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ガリポリの戦い──『オスマン帝国の崩壊』を読む(3) [本]

 1915年1月、イギリス海軍はダーダネルス海峡作戦をたてる。連合国軍がダーダネルス海峡を突破し、イスタンブルを占領することによって、一挙にオスマン帝国を戦争から排除するという計画である。このときの海相はウィンストン・チャーチル。作戦全体の指揮権は歴戦の陸軍元帥ホレイショ・キッチナー陸相が担っていた。
 1月末から2月はじめにかけ、英仏の最新鋭艦隊が、ダーダネルス海峡の入り口に集結した。ロシア海軍は英仏軍の動きをみて、ボスフォラス海峡側から揺さぶりをかけることになっていた。この作戦は単なる示威行動だけでは終わらず、次に本格的な上陸戦が必要になるはずだった。
 2月19日、連合国艦隊はダーダネルス海峡のトルコ軍要塞への砲撃を開始した。だが、うまくいかない。強風と荒れた海が作戦の展開を遅らせた。
 それでも英仏艦隊は、3月中旬になると要塞の大砲を破壊し、機雷掃海をはじめていた。海峡のヨーロッパ側、ガリポリ半島への上陸もはじまった。
 ところが、そのころになってドイツが持ちこんだ新型可動式榴弾砲が効果を発揮しはじめる。掃海艇は機雷の位置を探知することができない。それでも連合国艦隊は作戦を強行する。だが、可動式榴弾砲にはばまれ、撤退しようとしたときに、4隻の戦艦が機雷に接触し、うち3隻が沈没した。

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[機雷に接触し沈没する英艦イレジスティブル。本書図版より]

 連合国艦隊の被害は大きかった。3隻の戦艦が沈没し、1000人の戦死者がでた。オスマン側の陣地に大きな損害はなく、人的被害も少なかった。
 イギリスの作戦本部はダーダネルス海峡が海軍だけで突破できないことを悟る。だが、これほど手厳しい敗北を喫したとなれば、おめおめ引き下がるわけにはいかなかった。キッチナー陸相は、海峡の北を扼するガリポリ半島を攻略するため、7万5000人の歩兵を投入することを決定した。
 ガリポリほど多国籍の兵士が戦った場所はない、と著者は指摘している。連合国側は、英仏本国に加えて、連邦や植民地のオーストラリア、ニュージーランド、インド、アフリカから兵を集めた。これにたいし、オスマン側は帝国内から5万の兵を徴収し、第5軍とした。トルコの第5軍を指揮するのは、同盟国ドイツのオットー・リーマン将軍である。
 4月25日早朝、連合国部隊はガリポリ半島への上陸を開始する。イギリス軍はガリポリ半島南端のヘレス岬、フランス軍はその対岸のクム・カレ(のちにヘレス岬に合流する計画)、そしてオーストラリア・ニュージーランド軍は、ガリポリ半島中央部のエーゲ海沿いの入江(通称アンザック入江)に上陸すると決められていた。
 上陸の前に、英艦は岬のトルコ軍陣地に猛烈な艦砲射撃を加えた。トルコ軍は大きな損害を受けたが、兵士の士気は衰えなかった。艦砲射撃が終わって、イギリス軍が上陸しはじめると、トルコ軍は猛反撃し、イギリス軍の艀(はしけ)は死傷者だらけになった。いくつかのビーチで、イギリス軍は上陸に成功する。だが、その被害は甚大だった。
 ヘレス岬の対岸、クム・カレの海岸に上陸したフランス軍はほとんど抵抗を受けず、クム・カレの町を占領した。しかし、やがてトルコ軍の反撃がはじまり、白兵戦となる。戦闘はすさまじく、死傷者の拡大したフランス軍は撤退し、対岸のイギリス軍に合流。イギリス軍が確保したヘレス岬近辺のビーチに布陣することになる。
 いっぽう、アンザック軍(オーストラリア・ニュージーランド軍)はガリポリ半島中部のエーゲ海寄り海岸、通称アンザック入江に上陸をこころみた。潮流が早く、上陸は混乱をきわめたが、1万5000人が上陸をはたした。だが、トルコ側の反撃はすさまじく、その日のうちにアンザック軍の2割が死傷した。
 そのときトルコ軍部隊を指揮していたのが、ムスタファ・ケマル、すなわちのちのケマル・アタチュルク(トルコ共和国初代大統領)である。ムスタファ・ケマルはのちのガリポリ戦を戦い抜くことになる。
 アンザック軍は退却せず、入江近くに塹壕を築いた。著者によれば、「ガリポリ半島の地上戦の初日から、オスマン軍と侵攻軍の戦力は見事に互角だった」という。
 ガリポリ戦で5万人の兵士を上陸させた英仏軍は、ガリポリ半島南端のヘレス岬周辺と中部のアンザック入江近くに陣地をもうけた。軍団の目標はトルコ軍陣地を攻略しながら、高地を越え、ダーダネルス海峡側に進出することだった。それと前後して、英仏戦艦がダーダネルス海峡を強行突破して、イスタンブル占領に取りかかる手はずになっていた。
 だが、英仏軍はトルコの防衛線を突破できない。ヘレス岬側では、4月から6月にかけ、3度突破をこころみたが、激しい抵抗に遭い、2万人の死傷者を出した。アンザック入江でも身の毛もよだつ激戦の末、塹壕戦になった。
 海に待機する戦艦もトルコ側から奇襲を受けたり、ドイツのUボートによって脅かされたりするようになる。
 5月、イギリスでは海軍作戦の失敗で責任をとらされ、チャーチルが海相を辞任した。ただし、キッチナー陸相は留任。イギリスはメンツにかけても、ガリポリから撤退するわけにはいかなくなった。
 キッチナーはダーダネルス戦を遂行するため、大規模な増援部隊の派遣を決定した。
 1915年夏、ガリポリ半島では網の目のように複雑に塹壕が掘られていた。塹壕での生活は兵士たちの肉体的、精神的健康をむしばんだ。連日、双方の砲撃と狙撃がつづき、どちらの兵士も絶え間ない緊張状態に置かれていた。塹壕内では赤痢が蔓延する。砲弾恐怖症で精神に異常をきたす者もでてきた。
 銃剣攻撃がおこなわれるたびに、戦場にはたくさんの兵士が倒れてちらばった。イギリス軍とトルコ軍は、数千人の死者を引き取るために、しばしば何時間かの休戦協定を結ばねばならなかったほどだという。
 8月、イギリスの増援軍5師団がガリポリに到着した。その主力部隊は、南端のヘレス岬ではなく、中部のアンザック入江と近くのスヴラ湾に向かった。そこから見える尾根を奪い、ダーダネルス海峡最狭部を確保するというのが、イギリス軍の作戦だった。
 アンザック入江近辺では激戦になった。突撃がくり返されたが、イギリス軍は尾根まで到達できない。「連合国軍は距離的には長い前線を防衛しながらも、オスマン軍の強固な防衛戦を、とうとうどこからも突破できなかった」。スヴラ湾とアンザック入江からの攻撃は完全に失敗に終わった。連合国軍の死傷者は8月だけで4万人にのぼった。
 9月、連合国の苦境を見透かして、ブルガリアがドイツ、オーストリア側に加わって参戦する。そのことによって、勢力バランスが変化し、連合国側はバルカン方面で不利な立場に置かれ、ガリポリ半島で戦う余裕がなくなってきた。肝心の西部戦線の立て直しも喫緊を要した。
 10月、イギリス軍は苦渋の末、ついにガリポリからの撤退を決断した。よほどの援軍を投入しなければ、もはやヘレス岬、アンザック入江、スヴラ湾の陣地を守りきるのは不可能となっていた。
 撤退作戦は隠密裏に進められた。12月初旬段階で、イギリス軍と大英帝国軍はガリポリに7万7000人残っていた。さまざまな偽装作戦を展開しながら、退却はみごとにおこなわれた。撤退の兆候があれば、全面攻撃をかけるようオスマン軍は命じられていた。だが、12月下旬のある日、「夜が明けたとき、トルコ軍のパトロール隊は敵が陣地から完全にいなくなっているのを知って愕然とした」。

