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マルクスと政治──ホブズボーム『いかに世界を変革するか』を読む(8) [本]

 いま革命家といえば、1967年10月にボリビアで銃殺されたエルネスト・ゲバラのことをまず思い浮かべるかもしれない。世界を変革するというかれの強い思いは、開発途上国、先進国を問わず、いまでも多くの青年をひきつけている。
 そのいっぽう、われわれのような老世代は、すでに革命に悲惨な光景を結びつけるようになっている。または、60年代末期の血気盛んなころを思いだして内心忸怩たるものを覚えながら、それでもやはり世界はこのままではいけないと憤慨するのが落ちだろう。もはや世界同時革命をと唱える元気はない。日本に社会主義革命を、などといわれても、思わず後ずさりするばかりである。
 マルクスも革命家だった。いや、マルクスこそ近代的な革命家の創始者だったかもしれない。革命家は嫌われる。まして、革命など遠い昔の話になったいま、マルクスなど夢想家の狂人にすぎないとみなされるかもしれない。
 しかし、マルクスが生まれた200年前をふり返ってみよう。それは西洋だけをみても、まさに革命の時代だった。1775年にはアメリカ独立革命、1789年にはフランス革命がおきていた。ナポレオンが死んだのは、マルクス3歳のときだ。ヘーゲルが死んだのは13歳のときだ。
 1830年には7月革命、1848年2月にはパリ2月革命、3月にはウィーン3月革命、1871年にはパリ・コミューンがあった。そしてマルクスの死後、1905年にはロシアの血の日曜日事件、1917年にはロシア革命が発生している。
 その時代、革命はけっして絵空事ではなかったのだ。
 著者のホブズボームによれば、マルクスは時事的な政治解説は別として、政治についての理論を残しているわけではないという。人間生活の物質的条件を解明することが、学者としてのマルクスの第一の仕事だった。
 とはいえ、マルクスは共産主義者同盟の依頼で1848年1月に「共産党宣言」を執筆している。同年2月に革命が発生するとケルンで『新ライン新聞』を発行し、ドイツの民主化を支援した。しかし、革命が失敗に終わると、ロンドンへの亡命を余儀なくされ、『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』に論説を送信しながら、経済学批判の仕事に本格的に取り組むことになる。それでマルクスの政治活動が終わったわけではない。1864年には第一インターナショナル(1864〜76)の設立にあたって、その宣言と規約を書きあげている。
 マルクス自身が政治活動の先頭に立ったことはない。しかし、革命の理論的指導者でありつづけたことはまちがいないだろう。
 反乱は個別的な戦いとしてはじまり、労働組合を通じて、地域的・地方的な経済闘争へと発展し、最後は階級的な全国的闘争へと発展するというのが、革命にたいするマルクスの見通しだった。闘争は経済闘争にとどまらない。政治権力の奪取が求められた。そのためには労働者の党が必要だった。
 著者によれば、マルクス自身は国家の本質は政治権力であり、政治権力は支配階級の利害を代表していると考えていた。革命によってプロレタリアートが権力を握れば、しばらくのあいだ「プロレタリア独裁」の期間がつづくが、階級対立がなくなったあと国家はなくなるものと想定されていた。
 プロレタリア独裁期においては、何らかの社会計画が必要とされ、階級対立がなくなったあとも、社会には何らかの管理運営機能が必要であること(だが、それは統治を目的とする国家ではない)も認められていた。
 とはいえ、著者によれば、プロレタリア独裁とは、単純に反対勢力の弾圧を意味するものではなかったという。それは旧体制の軍隊や警察、官僚制を解体することであり、「主として旧国家装置の生き残りの危険に対して革命を防衛する必要として理解されていた」。つまり、プロレタリア独裁は、ほんらい民衆政府を維持する手段と考えられていたのである。
 プロレタリア独裁のもと、資本主義社会は次第に共産主義社会へと転型されていく。それは長く複雑で、現段階では予想できない発展をたどるものと想定されていた。
 マルクス自身は同時代における革命の展望をどのようにとらえていたのだろうか。
 焦点になるのは1848年である。革命が発生しそうなのは、イギリスではなく、フランスやドイツ、オーストリア、スペイン、イタリアだった。だが、これらの国々で労働者階級は少数派にすぎなかった。
 このときマルクスが求めたのは、プロレタリアートの急進化であって、プロレタリアートが革命に加わり、反動的な君主制を倒すことだったといってよい。それにより、プロレタリアートが(実際には急進派の知識人が)持続的に政治の舞台に一拠点を築くことが期待されていた。だが、1848年革命は反動体制の勝利で終わることになる。
 1857年には世界恐慌が発生したが、革命はおきなかった。それでも、マルクスとエンゲルスは、自分たちの革命ヴィジョンを堅持している。
 著者はこう書いている。

