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資本と産業組織──マーシャル『経済学原理』を読む(10) [経済学]

 久しぶりにマーシャルの「原理」を読む。前にメモした部分をすっかり忘れてしまっている。困ったものだ。じつに困った。それでも、こんどもメモしておかないと、また忘れてしまうのが目に見えている。
 公開するほどの代物ではない。あくまでも年寄りの備忘録、たまった本の整理に尽きる。それが遅々として進まぬのが自分でもおかしい。もう手遅れ、まもなく「はいそれまでよ」のお声がかかりそうだが、それはそれとして、愚鈍ながら、すこしでも本を読みつづけることができれば幸いと思っている。
 生産要因と問えば、ふつう土地、労働、資本との答えが返ってくる。土地と労働についてはこれまでみてきた。きょうからは資本の話だ。マーシャルは、資本は富のなかから生まれて、産業組織をかたちづくり、また富をつくっていくと考えている。
 そこでまず富の発達をみていこう。
 マーシャルは人間の富は徐々に発達してきたという。未開時代の富は、狩猟漁獲用具と装飾品、衣服と小屋、それに家畜くらいなものだった。だが、村がつくられ、農業が営まれるようになると、これに土地や井戸が加わるようになった。宝石や貴金属も貴重な富となった。王侯があらわれると、宮殿や道路橋梁、運河用水施設も登場し、都市が出現する。だが、都市の人口は農村にくらべて、ごくわずかだ。水運業や建築業が発達してくるが、仕事に用いられる道具も、ごく簡単なものだった。
 イギリスでは、18世紀ごろから農業機具が次第に高度化してくるが、水力、ついで蒸気が動力として利用されるようになると、18世紀末から19世紀にかけ、さまざまな産業部門に高価な機械が導入されるようになり、大工場が出現する。鉄道や船舶、電信電話、水道、ガスも普及してくる。機械は人間の労働生産性を飛躍的に拡大させた
 文明が進むにつれて、人びとはいつも新しい欲望をもつようになり、それを満たすための新しい方法を編みだしてきた。その欲望はとどまることを知らない。マーシャルは現代人が定常状態──すなわち「充足すべき新しい主要な欲望もあらわれず、将来に備えて有利に現在の資力を投資する余地もなく、富を蓄積しても報酬が得られないようになる」状態──に近づいていると信じてよい理由はどこにもないと述べている。
 マーシャルはあくまでも楽観的だ。資本が投下され、生活必需品を超える生産物がつくられるようになると、余剰が増大し、富が蓄積され、知識も増大してくるという。
 将来への備えや、合理的な貯蓄の重要性を強調することも忘れていない。だが、保障のないところに貯蓄は存在しない。収奪や侵略などがあれば、貯蓄などたちまち消えてしまうのだ。マーシャルはまた、かつての救貧法は、労働者の自助努力をそこない、労働者階級の進歩にとっては大きな損害となったとも述べている。
 マーシャルは貨幣経済が安直な消費とぜいたくをもたらしたことを認めるいっぽうで、それが将来にたいする貯蓄をも容易にし、個人が資本を活用する(つまり商売をする)機会を増やしたことも指摘している。富をつむのは、みずからの力を誇示し、社会的地位を上昇させるためという見方があるかもしれないが、ほんとうは家族愛がむしろ動機になっていることが多いというあたりは、いかにもマーシャルらしい。
 貯蓄の源泉は余剰所得といってよいが、19世紀初頭の商工階級にとっては資本利得こそが主要な貯蓄の源泉だった。とはいえ、地主や知的職業人、労働者の貯蓄も無視できない。「賃金労働者への配分を増し資本家への配分を減少させるような富の分配の変化は、他の事情に変わりがなければ、物的生産の増大を促進するし、物的富の蓄積を目にみえるほど抑制することはない」というあたり、マーシャルは単純に資本家の味方とはいえない。
 マーシャルにとっては、富の公平な分配と、民主主義にもとづく公共資産の蓄積こそが、豊かな社会を築く源泉と考えられていた。そのためには労働組合や協同組合、互助組合、貯蓄銀行の役割が重要だとしている。
 ところで、人が貯蓄するのは、将来、稼得力が低下するのを想定して、そのときに備えるためである。その点、富の蓄積は「人の展望性、すなわち将来をいきいきと思い浮かべる性能に依存している」と、マーシャルはいう。とはいえ、富を蓄積するには、将来のために働き、享受をくりのべること、すなわち「待忍」が必要になってくる。
 貯蓄が利子率と関係するのはいうまでもない。一般的に利子率の低下は、貯蓄を減少させる傾向がある。逆に利子率が上がれば貯蓄の意欲を高めることは普遍的な準則だ、とマーシャルは論じている。
 このあたり、いまの日本はどうなのだろうと思わぬでもないが、いまは先を急ごう。
 次に検討されるのは産業組織についてである。資本は産業組織(企業)に体現されるとするのが、マーシャル経済学の特徴といえるだろう。
 マーシャルは生物学とのアナロジーで、社会の発達をとらえる。
 社会が生き延び、発展していくには、機能の分化が必要だ。政治と経済、文化の分化もそのひとつだろう。それが産業面においては「分業すなわち専門的技能・知識および機械の発達」となり、同時に「総合」すなわち金融や交通、通信手段の発達となってあらわれる、とマーシャルは論じる。
 近代社会の特徴は分業と総合にあるというわけだ。これは組織面においてもあてはまる。
 マーシャルはダーウィンの適者生存の法則を念頭におき、有機体と組織をアナロジーとしてとらえている。組織が生き残っていくには、厳しい生存競争に耐えねばならず、残念ながら、労働者の経営参加や利潤分配要求に安直に応じるわけにはいかない。
 生存競争で組織が生き残っていくには、「自己犠牲」の性向、国においては愛国心、企業においては愛社精神のようなものが必要だ。また組織が長く存続するためには、時に寄生しなければならないこともあるが、何よりも独立自尊の精神がなくてはならない、とマーシャルはいう。
 古い時代においては、宗教、政治、軍事、経済で密接につながる人間集団を統制していくには、身分制(ないしカースト制)が有益だった。だが、こうした制度を守りつづけた国家は、けっきょく硬直し、進歩から取り残されていった。
 これに代わったのが、近代の階級制度だ、とマーシャルはいう。それは流動的で、環境に応じて変化するものだ。
 だが、職階をなくすわけにはいかない。分業と総合の仕組みをもつ近代社会にあっては、人はそれぞれの職階で、自己犠牲をもともなう貢献が求められるのだ、とマーシャルは論じる。
 とはいえ、マーシャルは、組織は常に硬直する恐れがあるという。そのため、組織は進歩する方向をさぐりつづけなければならない。だが、あまりに急激な変化は、かえって組織を不安定なものにしてしまう可能性がある。

〈進歩は徐々におこなわれなくはならない。単に物質的な視点からみても、生産の直接の能率をほんのすこし向上させるような変化でも、もし富の生産がいっそう能率的で分配がいっそう平等な組織に向かって人間をすすませるようなものであれば、そのような変化は実現させてみるだけの価値がある。どのような組織にせよ、産業の下級な職階にあるものの性能をむだにしてしまうような組織にたいしては、重大な疑問をなげかける余地が多分にあるのだ。〉

 マーシャルは、組織は組織のためにあるのではなく、あくまでも社会と人間のためにあると考えている。

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