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[イギリス軍の撤退。本書より]

 1915年4月からの259日にわたるガリポリ戦で、イギリス軍(帝国軍を含む)は41万人、フランス軍(植民地軍を含む)は7万9000人と、連合国軍は合わせて50万人近くを投入した。これにたいしガリポリに派遣されたトルコ軍は31万人にのぼった。戦死傷者はイギリス軍が20万5000人(うち戦死者は4万2000人)、フランス軍が4万7000人(同1万4000人)、トルコ軍は25万人から29万人(同8万6500人)と記録されている。
 ガリポリ戦は連合国側の完敗のうちに終わった。それにより戦争はさらに長引くことになった。
 だが、オスマン帝国はほかの場所でも戦っていた。帝国がもっとも神経をとがらせていたのは、ロシアの動きである。なかでも帝国内のアルメニア人がロシアと内通することを恐れていた。トルコの特務機関はアルメニア人の絶滅と追放に着手する。
 1915年2月以降、オスマン軍はアナトリア東部のアルメニア人に移住を強制していた。ガリポリ戦がはじまると、イスタンブルのアルメニア人は逮捕され、収監された。
 4月、アナトリア東部の町、ヴァンではアルメニア人が蜂起する。それを鎮圧するため、トルコ軍はクルド人やごろつきを使って、アルメニア人を虐殺した。
 5月、内務省は各州と地区に、すべてのアルメニア人を追放するよう命令をだした。同時に特務機関は、追放に応じないアルメニア人を殺戮せよという秘密目令を出した。
 このふたつの命令は、アルメニア人の大量殺戮を招いた。自殺を選んだアルメニア人も多かった。コーカサスのロシア軍に加わったアルメニア人もいる。砂漠への死の行進の途中、多くのアルメニア人が命を失った。
 アルメニアの歴史家は、1915年から18年にかけ、オスマン帝国の意図的な国家政策と集団殺戮により、100万人から150万人にのぼるアルメニア人が死亡したとしている(集団殺戮はなかったとするトルコの歴史家も60万人から85万人にのぼるアルメニア人が死亡したことは認めている)。
 戦争という危機のさなか、国家の非情な論理が人間の残虐性に火をつける光景を、われわれはいつまで見つづけねばならないのだろうか。

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