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『オスマン帝国の崩壊』を読む(2) [本]

 1914年8月1日にオスマン帝国は総動員令を発令したが、国民の士気は上がらなかった。戦時体制は帝国の財政を逼迫させた。そのため非常時の課税や徴発、押収がなされたことで、国民の不満がむしろ高まっていた。
 イギリスは英連邦のカナダやオーストラリア、ニュージーランドにも参戦を呼びかけていた。フランスもアルジェリア、チュニジア、モロッコの植民地から兵をつのり、「アフリカ軍団」を結成した。大戦はヨーロッパにとどまらず、まさに世界的な広がりをもとうとしている。
 1882年からイギリスの統治下にあったエジプトには戒厳令が敷かれた。そして、まもなくエジプトはオスマン帝国から完全に切り離されて、イギリスの保護領となる。
 1858年以来、インドはイギリスの支配下におかれていた。イギリスにとって重要なのは、インドのムスリムの忠誠心を確保することだった。加えて、インド部隊の動員がはかられた。こうして140万人のインド人、すなわち95万人のインド兵と45万人の非戦闘員が海外に送られることになる。インド兵が戦った場所は、おもにメソポタミアの戦場だった。
 第一次世界大戦では、世界規模で動員令が出された。しかも、戦場はヨーロッパにかぎられたわけではない。中東でも激しい戦闘がくり広げられたのだ。
 オスマン帝国の国境は全長1万2000キロで、黒海、ペルシア湾、紅海、地中海に囲まれていた。そのため、あちこちから攻撃を受けやすかった。
 イギリス海軍は1914年11月1日に紅海アカバ湾奥のトルコ軍要塞を砲撃する。その2日後、今度は英仏の軍艦がダーダネルス海峡のトルコ軍陣地に砲撃を加えた。
 ロシアは10月29日に軍艦でトルコの黒海側都市と船舶を砲撃したあと、地上部隊がコーカサス(カフカス)を越えて、アナトリア東部に侵入した。侵入は容易に思えたが、11月6日にオスマン軍の反撃がはじまる。両軍とも多くの犠牲者を出したが、オスマン軍はロシア軍を押し返した。そこで両陣営は陣地を補強する。極寒の冬をかんがえると、春まで戦争はできないはずだった。
 いっぽうペルシアでは、すでに1908年からイギリスのアングロ・ペルシアン石油会社が操業を開始し、ペルシア湾のアバダーン島に製油所を設けていた。戦争がはじまると、イギリスはオスマン領メソポタミアへの進出をこころみた。その部隊となったのが英領インド軍である。インド軍は、まずバスラに侵攻した。バスラはティグリス川とユーフラテス川が合流して、シャッタルアラブ川となって流れる港町である。
 メソポタミア侵攻を開始する前にイギリスはクウェートと、オスマン帝国から離脱するという協定を結んだ。そのさい、クウェート領主シャイフ・ムバラクはイブン・サウド(のちのサウジ国王)などと協力することを誓った。
 英領インド軍は11月23日にバスラ入城を果たす。イギリスはさらにティグリス川とユーフラテス川の合流点、クルナをめざした。作戦はうそのようにうまくいった。インド軍兵士の死者はわずかで、12月6日にクルナは陥落する。こうして、イギリスは腰を据えてバスラ地域を支配することになった。
 英領インド軍の別の部隊はエジプトに向かった。イギリス艦隊は紅海にはいる前に保護領のアデンに立ち寄った。周辺ではオスマン軍の動きが活発になっていた。オスマン軍を排除する必要があった。11月10日、英艦艇の砲撃により、オスマン陣地はイギリス軍に占拠される。しかし、この作戦はのちにイエメンとの関係で、やっかいな問題を残すことになった。
 エジプトにはイギリスの東部ランカシャー義勇軍やインド軍、アンザック軍(オーストラリア・ニュージーランド軍)が集結した。英連邦軍部隊の集結は、エジプトの不穏な状況を沈静化させた。休暇をもらった兵士たちは観光客に早変わりし、時に騒ぎを引き起こした。とはいえ、エジプトはイギリスにとって、その後のオスマン帝国攻略の拠点となった。
 トルコが参戦すると、イギリスとフランスはトラキア(バルカン半島東部)からサモス島までの海域、すなわちエーゲ海全域を封鎖した。英仏艦隊はダーダネルス海峡の出口、レムノス島に基地を置いた。
 オスマン帝国はダーダネルス、ボスフォラス海峡の防衛を強化していた。要塞に大砲が据え付けられ、海峡入り口には機雷が敷設された。強力なサーチライトが夜間航路を照らしていた。オスマン艦隊が両海峡に集結し、歩兵部隊がイスタンブルの守りを固めていた。
 そのぶん、エーゲ海と黒海の守りは手薄になった。ロシア海軍は黒海沿岸のトラブゾンを攻撃、英仏海軍はエーゲ海に面するスミルナ(イズミル)を砲撃した。シリアとの境、キリキア(地中海に面するトルコ南部地域)のメルスィン港は物流の拠点だったが、ここも脆弱だった。
 著者はこう書いている。