〈その後[1848年から]20年ばかり、彼らにとっては差し迫って成功するプロレタリア革命への展望はなかったが、エンゲルスはマルクス以上に万年青年の楽観主義を保っていた。確かに彼らはパリ・コミューンに多くを期待しなかったし、その短い存続期間にそれについて楽観的な叙述をすることを注意深く控えていた。他方で資本主義経済の急速で世界的な発展、とくに西ヨーロッパとアメリカ合衆国の工業化は、いまやさまざまな国で大量にプロレタリアートを生み出していた。彼らがこのとき望みをかけたのは、これらの労働運動の増大する勢力と階級意識と組織であった。〉

 著者は革命党を設立するというマルクスの思いは、かれの死後、社会主義大衆政党に引き継がれたとみているようだ。エンゲルスは立憲制の確立と普通選挙、社会改革をめざすドイツ社会民主党を支持していた。とはいえ、エンゲルス自身も革命のヴィジョンをけっして放棄したわけではない、と著者は論じている。
 1848年革命の失敗により、大陸では立憲議会制すら達成されず、フランスではルイボナパルト(ナポレオン3世)が政権の座についた。
 マルクスは1864年の第一インターナショナル設立に大きな役割をはたした。資本主義が世界的に発展するなか、これからの革命は労働者が積極的な運動をくり広げるなか、国際的に展開すると考えられていた。
 マルクス、エンゲルスは民族主義的な立場をとらない。民族主義的な立場を認めるとしても、それはあくまでも世界革命の過程としてである。
 戦争を期待するわけではなかった。しかし、戦争と革命は無関係ではないと考えていた。
 マルクスの時代、ロシアは反動の砦と考えられており、ロシアの敗北は革命と進歩をもたらすだろうと思われてはいた。いっぽうフランスやドイツ(プロイセン)への期待は1848年に裏切られ、ナポレオン3世の統治とビスマルク体制はマルクスをいたく失望させていた。
 戦争ではなく革命を、というのがマルクスの基本的な考え方である。だが、1848年以後の時期は、けっして革命への展望が明るくなかった。「それは主として、ロシアが反動の堡塁であったように、イギリスが資本主義的安定の堡塁であったからである」と、著者は書いている。
 第一インターナショナルが革命に期待を寄せていた場所があったとすれば、それはアイルランドだったという。アイルランドはイギリスの農業植民地だった。その独立運動は、帝国主義との戦いにつながるものだと考えられた。そのいっぽう、マルクスは農業国ロシアにおける革命の可能性にも注目しはじめていた。
 だが、その前に戦争が発生する。1870年の普仏戦争で、フランスはプロイセンに敗れ、ナポレオン3世の第2帝政が崩壊する。パリでは民衆が蜂起し、パリ・コミューンが成立する。マルクス自身はパリの蜂起に反対していたが、コミューンが成立すると、それを支持する。
 パリ・コミューンはわずか2カ月ほどで崩壊する。その詳しい情報がはいらないなかで、マルクスは『フランスの内乱』というテキストを執筆し、パリ・コミューンを擁護するとともに、共産主義にいたる道として、ふたたびプロレタリア独裁と社会主義、国際的な連帯を強調した。
 パリ・コミューンの挫折のあと、ドイツでは社会民主党がすっかり国家の補完勢力になりさがった。第一インターナショナルは崩壊する。マルクスはロシアでの革命の可能性をさぐるようになった。
 だが、マルクスの死後、革命は遠く去ったわけではなかった。むしろ戦争と革命の時代がつづくのだ。それはロシア革命からはじまって、挫折したドイツ革命、中国革命、植民地解放闘争、キューバ革命などへとつづくことになる。
 マルクスが世界革命への道を指し示したことはまちがいない。
 とはいえ、それは資本主義が生みだしたプロレタリアートに依拠するものではなく、政治的反乱によってであった、と著者はいう。
 革命の目的は、あくまでも支配階級を転覆することだった。革命政権は独裁的にならざるをえない。マルクスは議会主義を否定していたが、それは、あくまでも社会主義の正しさを堅持するためだった。
 マルクス自身は、プロレタリア独裁の形態は、歴史的発展と具体的な情勢にもとづいて案出されるべきものだと考えていたという。
 著者はマルクスを擁護するため、むずかしい言い方をしている。

〈行動への指針は、自己の教条化への誘惑に絶えずさらされている。マルクス理論のなかで、マルクスとエンゲルスの政治的思考の領域ほど、このことが理論と運動の双方にとって有害であったところはない。しかしそれは、不可避的であったかどうかわからないが、マルクス主義が到達したものを表しているのである。〉

 考えてみれば、民主主義は政治のプロセスにすぎず、独裁をめざさない政治は存在しない。だが、それは、けっきょくのところ歴史の審判にさらされる。マルクスにとって、プロレタリア独裁は大衆的な社会主義を実現するという信念がもたらした政治信条にほかならなかった。
 民主主義の審判を拒否したプロレタリア独裁政権は、社会主義経済の失敗によって、歴史の断罪を受けることになった。だが、それはもちろん社会主義独裁政権にかぎった話ではないだろう。

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