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移行の問題──ホブズボーム『いかに世界を変革するか』を読む(7) [本]

 著者によれば、原始共同体は、都市が発達するにつれて、(1)アジア的様式、(2)スラブ的様式、(3)古典古代的(ギリシャ・ローマ的)様式、(4)ゲルマン的様式の4つの社会形態に転換していくというのが、『経済学批判要綱』でのとらえ方だった。
 マルクスの記述は錯綜していてわかりにくい。アジア社会(イスラム世界を含む)やスラブ社会については、ついに体系的な記述はなされなかったとみるべきだろう。アフリカについては、なおさらである。
 したがって、社会構成を軸とした世界史の体系的記述は、あくまでも仮説にとどまり、大きく分けて、原始(無階級社会)、古代(奴隷制社会)、中世(農奴制社会)、近代(プロレタリア社会)の4段階の枠組みが残ったというべきだろう。アジアは意識されていたものの脇におかれ、あくまでも中心的と考えられた社会を軸として、歴史の流れがとらえられている。マルクスの場合、その中心とはヨーロッパでしかありえなかったし、事実、ヨーロッパが近代を開いたことは否定できない。
 そこで、著者のホブズボームは、世界史が古代から近代へと段階的に移行するにあたって、社会経済構成がなぜ変化していったかをマルクスの分析に沿って、もう一度整理しなおしている。
 古代の体制はなぜ崩壊したのか。
 古代の土地は共同体所有と私有の組み合わせからなっていた。市民は土地の私有を認められている。だが、それは絶対的にではない。商工業は解放奴隷や隷属平民、外国人がになういっぽう、被征服民からなる奴隷が市民の生活を支えていた。マルクスはその崩壊過程を具体的に論じているわけではない。ただ、古代都市国家や古代帝国の衰退が、そうした体制の維持をむずかしくしたと示唆するにとどめている。
 次に成立した中世封建制が衰退するのは、あきらかに都市の発展によるものと考えられている。農奴は領主の支配下にあったとはいえ、事実上、経済的に独立した生産者だった。その農奴が独立自営農民もしくは小作農民に転じて、領主からの独立性が強まれば、都市の商業的発展とあいまって、封建制の基盤はゆるんでいく。商人や職人が都市でさかんに活動するかたわら、賃金労働者もあらわれはじめる。だが、中世についてのマルクスの記述はあくまでも素描にとどまっている。封建制から資本主義への移行についても、詳しく論じられたとはいいがたい。
『経済学批判要綱』の「諸形態」論では、原始共同体からの派生種として「ゲルマン的体制」が取りあげられている。そこでは同じ宗教のもと、自給的な家族が分散的に定住し、他の家族と結束して、地域を保全し、随時開催される集会にもとづいて、戦争や紛争の処理にあたっていた。牧草地や狩猟地は共同所有とされていた。
 マルクスは、このゲルマン体制がいかにして封建制に移行するかを示しているわけではない。これにはローマ帝国の崩壊と、中世の成立についてのさらに詳しい研究が必要となるだろう。
 封建制から資本主義への移行についても、マルクスはほとんど論じていない。ただ、モーリス・ドッブやポール・スウィージーをはじめとして、さまざまな論議がなされた。ドッブは封建制が生産体制として非効率だったと指摘し、いっぽうのスウィージーは都市の活発な商業活動が封建制を解体させる要因になったという。
 著者によれば、マルクス自身も農村における小作農の解放、都市の職人による手工業の発達、商業によって蓄積された貨幣が、ブルジョワ前史となると指摘しているという。「資本は、最初は散発的にあるいは局地的に旧生産様式のかたわらに出現し、ついで旧生産様式をいたるところで分解する」というのが、マルクスの理解である。
 国際交易が盛んになるにつれて、海外市場向けのマニュファクチャーが誕生するが、それはギルドの制約の強い都市においてではなく、むしろ周辺部の農村地域において発生した。さらに農村では、自由な日雇い労働者と借地農民があらわれ、農業の商業化がはじまる。農村から流出した人口は都市に流れこみ、ギルドに属さない日雇い労働者として、プロレタリアート化していく。そして最後に職人ギルドが産業に転じていく。マルクスのえがいた封建制から資本主義への移行図式は、ざっとそのようなものだった。
 著者によれば、マルクスとエンゲルスは晩年になっても、資本主義に先行する諸形態の研究をつづけたという。
 マルクスはとりわけ原始共同体の研究に没頭した。ロシアの共同体にも興味をいだいている。モーガンの『古代社会』からは多くのことを学んだ。のちにエンゲルスはマルクスが実現できなかったテーマを、『家族・私有財産・国家の起源』として、1冊にまとめることになる。しかし、ほんらいエンゲルスが興味をいだいていたのは中世ドイツだったという。
 エンゲルスはさらに『反デューリング論』で、いわゆる唯物史観の定式化をこころみるとともに、マルクスが論じなかった欠落部分を埋めようとした。ローマ帝国の奴隷制ラティフンディウムがある時点で不経済になり、小規模農業に再帰していくこと。封建的農業においては小規模農耕が支配的になり、小農の一部は自由だったこと。封建時代初期において経済生活は局地的自給性が強かったこと。領主制は大規模な支配的地主と従属的小作を生んでいたこと。修道院の特殊性、などなど。
 そのほか、中世封建制に関するエンゲルスの研究は多岐にわたり、まとまったものではないにせよ、その面での業績はもっと評価されてよい、と著者はいう。とはいえ、エンゲルスはマルクスが示した封建制から資本主義への移行図式に大きな変更を加える意図はなかった。いわゆる唯物史観の基本線が守られていたといえるだろう。
 マルクス、エンゲルス没後は、唯物史観の単純化、教科書化が進んだ。すべての人間社会は一つの社会構成体から次の社会構成体へと進化し、最後はその頂点である社会主義に達するという教義が生まれた。
 単純化を進めるため、「アジア的生産様式」ははぶかれ、奴隷社会が普遍化され、封建制の範囲が拡大された。そして、議論は錯綜してくる。
 唯物史観について、自由な論議がおこなわれるようになったのは、スターリン批判以降である。「要綱」で論じられていたアジア的生産様式についての論議も復活することになったという。
 生産様式にもとづく唯物史観を再編成するこころみとして、たとえば柄谷行人は交換様式にもとづく世界史の見直しを提唱し、世界共和国への展望を開こうとしている。
 これから、はたして世界が世界共和国に向かうのか、ぼくにはわからない。国家間の対立がつづくのではないかとの思いのほうが強い。
 それは、ともかく唯物史観についてである。
 マルクスがそれまでの政治的な世界史にたいし、歴史を生産様式にもとづく社会構成体の変遷としてえがきだしたのは、やはり天才的だったと思っている。にもかかわらず、世界史を生産様式の変遷図式でとらえるのは、やはりまちがいだ、とぼくは考えている。
 ホブズボームの解釈とはことなるが、世界史はマルクスが考えたように、アジア的→古代的→中世的→近代的の不可逆的な流れをたどってきた。その変遷は時代の中心的国家社会を代表としてとらえることによって成立する認識である。文明の変遷と考えてもよい。さらに具体的には、その文明の中心を担った〈帝国〉の変遷といってもよいわけで、その帝国は外部と対立しながら、内部に経済的な社会構成だけではなく、政治的、宗教的、文化的な社会構成をかかえているはずである。
 つまり、生産様式であれ、交換様式であれ、経済的な社会構成だけで、世界史を理解することはできないというのが、ぼくの考えだ。国のかたちが重要である。社会主義は経済主義的な思い込みのうえに成り立ち、プロレタリア独裁などといった強権的体制を正当化する理論装置になってしまったのではないか。
 世界史は中心的な帝国──政治、経済、宗教、文化を含む国家統一体としての──の変遷史として記述されるべきだと思われる。そのさい、重要なのは、中心にたいして周辺や大衆のもつ意味を忘れてはならないということである。
 ところで、ぼくは世界史を論じるにあたって、マルクスにならってアジア的という段階を導入してみたが、ここでいう「アジア」は、われわれが頭に浮かべがちな日本や中国などのことではなく、あくまでもアジアの原義である「東」(エーゲ海の東)を意味することばである。すなわち、文明はヨーロッパから発したのではなく、アジア、すなわち東からやってきたというわけだ。
 そこで、いまマルクスの歴史区分をあてはめてみると、世界史はおよそ以下のように移行してきたことがわかる。もっとも、その前に、われわれは吉本隆明が論じたように「アフリカ的段階」というのを導入してもよいのかもしれないが、今回それはやめておくことにしよう。以下は頭に思い浮かぶかぎりの、ざっとした見取り図である。

(1)アジア的段階
エジプト アッシリア バビロニア インダス川流域 殷王朝
(2)古代
ギリシャ ペルシャ帝国 アレクサンドロス帝国 マウリヤ朝 ローマ帝国 漢王朝
(3)中世
東ローマ帝国 フランク王国 神聖ローマ帝国 イングランド王国 イスラム帝国 ムガール帝国 隋 唐 宋 モンゴル帝国
(4)近代
イタリア都市国家 イスパニア王国 オランダ オスマン帝国 大英帝国 ロシア帝国 明 清 日本 アメリカ合衆国 ソ連 中国

 これは漠然としたイメージである。細かくはもっと分けられるかもしれない。近代の前に近世をいれてもいいし、近代のあとに現代をつなげるほうがいいにちがいない。アジア的段階という概念は別の言い方に変えたほうがいいかもしれない。だいじなのは、それぞれの歴史段階において、地域ごとに国家体制や経済体制で支配の仕方がことなっていることである。
 それらを分析し、統合していけば、人類の文明史がもっと概観できるようになるだろう。いまは、マルクスの切り開いた唯物史観は、その最初の糸口だったという気がしている。

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