〈参戦して2カ月のうちに、協商国と中央同盟国両方にとって、オスマン帝国の脆弱性が明らかになった。トルコ軍は国境のすべてを攻撃から守ることは不可能であり、オスマン帝国の領土の広がりを考えれば、彼らにそれができると期待するのは現実的でなかった。彼らはコーカサス、バスラ、イエメンそしてエーゲ海、キリキアなど領土のあらゆる地点から撤退を強いられていた。〉

 オスマン帝国としては、どこかで攻勢に転じなければならなかった。
 ドイツの思わくとはことなり、今回の戦争にさいして、トルコ首脳部には独自のねらいがあった。ロシアから奪われたアナトリアの3県(カルス、アルダハン、バトゥーミ)とイギリスが支配するエジプトを取り戻したいと考えていたのだ。
 オスマン帝国海相のジェマルは、「青年トルコ人」の同志で、陸相のエンヴェルと協議して、シリアで軍団を立ち上げ、スエズ運河を攻略しようと計画した。そのためには、シナイ半島を横切らなければならない。
 いっぽう陸相のエンヴェルはアナトリアで失った3県に焦点を合わせた。エンヴェルは、ロシア・コーカサス軍の撃滅計画を立てた。
 こうして、オスマン帝国の反攻がはじまったのだ。
「青年トルコ人」革命のリーダー、エンヴェルは大胆さが取り柄で、それまでさまざまな軍事作戦を成功させてきた。しかし、今回の山岳地帯での作戦は、あまりにも無謀だった。衣服や食料、弾薬、兵站を含め、冬季作戦にたいする配慮が欠けていた。それでも1914年12月下旬にエンヴェルはロシア軍への攻撃を開始する。
 オスマン軍はロシア軍の冬ごもり期をねらって、奇襲攻撃をかけた。一挙にロシアの軍事拠点サルカムシュを奪い、カルス、アルダハン、バトゥーミの3県を取り返すつもりだった。だが、天候とちいさな作戦ミスが、オスマン軍の進攻をはばむ。兵力が足りなくなったオスマン軍はロシア軍に押し返され、軍団は崩壊し、コーカサス作戦は失敗に終わった。
 エンヴェルはイスタンブルに逃げ帰った。サルカムシュでの敗戦はしばらく秘密にされていた。
 いっぽうシナイ半島に向かったジェマルは、スエズ運河西岸の重要都市イスマイリアを占領する計画を立てた。この作戦に成功すれば、スエズ運河を掌握できるだけでなく、エジプト民衆の蜂起も期待できると踏んでいた。
 だが、この計画もあまりにずさんだった。現在のイスラエル南部に集結したオスマン軍は、1915年1月、シナイ半島に向かった。砂漠を越えるのに12日間かかった。当初、イギリス軍はオスマン軍の動きをつかめなかった。
 2月1日、オスマン軍司令官は攻撃命令をだした。運河を渡るための舟橋の組み立てには予想以上の時間がかかった。そのとき、西岸で突然、機関銃が火を吹き、航空機が爆弾を投下しはじめた。イギリスの砲艦が舟橋を破壊した。オスマン軍兵士はわずかしか運河を渡れなかった。
 こうして、奇襲に失敗したオスマン軍は撤退する。イギリス軍はわなを恐れて、深追いするのを避けた。この戦闘での両軍の死傷者は比較的少なかったという。それでもオスマン軍にとっては、大失敗である。
 コーカサスとスエズ運河で敗北したあと、オスマン軍司令部はメソポタミア(現イラク)のバスラ奪回を計画する。その計画をまかされたのが、特務機関のリーダー、スレイマン・アスケリだった。
 1915年4月、アスケリはトルコ軍正規兵と非正規のアラブ部族兵を組織し、バスラを急襲しようとした。だが、シャイバでの激戦の末、敗れ、自決した。
 戦闘に勝利した英領インド軍は、このあとティグリス川、ユーフラテス川の上流に向かって軍を進めることになる。ユーフラテス川の上流にはバグダードがあった。
 オスマン軍の反攻失敗を確認した連合国側は、イスタンブル制圧を夢見るようになる。それがダーダネルス海峡襲撃とガリポリ作戦へとつながっていくのだ。
 第一次世界大戦は欧州大戦とも呼ばれるように、ヨーロッパでの戦争が中心だと思われがちだ。だが、じつは中東でも激しい戦いとめまぐるしい駆け引きがくり広げられていたのである。

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