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地球工学のあやうさ──『これがすべてを変える』を読む(4) [本]

 著者はアメリカの大きな環境保護団体が大規模な財団や石油企業から資金などの援助を受けていることを暴いている。こうした環境団体の気候変動への取り組みがおざなりになっているのは、そのためだという。
 化石燃料企業は環境団体ばかりか、国際的な気候サミットの乗っ取りにも成功している。
 1960年代から70年代にかけ、アメリカでは画期的な環境保全法が次々と制定された。ところが、1980年代にはいると潮目が変わり、政権の姿勢はずっと企業寄りになった。
 市場原理主義が幅をきかせるようになり、環境保護団体のなかには企業活動を擁護するばかりか、企業と手を組むものもでてくる。企業もまた環境重視をうたい文句にして、ビジネスを展開するようになった。
 21世紀にはいっても、気候変動を問題にするのは主にエリート層で、一般の人の関心は低かった。環境保護団体も大企業と対決する姿勢をとらなくなった。
 水圧破砕法(フラッキング)によって抽出される天然ガスは、クリーンエネルギーが開発されるまでの「つなぎ」として評価されるようになっている。天然ガスのあとはシェールガスがつづいた。
 環境保護団体はこうした新たな資源開発に反対しなかった。「気候変動の科学に対する疑念を広める戦略と同様、この混乱は、化石燃料への依存を脱却して再生可能エネルギーへ向かう機運をみごとに台無しにしてしまった」と、著者は批判する。
 1997年の京都議定書にいたるまで、各国政府は炭素税導入などの強力な対策を実施し、再生可能エネルギーへの移行を開始することで一致しようとしていた。しかし、クリントン政権はこれに反対し、「排出権取引制度」なるものをもちだした。それにより、世界的に汚染を取引するといったおかしな仕組みができあがったのだ。環境保護団体がこれに加わり、パプアニューギニアやブラジル、エクアドルなどでは、土地の収奪や人権の侵害が発生している、と著者は指摘する。

〈いったんこのシステムに取り込まれれば、これまでどおりに青々として生命に満ちあふれているように見える原生林も、目に見えない金融取引を媒介にして、実際には地球の反対側の汚染物質をまき散らす発電所の延長となる。カーボンオフセットに認定された森がモクモクと煙を吐き出しているわけではない。だが、それ以外の場所での汚染を可能にしているのだから、同じことだ。〉

 著者はこうした排出権取引制度の発想そのものがまちがっているという。それは実際には温室効果ガス排出量の削減に寄与しないばかりか、再生可能エネルギー推進へのインセンティブを奪ってしまう。そればかりか汚染物質を出している企業がかえって利益を得るという皮肉な現象を生んでいるのだ。
 いっぽう、環境への取り組みを積極的にアピールする億万長者もでてきた。
 2006年にヴァージン・グループの創設者リチャード・ブランソンは今後10年で30億ドルをかけ、再生可能エネルギーの開発に取り組むと宣言した。投資家のウォーレン・バフェットも2007年に地球温暖化対策に取り組むと名乗りを上げた。マイケル・ブルームバーグやビル・ゲイツ、ブーン・ピケンズなどの大富豪も右にならった。だが、いずれも口先だけだった、と著者は批判する。
 ただし、ブランソンが企業の利益を地球温暖化対策につぎこもうとしたことを著者も認めている。だが、それも途中であやふやなものになってしまった。億万長者の善意はあてにならず、著者もけっきょくは政府が厳しい規制や増税、ロイヤリティの増加などによって、地球環境の保全に乗り出すほかないとみている。

〈金融危機を経験し、かつてないほど拡大した格差のただなかで、ほとんどの人は、規制緩和と大規模民営化が生み出した少数の支配層が、その莫大な富を使って世界を救うつもりなどないことに気づきはじめている。それでも人々は最後の瞬間に超人的な誰かが人類を大惨事から救ってくれるというスーパーヒーロー物語に埋め込まれた、科学技術という魔法への信仰を捨てていない。……それは、今日の文化の最も強力な魔術的思考でありつづけているのだ。〉

 そのような魔術思考のひとつが地球工学なるものである。
 2011年、イギリスでは王立協会の主催で、ある会議が開かれた。そのテーマは、気候問題を解決する手段として、地球規模の技術介入によって太陽光の一部を遮る方策が正しいか否かを問うものだった。
 地球温暖化をやわらげるための、こうした地球工学的なプロジェクトには、さまざまの方法が考えられていた。自然噴火を人工的におこさせ、太陽光を遮断して、地球の温度を下げるというのも、そのひとつ。成層圏にエアロゾルを注入するというのもそのひとつだ。上空30キロに浮かせたヘリウム気球から二酸化硫黄を噴出させるというプランもあった。
 だが、「そんな話に耳を傾けていると、なんとも陰鬱な将来像が浮かんでくる」と、著者は書いている。気候を操作するという考え方がでてきたのは、地球工学のタブーが薄れたためである。しかし、そこには確信よりも絶望感が感じられる、と著者はいう。
 地球工学は、人間が自然を征服できるという昔ながらの発想の延長上に組み立てられている。ビル・ゲイツはそのパトロンのひとりだ。地球工学者はみずからのつくりだす科学の力によって地球を管理できると考えている。
 しかし、地球への地球工学の適用は恐るべき結果を生み出す可能性がある。たとえ北アメリカの気温が下がっても、アジアやアフリカでは降雨量が減って数十億分の食料供給に影響をおよぼすという予測もでている。
 地球工学の実験を実際にやってみるのはあまりに危険だとすれば、あとは火山噴火のあとにみられた気候変動を検証するほかないだろう。地球工学者は1991年のピナツボ山噴火が地球の気温を下げ、世界中の森林の成長を促したとプラス面の影響ばかり強調する。しかし、ピナツボの噴火は反面、降雨量を大幅に減少させ、アフリカに深刻な干魃をもたらしたのだ。そのほかの歴史的記録も多くの火山の噴火が干魃と飢饉をもたらしたことを示している。地球工学者の主張をうのみにはできない。
 地球工学者は成層圏への二酸化硫黄注入によって、地球の気温を管理し、地球温暖化を防げると信じている。かれらがリスクをいとわないのは、「その被害をこうむるのが誰かということと関係している」。ここにも先進国中心の発想がみられる。地球工学は、人間の手によって、気候変動の残虐さを加速する可能性がある、と著者は断言する。
 二酸化硫黄を成層圏に噴霧して宇宙傘のようなものをつくるという発想はいまのところばかげているようにみえる。しかし、人類はいざとなれば、リスクをいとわない。それは広島、長崎への原爆投下をみてもわかる、と著者はいう。
 地球はまるで怪物のような存在になろうとしている。地球工学の発想においては「私たち人間の生命を支えるシステムである地球は、怪物となって猛然と人間に襲いかかってこないよう、四六時中、生命維持装置につながれるのだ」。これはまさにゴジラやフランケンシュタインの世界だ。
 地球工学の考え方は、どこかで発想が逆転している。地球工学を利用すれば、いくら化石燃料を大量に燃やしつづけても、地球は温暖化しないよう調整できると考えているのだ。
 化石燃料から完全に脱却し、エネルギー事業をコミュニティの手に取り戻し、再生可能エネルギーのシステムに移行するという常識的な考え方はまちがっているのだろうか。人類が避けられない気候危機に直面しているいま、それを救うのは、はたして地球工学しかないのだろうか、と著者は問うている。「なぜ生命の脆弱性に謙虚だった人類は……地球をもてあそぶようになってしまったのだろうか」
 発想そのものを変える必要がある、と著者は考えている

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