した。だが、その量も増大したのだ。中国は世界の工場になっただけではなく、世界の煙突になった、と著者はいう。
 グローバル化の呼び声のもとで、多国籍企業はより安い労働力を求めて、世界じゅうを探しまわり、1990年代末に中国に狙いを定めた。「中国は人件費が法外に安く、労働組合は容赦なく弾圧され、政府は大規模なインフラ建設プロジェクトに際限なく資金を費やす用意があった」。
 それは自由主義者にとっては夢の実現となったが、地球環境にとっては悪夢となった、と著者はいう。労働者を低賃金で酷使することは、排気汚染対策をほとんどとらないことと同じ論理で結びついている。環境汚染と労働者搾取は関連がある。「不安定化した気候は、規制緩和型グローバル資本主義の代償であり、その意図されざる不可避の結果にほかならない」と、著者は論じている。
 グローバル化の時代においては、企業はいつでも海外の工場をたたんで、別の場所に生産拠点を移すことができる。多国籍企業が発展途上国に輸出主導型の成長モデルを押しつけたことを考えると、地球環境を悪化させているのは中国やインドだと非難してすむ話ではない、と著者はいう。
 環境保護よりもWTOやNAFTAなどの自由貿易協定を重視した結果が、現在の地球環境の悪化を招いたことはまちがいない。それだけではない。自由貿易の拡大によって、工場は海外に移転して国内の失業者が増え、地元の商店は大型小売チェーンにとって替わられ、農家は安い輸入農産物との競争を強いられるようになった。
 経済をふたたび地域中心に戻す必要があるのではないか、と著者は考えている。
 自由貿易の論理は、何が何でも経済成長を進めようという考え方にもとづいている。いま必要なのは資本主義のルールを変え、脱成長をめざすことではないか。グリーン技術の開発を待つだけでは間に合わない。いますぐできることからはじめなければならない。「では何ができるかといえば、それは消費を減らすことだ」と、著者はいう。
 自動車より自転車、自動車より公共交通機関、地産地消の農産物、リサイクルの服、公営住宅や公共交通の改善、無駄な計画や開発の取りやめ……。200年前といわないまでも、1960年代から70年代くらいにかけてのライフスタイルに戻るべきだ、と著者はいう。加えて生活賃金と地元雇用を保証する政策を採用することによって、コミュニティを再構築すること。
「炭素排出許容量(カーボンバジェット)を超えない経済の実現を図るためには、消費を減らし(貧困層は除く)、貿易を減らし(その一方で地域に根ざした経済の再構築を図る)、過剰な消費のための生産への民間投資を減らすことが必要である」。その代わり、財政支出や環境改善のための公共・民間投資は強化される。「その結果、多くの人々が地球の能力の範囲内で快適な暮らしを営むことが可能になる」と、著者はいう
 著者が提唱するのは、脱成長と低炭素社会への移行である。労働時間の短縮、週3日ないし4日の労働、ベーシックインカムの導入、「医療や教育、食料、清潔な水といった、すべての人が生きるために欠かせないものを確実に得られるようにするセーフティネット」の確立。
 著者が構想するのは、そのような未来だ。

nice!(5)  コメント(0) 

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント