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ホブズボーム『いかに世界を変革するか』(まとめ) [本]


   1 マルクスの影響力

 エリック・ホブズボーム(1917-2012)はイギリスの著名なマルクス主義史家で、多くの著書を残した。なかでも「長い19世紀」三部作(『革命の時代』[日本語版のタイトルは『市民革命と産業革命』]、『資本の時代』、『帝国の時代』)と『20世紀の歴史──極端の時代』がよく知られている。本書の原著は、かれが2012年に95歳で亡くなる1年前に上梓された。
 サブタイトルに「マルクスとマルクス主義の200年」とある。マルクスは1818年にライン川の支流モーゼル川に面するドイツのトーリアで生まれた。2018年は生誕200年になる。
 おそらくマルクスほど歴史に大きな影響を与えた知識人は、そうざらにはいないだろう。その思想は現在もさまざまにかたちを変えて、引き継がれている。
 マルクス以後の200年をどうとらえるかは歴史家の腕の見せ所といってよい。本書は1956年から2009年までのあいだの、ホブズボームによるマルクス関連の論文や講演を集大成したもので、包括的なマルクス主義史としてはばらつきがある。マルクスの主要著作である『資本論』については言及されていないし、ソ連や東欧、中国でおこった現実についても具体的な記述は少ない。それでも、マルクスとマルクス主義にたいする思い入れが深い本だといってまちがいない。
 全部で16章、日本語版の本文だけで、軽く500ページを超える大著である。学術的な記述にわたる部分も少なくない。この本を読むのは、ぼくのような素人には、はっきりいって骨が折れる。どうしても読者は専門の研究者が中心ということになるだろう。
 ところで、この本を紹介する前に、自身のことを述べておくと、ぼくがマルクスを読んだのは大学時代だけである。それも学問的な訓練を受けたわけではなく、一知半解レベルにとどまる。そのあとは長いサラリーマン時代で、苦しくも楽しい会社員生活を送り、定年になってから、またマルクス関係の解説書を読むようになった。
 資本主義もいろいろ問題はあるけれど、社会主義はひどい体制だと思っている。政党支持でいえば、無党派層に属する。政治は嫌いだ。だから、とてもマルクス主義者とはいえない。それでもマルクスにはひかれる。マルクスは天才だと感じている。そんなうすぼんやりした感覚しかもたないぼくに、はたしてこの本の内容が理解できるだろうか。
 そんな思いをいだきながら、本書を読みはじめた。最初のページから最後のページまで気合いをいれて読むのはくたびれるので──最近は歳のせいで、本をめくりはじめると、たちまち頭に霧がかかって、睡魔に襲われてしまうのだ──おもしろそうな章を気の向くままに読むことにした。
 さて、第1章の「現代のマルクス」は2006年の講演を書きなおしたもので、マルクスとマルクス主義にたいする著者のとらえ方を示しているため、これをはずすわけにはいかない。
 マルクスがロンドンで亡くなったのは1883年のことだ。享年65歳。マルクスより2歳年下のエンゲルスは1895年まで長生きする。
 ホブズボームはマルクスが失意のうちに死んだわけではなかったと書いている。「彼はその生涯のなかば以上を亡命者として過ごしたイギリスで、政治においても知的生活においても、目立った地位を占めることがなかった」。しかし、その影響力は生前から少しずつ広がりはじめていたというのだ。
 マルクス死後70年のうちに、人類の3分の1が、マルクス主義を信奉する共産党国家のもとで暮らすようになった。いま、その割合はソ連共産党の解体によっては2割ほどに減ったが、それにしても、これほど大きな影響を与えた思想家はほかにいない、と著者は書いている。
 古いレーニン主義(スターリン主義)体制はソ連崩壊によって放棄された。逆にいまは生のマルクス自体が見直されようとしている、と著者はいう。
『共産党宣言』は、現代のグローバル世界を予言していた。ジョージ・ソロスがマルクスを高く評価していることも、よく知られている。2008年のまさかの恐慌は、マルクスをよみがえらせる、ひとつのきっかけとなったという。
 20世紀になって、マルクスの思想は社会民主主義と(ソ連型)社会主義に分裂した。こうした分裂が生じたのは、マルクスの死後に、さまざまな解釈や修正がほどこされたからだ。マルクス自身は、そのどちらを唱えたわけでもなかった。
 マルクスは生産力の面で、社会主義が資本主義にまさると主張したことは一度もない。ただ、資本主義のもたらす周期的恐慌が、資本主義とは異なる体制への移行をうながすと想定したにとどまる、と著者はいう。
 著者によれば、社会主義経済のプロジェクト、すなわち「無市場・国有・指令経済」を原理とする中央計画経済の考え方は、すこしもマルクス的ではなく、失敗に終わるのが目に見えていた。マルクスは「生産手段の共同所有」を示唆していただけで、計画化については何も語っていなかったというのが、著者のとらえ方だ。
 いっぽう、社会民主主義はマルクスの考え方を修正し、混合経済による資本主義の修正を打ちだした。それは、国富の公平な分配に重きをおいた。だが、社会民主主義はマルクスが本来想定していた「本質的に非市場的な社会」とは、はるかにことなるものだった、と著者はいう。
 著者は最近の「新自由主義」にも触れている。新自由主義とは「自由放任原理の病理学的退廃を経済的現実に転化させようとする企て」であり、いわばアダム・スミス流の考え方を悪用するものだと述べている。
 著者の立場は、あくまでもマルクス本来の立場を継承することに置かれている。

〈マルクスは、3つの点で巨大な力をもっていた。経済思想家として、歴史思想家として、分析者として、社会についての近代的思考の公認の創始者として(デュルケームとマックス・ウェーバーとともに)である。……間違いなく現代への関わりを決して失わないのは、資本主義は人間の経済生活の限られた一時期の様式だというマルクスの資本主義像と、絶えず拡大し集中し恐慌を生み、自己変容していく資本主義の運動様式についての彼の分析である。〉

 著者は「マルクスに立ち返る」ことを提唱する。
 いまやソヴィエト型モデルは消滅し、市場原理主義が世界をおおっている。そのいっぽうで、世界じゅうで富の格差が広がり、自然環境の破壊が深刻化している。
 マルクスの予言がいくつもはずれたことを著者も認めている。それでも21世紀を考えるうえで、マルクスに立ち返ることは有効だと主張する。
 ノーベル経済学賞受賞者のジョン・ヒックスはこういっていたそうだ。

〈歴史の全体の流れを見分けようとするたいていの人々にとっては、マルクス主義の範疇か、あるいはそれを少し修正したものを使うのがいいだろう。なぜなら、それに代わるものがなかなか手にはいらないからだ。〉

 本書はマルクス以降200年の歴史をふり返りながら、マルクスの思考法がいまもどれだけの有効性をもっているかを確認するこころみだといえる。

   2 マルクスと政治

 いま革命家と問われれば、1967年10月にボリビアで銃殺されたエルネスト・ゲバラのことを思い浮かべるかもしれない。世界を変革するというかれの強い思いは、開発途上国、先進国を問わず、いまも多くの青年をひきつけている。
 そのいっぽう、われわれのような老世代は、すでに革命に悲惨な光景を結びつけるようになっている。または、60年代末期の血気盛んなころを思いだして内心忸怩たるものを覚えながら、それでもやはり世界はこのままではいけないと憤慨するのが落ちだろう。もはや世界同時革命を、などと唱える元気はない。日本に社会主義革命を、などといわれても、思わず後ずさりするばかりである。
 マルクスも革命家だった。いや、マルクスこそ近代的な革命家の嚆矢だったといえる。革命家は嫌われる。まして、革命が遠い昔の話になったいま、マルクスなど夢想家にすぎなかったとみなされても不思議ではない。
 しかし、マルクスが生まれた200年前をふり返ってみよう。それはまさに革命の時代だった。1775年にはアメリカ独立革命、1789年にはフランス革命がおきていた。ナポレオンが死んだのは、マルクス3歳のとき。ヘーゲルが死んだのは13歳のときだ。
 1830年には7月革命、1848年2月にはパリ2月革命、3月にはウィーン3月革命、1871年にはパリ・コミューンがあった。そしてマルクスの死後、1905年にはロシアの第一革命、1917年にはボリシェヴィキ革命が発生している。
 その時代、革命はけっして絵空事ではなかったのだ。
 著者のホブズボームによれば、マルクスは時事的な解説は別として、政治についての理論を残しているわけではないという。人間生活の物質的条件を解明し、経済学批判をきわめることが、学者マルクスの第一の仕事だった。
 とはいえ、マルクスは共産主義者同盟の依頼で1848年1月に「共産党宣言」を執筆している(これについては後述)。同年2月に革命が発生するとケルンで『新ライン新聞』を発行し、ドイツの民主化を支援した。しかし、革命が失敗に終わると、ロンドンへの亡命を余儀なくされ、『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』に論説を送信しながら、経済学批判の仕事に本格的に取り組むことになる。それでマルクスの政治活動が終わったわけではない。1864年には第一インターナショナル(1864〜76)の設立にあたり、その宣言と規約を書きあげている。
 マルクス自身が政治活動の先頭に立ったことはない。しかし、革命の理論的指導者でありつづけたことはまちがいないだろう。
 反乱は個別的な戦いとしてはじまり、労働組合を通じて、地域的・地方的な経済闘争へと発展し、最後は階級的な全国的闘争へと発展するというのが、革命にたいするマルクスの見通しだった。闘争は経済闘争にとどまらない。政治権力の奪取が求められた。そのためには労働者の党が必要だった。
 著者によれば、マルクス自身は国家の本質は政治権力であり、政治権力は支配階級の利害を代表していると考えていた。革命によってプロレタリアートが権力を握れば、しばらくのあいだ「プロレタリア独裁」の期間がつづくが、階級対立がなくなったあと国家はなくなるものと想定されていた。
 プロレタリア独裁期においては、何らかの社会計画が必要とされ、階級対立がなくなったあとも、社会には何らかの管理運営機能が必要であること(だが、それは統治を目的とする国家ではない)も認められていた。
 とはいえ、著者によれば、プロレタリア独裁とは、単純に反対勢力の弾圧を意味するものではなかったという。それは旧体制の軍隊や警察、官僚制の解体をともない、「主として旧国家装置の生き残りの危険に対して革命を防衛する必要として理解されていた」。つまり、プロレタリア独裁は、ほんらい民衆政府を維持する手段と考えられていたのである。
 プロレタリア独裁のもと、資本主義社会は次第に共産主義社会へと転型されていく。それは長く複雑で、現段階では予想できない発展をたどるものと想定されていた。
 マルクス自身は同時代における革命の可能性をどうみていたのだろうか。
 焦点になるのは1848年である。革命が発生しそうなのは、イギリスではなく、フランスやドイツ、オーストリア、スペイン、イタリアだった。だが、これらの国々で労働者階級は少数派にすぎなかった。
 このときマルクスが求めたのは、プロレタリアートの急進化であって、プロレタリアートが革命に加わり、反動的な君主制を倒すことだったといってよい。それにより、プロレタリアートが(実際には急進派の知識人が)持続的に政治の舞台に拠点を築くことが期待されていた。だが、1848年革命は反動体制の勝利で終わる。
 1857年には世界恐慌が発生したが、革命はおきなかった。それでも、マルクスとエンゲルスは、自分たちの革命ヴィジョンを堅持している。
 著者はこう書いている。

〈その後[1848年から]20年ばかり、彼らにとっては差し迫って成功するプロレタリア革命への展望はなかったが、エンゲルスはマルクス以上に万年青年の楽観主義を保っていた。確かに彼らはパリ・コミューンに多くを期待しなかったし、その短い存続期間にそれについて楽観的な叙述をすることを注意深く控えていた。他方で資本主義経済の急速で世界的な発展、とくに西ヨーロッパとアメリカ合衆国の工業化は、いまやさまざまな国で大量にプロレタリアートを生み出していた。彼らがこのとき望みをかけたのは、これらの労働運動の増大する勢力と階級意識と組織であった。〉

 著者は革命党を設立するというマルクスの思いは、かれの死後、どちらかというと社会主義大衆政党に引き継がれたとみているようだ。エンゲルスは立憲制の確立と普通選挙、社会改革をめざすドイツ社会民主党を支持していた。とはいえ、エンゲルス自身も革命のヴィジョンをけっして放棄したわけではない、と著者は論じている。
 1848年革命の失敗により、大陸では立憲議会制すら達成されず、フランスではルイボナパルト(ナポレオン3世)が皇帝の座についた。
 マルクスは1864年の第一インターナショナル設立に大きな役割をはたした。資本主義が世界的に発展するなか、これからの革命は労働者が積極的な運動をくり広げ、国際的に展開すると考えられていた。
 マルクス、エンゲルスは民族主義的な立場をとらない。民族主義的な立場を認めるとしても、それはあくまでも世界革命の途中経過としてだと考えた。
 戦争を期待するわけではなかった。しかし、戦争と革命は無関係ではないと思っていた。
 マルクスの時代、ロシアは反動の砦と考えられており、ロシアの敗北は革命と進歩をもたらすだろうと思われていた。いっぽうフランスやドイツ(プロイセン)への期待は1848年に裏切られ、ナポレオン3世の統治とビスマルク体制がマルクスをいたく失望させていた。
 戦争ではなく革命を、というのがマルクスの基本的な考え方である。だが、1848年以後の時期は、けっして革命への展望は明るくなかった。「それは主として、ロシアが反動の堡塁であったように、イギリスが資本主義的安定の堡塁であったからである」と、著者は書いている。
 第一インターナショナルが革命に期待を寄せていた場所があったとすれば、それはアイルランドだったという。アイルランドはイギリスの農業植民地だった。その独立運動は、帝国主義との戦いにつながるものだと考えられた。そのいっぽう、マルクスは農業国ロシアでの革命の可能性にも注目しはじめていた。
 だが、その前に戦争が発生する。1870年の普仏戦争で、フランスはプロイセンに敗れ、ナポレオン3世の第2帝政が崩壊する。パリでは民衆が蜂起し、パリ・コミューンが成立する。マルクス自身はパリの蜂起に反対していたが、コミューンが成立すると、それを支持した。
 パリ・コミューンはわずか2カ月ほどで崩壊する。その詳しい情報がはいらないなかで、マルクスは『フランスの内乱』を執筆し、パリ・コミューンを擁護するとともに、共産主義にいたる道として、ふたたびプロレタリア独裁と社会主義、国際的な連帯を強調した。
 パリ・コミューンの挫折のあと、ドイツでは社会民主党がすっかり国家の補完勢力になりさがった。第一インターナショナルは崩壊する。マルクスはロシアでの革命の可能性をさぐるようになった。
 だが、マルクスの死後、革命は遠く去ったわけではなかった。むしろ戦争と革命の時代がつづいたのだ。それはロシア革命からはじまって、挫折したドイツ革命、中国革命、植民地解放闘争、キューバ革命などへとつづくことになる。
 マルクスが世界革命への道を指し示したことはまちがいない。
 とはいえ、それは資本主義が生みだしたプロレタリアートに依拠するものではなく、政治的反乱によってであった、と著者はいう。
 革命の目的は、あくまでも支配階級を転覆することだった。革命政権は独裁的にならざるをえない。マルクスは議会主義を否定していたが、それは、あくまでも社会主義の正しさを堅持するためだった。
 マルクス自身は、プロレタリア独裁の形態は、歴史的発展と具体的な情勢にもとづいて案出されるべきものだと考えていたという。
 著者はマルクスを擁護するため、むずかしい言い方をしている。

〈行動への指針は、自己の教条化への誘惑に絶えずさらされている。マルクス理論のなかで、マルクスとエンゲルスの政治的思考の領域ほど、このことが理論と運動の双方にとって有害であったところはない。しかしそれは、不可避的であったかどうかわからないが、マルクス主義が到達したものを表しているのである。〉

 考えてみれば、民主主義は政治のプロセスにすぎず、独裁をめざさない政治は存在しない。だが、それは、けっきょくのところ歴史の審判にさらされる。マルクスにとって、プロレタリア独裁は社会主義を実現するという信念がもたらした政治信条にほかならなかった。
 民主主義の審判を拒否したプロレタリア独裁政権は、社会主義経済の失敗によって、歴史の断罪を受けることになった。だが、それはもちろん社会主義独裁政権にかぎった話ではないだろう。
   3 共産党宣言

 本書は『資本論』について、ほとんどふれていない。主に取りあげられているのは、『共産党宣言』と『経済学批判要綱』(とりわけ「資本主義的生産に先行する諸形態」)である。
 まず共産党宣言が執筆された経緯を説明しておこう。
 民主化運動で、ドイツを追放されたマルクスは、パリついでブリュッセルに拠点を移した。マルクスは1847年春に、エンゲルスとともに、ロンドンを拠点とする急進的なドイツの渡り職人たちの秘密結社、義人同盟に加わる。だが、この結社はあまりに閉鎖的だった。そのため、マルクスは組織の刷新を提案し、これにより義人同盟は共産主義者同盟と名前を変えることになった。
 名前を変えたからにはマニフェストが必要だった。その執筆をマルクスは依頼された。こうしてマルクスが1848年1月末に1週間で書き上げた『共産党宣言』(Manifesto of the communist party)ができあがる。
 この小さなパンフレットは1848年2月にロンドンで印刷されたが、影響力はほとんどなかった。『共産党宣言』に注目が集まるのは1870年以降である。
 著者のホブズボームはその後、共産党宣言が広く普及していく過程を細かく追っているが、それは煩瑣にわたるので省略する。
 宣言の内容が問題である。
 1872年にドイツ語版の「宣言」が出版されたとき、マルクスはその序文で、この文書がすでに時代遅れになっていることを認めていた。ことば遣いも古くさくなっていた。現実に「共産党」があったわけでもない。それは、ひとつの考え方、ひとつの主張、すなわちイズムにすぎなかった。
 著者も「宣言」がマルクスの比較的未熟な段階で書かれた文書であることを認めている。当時のマルクスはまだリカード派共産主義者の段階にとどまっていたという。
 それでも、すでにマルクスらしいところはあらわれている。

〈本質においてこの[『共産党宣言』の]分析は歴史的であった。その核心は、諸社会の歴史的発展の論証であり、とくにブルジョワ社会が先行者に取って代わり、世界に革命をもたらし、転じて必然的にそれが取って代わられる条件を作り出すという発展の叙述であった。〉

 共産党宣言は「ヨーロッパには幻影が出没している。それは共産主義の幻影だ」という一文[幻影ではなく妖怪という訳もある]からはじまり、「プロレタリアが失うのは鎖だけであり、彼らには獲得すべき世界がある」という力強いことばでしめくくられる。
 著者によれば、それは「ほとんど聖書的な力をもっている」。
 共産党宣言は21世紀の現在さえ予言していたというのが、著者の評価だ。
 1848年当時、資本主義はまだ前進をはじめたばかり。マルクスは資本主義の発展は必然で、長期的な傾向をもち、しかも革命的な潜在力をもつことを認めていた。にもかかわらず、この生産様式は永久不滅のものではなく、人類史のなかの一時的段階であり、別の種類の社会に取って代わられるだろうと主張した。
 資本主義による社会の変容は圧倒的なものになると予測されていた。それまでゆるやかに統合されていた国家は「一つの政府、一つの法典、一つの国民的階級利害、一つの国境、一つの関税表」をもつ国民国家へと発展していくだろう。生産力の発展は産業的な社会、圧倒的に都会的な社会をつくりだすだろう、とマルクスは述べている。
 マルクスの時代、産業化はようやく発展の途についたばかりだった。ちなみに著者によれば、1850年に世界の鋼鉄生産量は7万1000トン足らず。それが2016年には16億トン以上となっている。これだけをみても、マルクスの時代以降、産業化がいかに爆発的に進展したかがわかるだろう。
 共産党宣言は、資本主義によって社会が広く変容していくこと、そしてその変容が加速することを予見していた、と著者はいう。輸送通信革命と、生産のグローバル化が進展するのは第2次世界大戦以降である。1970年代までは、産業化は圧倒的に先進国にかぎられ、第三世界は「低開発」のままだった。ところが、マルクスの予言したように、資本主義は全世界に広がり、やがてソ連型の社会主義国をも破壊するにいたった。
 ほかにも共産党宣言は、資本主義が家族の破壊をもたらすことをも予言していた。「[西側諸国では、今日]子供の半分近くがシングル・マザーによって育てられているし、大都市全世帯の半分は単身者である」と、著者は書く。共産党宣言の予言は、むしろ21世紀になって現実のものになったというのだ。
 いっぽう、「宣言」には、はずれた予見もある。「ブルジョワジーの没落とプロレタリアートの勝利」は実現しなかった。ブルジョワジーが「みずからの墓掘人」としてのプロレタリアートをつくりだすこともなかった。つまり、先進国で社会主義革命が発生することはなかった。
 マルクスは資本主義経済のもとでは、ほとんどすべての男女が、賃金によって雇用されるようになるとみていた。そのこと自体は当たっていた。だが、いまでは労働者は大きく分極化している。労働者のなかから、経営者や管理者も生まれている。一般労働者のあいだでも細かい位階が生じ、正規と非正規との賃金格差も大きい。しかし、労働者がますます窮乏化しているとはいえないだろう。
 それでも、1970年代までは、労働人口の大半は製造業で雇用される肉体労働者によって占められていた。だが、それ以降は資本集約的なハイテク化が進み、労働者が生産過程から排除され、都市での貧困化が生じるようになっている、と著者はみる。
 長い目で見ると、労働者階級に基礎を置く組織的政治運動の力はたしかに大きくなった。1880年代には世界のいたるところで、労働党や社会党が出現した。そうした政党は、第1次大戦前後にボリシェヴィキ党と社会民主主義政党に分化し、それぞれ政権を担う勢力に成長していった、と著者はいう。
 その点、労働者階級に基礎を置く政治勢力が政治の中心を担うようになるというマルクスの予測はまちがっていたわけではない。
 著者によれば、マルクスの予測がまちがったとすれば、それは資本主義のもとで労働者の窮乏化は生じず、資本主義が長くつづいたということだ。
 プロレタリアートが資本主義を転覆し、共産主義への道を切り開くという展望は実現しなかった。
 マルクスにおいて、プロレタリアートという概念は、たぶんに哲学的抽象だった、と著者は論じている。それはかならずしも現実の労働者と重なりあわない。

〈プロレタリアートというものについてのマルクスのヴィジョンはその本質上、資本主義を転覆することによって全人類を解放し階級社会を終了させるように運命づけられていたが、それは彼の資本主義分析のなかに読み込まれた希望の表明ではあっても、その分析によって必然的に与えられた結論ではなかった。〉

 資本主義は必然的にその墓掘人によって埋葬されるよう運命づけられている、というのがマルクスの確信だった。だが、それは決定論ではなかったというのだ。
「歴史的変化は人々が自分たちの歴史を作ることを通じて進行する」と著者は信じている。その核心は「社会的実践を通じての、集団的行動を通じての、歴史的変革」である。
 著者も資本主義の膨張が、どこかの時点で壁にぶつかり、資本主義の変容を招くことを確信している。しかし、「資本主義後の社会」がソヴィエト・モデルをとることはありえないし、どこまでマルクスやエンゲルスのヒューマニズム的価値を体現するかは、人びとのこれからの政治的行動によると述べるにとどまっている。
 本書では示されていないが、ここで念のために、マルクスが『共産党宣言』のなかで描いていた社会主義のイメージを示しておこう。

(1)国家による土地所有
(2)強度の累進税
(3)相続権の廃止
(4)亡命者および反逆者の財産の没収
(5)排他的独占権をもつ国立銀行の創設と、そこへの信用の集中
(6)運輸機関の国有化
(7)国有工場ならびに生産用具の増加、共同計画による土地の開墾
(8)万人にたいする平等の労働義務、とりわけ農業にたいする産業軍の編成
(9)農業と工業の結合、ならびに都市と農村の対立除去
(10)すべての児童にたいする公共無料教育、児童の工場労働の廃止、教育と生産の結合

 ずいぶん国家主義的色彩が強いことがわかる。こうした政策は、いわば「プロレタリア独裁」にもとづく強制力によってしかなしえなかった。
 しかし、「発展の進むにつれて、階級の差別が消滅し、すべての生産が協同した諸個人の手に集中されたならば、公的権力は政治的な性格を失い……各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような一つの協同社会があらわれる」。それが、社会主義をへて共産主義に向かう、マルクスのヴィジョンだったといってよい。
 いまやこのプランに魅力を感じる人は少ないだろう。マルクスのえがいた社会主義のヴィジョンは、かずかずの実験をへて、すでに時代にそぐわなくなっているのではないだろうか。
 それでも著者のいうように「社会的実践を通じての、集団的行動を通じての、歴史的変革」は、いつの時代も生じている。ただし、それが従来の社会主義のかたちとは異なるものになりつつあるということなのだ。

   4 資本主義に先行する諸形態

 1857年から58年にかけ、マルクスは膨大な手稿を書いた。『経済学批判』と『資本論』に先立つものだ。それが『経済学批判要綱』。1939年から41年にかけて、はじめてモスクワで出版された。
 本書で著者が取りあげるのは、「要綱」に含まれる「資本主義に先行する諸形態」というテキストだ。
 マルクスはこのテキストで、「アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的」な歴史的社会構成と、その変遷についてつづった。
 著者によれば、マルクスは「人間が自然からますます解放され、自然への統御を増していく」ことで進歩しつづけるととらえていたという。しかも、人間は生産力を高めるにつれて、その生産関係を変えてきたというのだ。生産関係というのは生産物を形成するにあたって、人間が取り結ぶ社会関係のことである。たとえば王と奴隷、領主と農奴、資本家と労働者というように。
 いまや人間は貨幣と商品を創出することによって、以前には想像もできなかった巨大な資本を蓄積するにいたった。
 その過程で、労働者は生産手段や土地から分離され、労働力として資本のもとで雇用されるようになった。人間はかつての共同体的存在から切り離され、個々の労働力として扱われるようになる。それはひとつの解放でもあったが、新たな従属でもあった。
 マルクスは自由な個人の発達を念願する。そして、人間が資本主義という最後の階級社会から解放されるときに、何ものにも従属しない共産主義という自由な時代がはじまると想像する。
「諸形態」における歴史的社会構成の考察は、歴史観察の所産である。とはいえ、当時の観察は不十分な研究に依拠するものであり、現代に比べ文献もじゅうぶんにそろっていなかった、と著者は指摘する。
 マルクスとエンゲルスにはギリシャ、ローマの古典にたいする素養があった。だが、エジプトや古代中近東については、ほとんど知らなかった。1848年以前は、アジア史もほとんど学んでいない。マルクスがインドや中国の知識を得るのは、ロンドン亡命後の1850年代以降だという。
 マルクスはヨーロッパ中世について、ある程度は知っていたが、本格的に研究しはじめるのは『資本論』第1巻出版後の1868年以降だった。農奴制に関心をもったのは、生涯の終わりになってロシア問題に興味をいだくようになってからだ。さらには、中世におけるブルジョワジーの起源、あるいは封建時代における商業と金融の発生が問題として大きく浮上してきた。だが19世紀後半においては、それに関連した文献はまだじゅうぶんにそろっていなかった、と著者は指摘する。
 エンゲルスはマルクス以上に、ゲルマンやアイルランドに旺盛な関心をもっていた。だが、どちらかというと、それは古代の農業共同体にたいする関心で、包括的なものではなく、とりわけ荘園についてはあまり研究していなかったという。
 原始共同体についてマルクスが学んだのは、ルイス・モーガンの『古代社会』を通じてであり、マルクスはここから原始共産制のイメージを導きだした。とはいえ、そのころ近代考古学はまだ揺籃期で、原始社会にたいする認識はまだ素描にとどまっていた、と著者は指摘する。
 以上のことから、著者はマルクスとエンゲルスの歴史認識を、こう要約している。

〈先史時代、原始共同体社会、およびコロンブス以前のアメリカについての歴史認識は……希薄で、アフリカについては事実上欠如していた。古代ないし中世の中東についての認識もさほど感心するほどのものではなかったが、アジアの特定の諸地域、とくにインドについては明らかにそれよりましであった。とはいえ日本についてはましとはいえない。古典古代[ギリシャ、ローマ]とヨーロッパ中世についての認識はすぐれていたが、マルクスのこの時期についての興味にはむらがあった。……時代別にみれば、資本主義勃興期についての歴史認識はきわだってすぐれていた。〉

 このあたりさすがに歴史家らしい周到な評価である。
 次に著者はマルクス(とエンゲルス)がどのように人類史の歴史区分をおこなったかを追っている。
 マルクスの歴史認識が最初に定式化されるのは『ドイツ・イデオロギー』においてである。マルクスの分析の特徴は、生産手段の所有様式(つまり生産関係)によって、時代を区分していることである。
 おおざっぱにいえば、次のようになるだろう。

(1)共同体所有
 生産は未発達。人びとは狩猟や漁労、牧畜、あるいは簡単な農耕で暮らしている。血縁集団が中心。しかし、人口が増え、必要物が増大すると、戦争や交易がひんぱんになり、共同体内部に首長や奴隷が生まれてくる。
 共同体が発達すると、農業だけでなく、工業や商業が生まれ、都市が発生する。ここから次の第2段階が生まれる。
(2)古代の共同体所有および国家所有
 氏族集団が集まり、都市が形成される。戦争と征服によって、奴隷が生まれ、市民が奴隷を所有する。都市(国家)が財産を所有するが、次第に動産や不動産の私的所有が拡大するようになる。それにより、社会的秩序が崩れていく。
 この段階になると、社会的分業がかなり進んでいる。都市と農村の分業、さらに都市の内部でも、さまざまな産業が発達する。自由市民と奴隷の区別もみられる。
(3)封建的ないし身分的所有
 ローマの諸制度と征服民族(ゲルマン)の諸制度が混合する。封建制はローマの征服と、それにともなう農業技術の伝播によって準備される。ローマ帝国が崩壊すると、農村が社会組織の出発点になっていく。農村と農地を所有するのは、軍事力をもつ封建領主たちである。封建貴族は封建家臣を編成し、かれらに農地と農奴を与える。
 だが、この時代でも都市が滅びたわけではなかった。都市には封建諸侯や貴族、僧侶、親方、職人、徒弟、商人などが集まってくる。都市でも身分ははっきり区別されている。親方や商人は同業組合(ギルド)を形成し、商業活動に従事する。
(4)ブルジョワ的所有
 遠隔地交易によって、中世では次第に都市が発達するようになる。封建勢力に対抗し、市民階級が勃興し、商業資本や産業資本を握る。国内市場の発展はギルドに依存しないマニュファクチャーを生みだし、とりわけ織布が重要な産業になる。都市の発展にともない、農村から都市に人口が流れこみ、都市労働者の一群を形成していく。
 産業の発達は、国家間の競争を招く。アメリカ大陸の発見とインド航路の開発により、貿易が拡大し、大量の金銀が流入する。ヨーロッパ各国は重商主義政策をとり、征服や植民地化へと走る。国内では農村の囲い込み運動や都市の窮民増加により、社会的軋轢が生じる。

 このようにみると、『ドイツ・イデオロギー』の段階では、マルクスの分析はほぼ西欧にかぎられていたことがわかる。歴史的発展は、先史時代、古典古代(おもにローマ)時代、中世封建社会、ブルジョワ社会と直線的にとらえられていた。
 生産手段の所有形態に応じて時代区分をするというユニークさはあるとしても、それは著者のいうように「歴史の発展についてのごくおおざっぱで暫定的な仮説」にすぎなかった。現代のレベルからすれば、西欧史についても本格的な研究とはいえない。まして、世界史全体を包摂する理論だったとはとてもいえないだろう。
 しかし、『経済学批判要綱』の「諸形態」論においては、世界史の把握は西欧にかぎらず、「アジア的」ないし「東洋的」な地域にまでおよぶことなる。さらにゲルマン的形態に加えてスラブ的形態も論じられ、世界史の認識が以前より深まってくる。
 マルクスの見解は「決してたんなる単線的なものではなかった」し、「たんなる進歩の記録」でもなかった、と著者はいう。とはいえ、アジア的段階を導入することによって、それまでの西欧中心の歴史理解に複雑さと混乱が生じたことはまちがいないだろう。
 アジア的体制は専制的権力による土地所有と、公共事業や灌漑計画に特徴がある、とマルクスはみていた。村落内部では工業と農業が自給自足的に結合している。そして、村落の余剰を専制政府が吸い上げ、それによって祭祀や戦争を遂行する。
 こうしたアジア的体制は経済発展もしないかわりに分解もしにくい体制になる。いっぽう剰余生産物の割譲は、領主支配の萌芽も含んでおり、専制から封建制に移行する可能性も有している、とマルクスは理解していた。
 こうして、原始的社会からは次のような並列的な様式が出現すると考えられるようになった。

(1)アジア的様式
(2)スラブ的様式
(3)古典古代的(ギリシャ・ローマ的)様式
(4)ゲルマン的様式

 スラブ的様式は、アジア的様式とゲルマン的様式の中間と考えられる。
 この(1)〜(4)の様式は、いずれも、中世的=封建的様式に移行しうるものと想定された。
 マルクスの記述はあくまでも素描であり、現代の研究水準からすれば、あきらかに不十分なものである。それでも、マルクスとエンゲルスが世界史の発展過程を単なる政治的変遷だけではなく、生産様式にもとづいて説明しようとしたことは、評価されてよい。
 それは西洋中心の進歩史観にすぎないという見方もある。だが、近現代は、それを肯定するにせよ否定するにせよ、ヨーロッパで発展した商品世界が世界をおおっていくなかで成立していったことはまちがいない。

   5 唯物史観

 著者によれば、原始共同体は、都市が発達するにつれて、(1)アジア的様式、(2)スラブ的様式、(3)古典古代的(ギリシャ・ローマ的)様式、(4)ゲルマン的様式の4つの社会形態に転換していくというのが、『経済学批判要綱』でのとらえ方だった。
 マルクスの記述は錯綜していてわかりにくい。アジア社会(イスラム世界を含む)やスラブ社会については、ついに体系的な記述はなされなかったとみるべきだろう。アフリカについては、なおさらである。
 したがって、社会構成を軸とした世界史の体系的記述は、あくまでも仮説にとどまり、大きく分けて、原始(無階級社会)、古代(奴隷制社会)、中世(農奴制社会)、近代(プロレタリア社会)の4段階の枠組みが残ったというべきだろう。
 アジアは意識されていたものの脇におかれ、あくまでも中心的と考えられた社会を軸として、歴史の流れがとらえられている。マルクスの場合、その中心とはヨーロッパでしかありえなかったし、事実、ヨーロッパが近代を開いたことは否定できない。
 そこで、著者のホブズボームは、世界史が古代から近代へと段階的に移行するにあたって、社会経済構成がなぜ変化していったかをマルクスの分析に沿って、もう一度整理しなおしている。
 古代(ギリシャ、ローマ)の体制はなぜ崩壊したのか。
 古代の土地は共同体所有と私有の組み合わせからなっていた。市民は土地の私有を認められている。だが、それは絶対的にではない。商工業は解放奴隷や隷属平民、外国人がになういっぽう、被征服民からなる奴隷が市民の生活を支えていた。
 マルクスは古代の崩壊過程を具体的に論じているわけではない。ただ、古代都市国家や古代帝国の衰退が、そうした体制の維持をむずかしくしたと示唆するにとどめている。
 次に成立した中世封建制が衰退するのは、あきらかに都市の発展によるものと考えられている。農奴は領主の支配下にあったとはいえ、事実上、経済的に独立した生産者だった。その農奴が独立自営農民もしくは小作農民に転じて、領主からの独立性が強まれば、都市の商業的発展とあいまって、封建制の基盤はゆるんでいく。商人や職人が都市でさかんに活動するかたわら、賃金労働者も登場する。
 だが、中世についてのマルクスの記述はあくまでも素描にとどまっている。封建制から資本主義への移行についても、詳しく論じられたとはいいがたい。
『経済学批判要綱』の「諸形態」論では、原始共同体からの派生種として「ゲルマン的体制」が取りあげられている。そこでは同じ宗教のもと、自給的な家族が分散的に定住し、他の家族と結束して、地域を保全し、随時開催される集会にもとづいて、戦争や紛争の処理にあたっていた。牧草地や狩猟地は共同所有とされていた。
 マルクスは、このゲルマン体制がいかにして封建制に移行するかを示しているわけではない。これにはローマ帝国の崩壊と、中世の成立についてのさらに詳しい研究が必要となるだろう。
 封建制から資本主義への移行についても、マルクスは詳細に論じているわけではない。ただ、モーリス・ドッブやポール・スウィージーをはじめとして、さまざまな論議がなされた。ドッブは封建制が生産体制として非効率だったと指摘し、いっぽうのスウィージーは都市の活発な商業活動が封建制を解体させる要因になったと論じる。
 著者によれば、マルクス自身も農村における農奴の解放、都市の職人による手工業の発達、商業によって蓄積された貨幣が、ブルジョワ前史となることを指摘している。「資本は、最初は散発的にあるいは局地的に旧生産様式のかたわらに出現し、ついで旧生産様式をいたるところで分解する」というのが、マルクスの理解だ。
 国際交易が盛んになるにつれて、海外市場向けのマニュファクチャーが誕生するが、それはギルドの制約の強い都市においてではなく、むしろ周辺部の農村地域において発生した。さらに農村では、自由な日雇い労働者と借地農民があらわれ、農業の商業化がはじまる。農村から流出した人口は都市に流れこみ、ギルドに属さない日雇い労働者として、プロレタリアート化していく。そして最後に職人ギルドが産業に転じていく。マルクスのえがいた封建制から資本主義への移行図式は、ざっとそのようなものだ。
 著者によれば、マルクスとエンゲルスは晩年になっても、資本主義に先行する諸形態の研究をつづけたという。
 マルクスはとりわけ原始共同体の研究に没頭した。ロシアの共同体にも興味をいだいている。モーガンの『古代社会』からは多くのことを学んだ。のちにエンゲルスはマルクスが実現できなかったテーマを、『家族・私有財産・国家の起源』として、1冊にまとめることになる。しかし、ほんらいエンゲルスが興味をいだいていたのは中世ドイツだったという。
 エンゲルスはさらに『反デューリング論』で、いわゆる唯物史観の定式化をこころみるとともに、マルクスが論じなかった欠落部分を埋めようとした。ローマ帝国の奴隷制ラティフンディウムがある時点で不経済になり、小規模農業に再帰していくこと。封建的農業においては小規模農耕が支配的になり、小農の一部は自由だったこと。封建時代初期において経済生活は局地的自給性が強かったこと。領主制は大規模な支配的地主と従属的小作を生んでいたこと。修道院の特殊性、などなど。
 そのほか、中世封建制に関するエンゲルスの研究は多岐にわたり、まとまったものではないにせよ、その面での業績はもっと評価されてよい、と著者はいう。とはいえ、エンゲルスはマルクスが示した封建制から資本主義への移行図式に大きな変更を加える意図はなかった。唯物史観の基本線が守られていた。
 マルクス、エンゲルス没後は、唯物史観の単純化、教科書化が進んだ。すべての人間社会は一つの社会構成体から次の社会構成体へと進化し、最後はその頂点である社会主義に達するという教義が生まれた。
 単純化を進めるため、「アジア的生産様式」ははぶかれ、奴隷社会が普遍化され、封建制の範囲が拡大された。そして、議論は錯綜してくる。
 唯物史観について、自由な論議がおこなわれるようになったのは、スターリン批判以降である。「要綱」で論じられていたアジア的生産様式についての論議も復活することになった。
 生産様式にもとづく唯物史観を再編成するこころみとして、たとえば柄谷行人は交換様式にもとづく世界史の見直しを提唱し、世界共和国への展望を開こうとしている。
 マルクスがそれまでの政治的な世界史にたいし、歴史を生産様式にもとづく社会構成体の変遷としてえがきだしたのは、やはり天才的だった。それは、社会を総体としてとらえるこころみだった。とはいえ、世界史を単純に生産様式の変遷図式だけでとらえるのは、思考の硬直化を招きやすい。
 ぼく自身も世界史はマルクスが考えたように、アジア的→古代的→中世的→近代的の不可逆的な流れをたどってきたと思っている。その流れは、時代の中心的国家=社会を代表としてとらえることで成立する見方である。文明の変遷と考えてもよい。さらに具体的には、その文明の中心を担った〈帝国〉の変遷といってもよいわけで、その帝国は外部と対立しながら、内部に政治的、宗教的、経済的、文化的な社会構成をかかえていた。
 生産様式であれ、交換様式であれ、経済的な社会構成だけで、世界史を理解することはできないというのが、ぼくの考えだ。国のかたちが重要である。社会主義は経済的諸関係さえ変えればよいという思い込みのうえに成り立ち、プロレタリア独裁などといった強権的体制を正当化することになってしまったのではないか。
 世界史の流れは中心的な帝国──政治、経済、宗教、文化を含む国家統一体としての──の変遷史として記述されるべきだろう。だが、帝国を称賛するわけではない。そのさい、重要なのは、中心にたいして周辺や大衆のもつ意味を忘れてはならないということだ。
 ところで、ぼくは世界史を論じるにあたって、マルクスにならってアジア的という段階を導入してみたが、ここでいう「アジア」は、われわれが頭に浮かべがちな日本や中国、インドなどのことではなく、あくまでもアジアの原義である「東」(エーゲ海の東)を意味する。すなわち、文明はヨーロッパから発したのではなく、アジア、すなわち東からやってきたというわけだ。
 そこで、いまマルクスの歴史区分をあてはめてみると、世界史はおよそ以下のように移行してきたことがわかる。もっとも、その前に、われわれは吉本隆明が論じたように「アフリカ的段階」というのを導入してもよいのかもしれないが、今回それはやめておく。すると、次のような見取り図が頭に浮かぶ。

(1)アジア的段階
エジプト アッシリア バビロニア インダス川流域 殷王朝
(2)古代
ギリシャ ペルシャ帝国 アレクサンドロス帝国 マウリヤ朝 ローマ帝国 漢王朝
(3)中世
東ローマ帝国 フランク王国 神聖ローマ帝国 イングランド王国 イスラム帝国 ムガール帝国 隋 唐 宋 モンゴル帝国
(4)近代
イタリア都市国家 イスパニア王国 オランダ オスマン帝国 大英帝国 ロシア帝国 明 清 日本 アメリカ合衆国 ソ連 中国

 これは漠然としたイメージで、細かくはもっと分けられるかもしれない。近代の前に近世をいれてもいいし、近代のあとに現代をつなげるほうがいいにちがいない。アジア的段階という概念は別の言い方に変えたほうがいいかもしれない。
 だいじなのは、西欧中心の史観をそろそろ脱したほうがよいということである。おそらく求められているのは世界史の再構成なのだ。それができるなら、人類の文明史がもっと概観できるようになるだろう。いまは、マルクスの切り開いた唯物史観は、その最初の糸口だったという気がしている。

   6 反ファシズム時代

 本書は第Ⅰ部「マルクスとエンゲルス」、第Ⅱ部「マルクス主義」に分かれている。第Ⅱ部では、マルクス死後の時代が取り扱われている。
 なかでもマルクス主義が脚光を浴びたのは、反ファシズム時代といってよいだろう。
 反ファシズム時代とは1929年から45年までを指している。
 著者のホブズボームはこんなふうに書いている。

〈ファシズムに対する勝利が確実視されるまでは、共産主義の戦略──1939年から41年までの一時的なエピソードを無視すれば──が今なすべきことへの非常に説得力に富む明瞭な指針を提供した……というのは、結局のところ大半の共産主義知識人にとって明らかに反ファシズム闘争はそれ自体が目的ではなかった。それは、世界資本主義の、あるいは少なくとも世界の大部分における資本主義の終局的な一翼を担ったがゆえに正当化されたのである。しかし、本来、反ファシズム闘争において、このような正当化はまったく必要でなかった。将来に何が起ころうとも、ファシズムは害悪であり、ファシズムに抵抗すべきであったのである。〉

 ここには共産主義者として反ファシズム時代を闘った著者の思いがこめられている。
 巻末に収録された監訳者・水田洋の解説によると、著者エリック・ホブズボームはユダヤ系イギリス人企業家の息子として、1917年6月にエジプトのアレクサンドリアで生まれた。一家は1920年にウィーンに移住するが、ホブズボームは1929年に父を、1931年に母を亡くした。かれは叔父の援助を受けながら成長し、1931年にベルリンの学校に行き、社会主義生徒同盟に加盟する。1933年1月にはドイツ共産党最後の公認デモに参加している。ヒトラーの台頭とともに身の危険を感じた叔父は、かれを連れて33年春遅くにイギリスに渡った。
 ロンドンでホブズボームはマリルボン高校に入学し、猛勉強の末、奨学金を得て、ケンブリッジ大学に入学した。当時「赤いケンブリッジ」と呼ばれたケンブリッジ大学では、共産主義運動が盛んだった。ホブズボームもケンブリッジ・レフトの一員となった。1936年にはスペイン内戦が勃発。ホブズボームは共和国側を支持し、国際旅団に参加したいと願ったが、奨学金をもらっているため、参加を断念した。
 1939年夏に学業過程を終えたホブズボームは、パリで夏休みを楽しんでいるとき、ヒトラーのポーランド侵攻を知る。あわてて帰国し、招集されて、イギリス空軍教育隊に派遣された。ほんらいなら、シンガポールを防衛する部隊に送られるはずだったという。そうなれば、かれの運命も変わっていただろう。
 ホブズボームがイギリス共産党員になったのは、おそらくケンブリッジ大学で学んでいたころである。ケンブリッジ大学で学位をとったあとは、1947年からロンドン大学バークベック・カレッジの歴史学講師となった。その後、イギリスを代表するマルクス主義経済史家となるのは、周知のとおりだ。
 1956年にはスターリン批判とハンガリー事件があり、多くの知識人が脱党した。だが、ホブズボームはイギリス共産党員として言論・執筆活動をつづけ、「イギリス共産党のほうが消滅してしまった」と監訳者の水田洋がおかしげに記している。
 以上、長々とホブズボームの経歴を紹介したが、ファシズムへの反発がかれを共産主義者にしたことはまちがいない。
 ここで気になるのはイギリス共産党についてである。ウィキペディアによると1920年に結成され、1945年に選挙で2議席を得たものの、徐々に衰退し、分裂の末、1991年に解散したとある。
 たまたまポール・ジョンソンの『現代史』を読んでいると、こう書かれている箇所を見つけた。

〈1920年代のイギリス共産党は労働者階級の党であり、革新的で独立の気風に満ちていた。しかし1930年代初期に中産階級の知識人が大挙入党すると、共産党は急速にソ連にこびへつらってその外交政策に加担するようになる。〉

 イギリス共産党はイギリスでは大きな勢力にならなかった。とはいえ、それはドイツやフランス、イタリアなどの有力な共産党とともに、ユーロコミュニズムの一角を占める政党だったといえるだろう。ソ連共産党と一歩距離をおきながらも、最後まで社会主義、言い換えれば反資本主義の立場を堅持していた。
 気になるのは、反ファシズムの時代を論じるホブズボームの物言いである。
「ファシズムに対する勝利が確実視されるまでは、共産主義の戦略──1939年から41年までの一時的なエピソードを無視すれば──が今なすべきことへの非常に説得力に富む明瞭な指針を提供した」と書いている。
 共産党は反ファシズム闘争という明確な指針を打ちだしていたという。ただし、「1939年から41年までの一時的なエピソードを無視すれば」……。
 これはいったい何を意味するのだろう。
 1939年9月1日、ドイツ軍は国境を越えて、ポーランドに侵攻した。いっぽうヒトラー・ドイツと秘密協定を結んでいたソ連は、同じくポーランドに侵攻し、ロシアとドイツでポーランドを分割した。ソ連はバルト3国をも占領した。
 1940年春、ドイツはデンマーク、ノルウェー、オランダ、ルクセンブルクを制圧した。6月にはフランスが降伏した。41年春、ユーゴスラヴィアとギリシアもドイツに屈した。いっぽうダンケルクから撤退したイギリスは、チャーチル首相のもと、ドイツ、イタリアと戦いつづけることを表明した。
 1941年6月22日、ドイツ軍がソ連侵攻を開始した。その年、ドイツはウクライナを占領したものの、カフカス油田まで到達できなかった。レニングラードを手に入れるのもむずかしかった。そしてモスクワに接近したところで、スターリンがようやく反撃に転じるのだ。
 以上、年表風に記したところからわかるように、「1939年から41年まで」の時期は、ドイツとソ連が秘密協定を結んで、東ヨーロッパを仲良く分割していた時期にあたる。その後、ドイツはソ連に侵攻し、ソ連はドイツへの反撃に転じて、独ソの蜜月は終わる。
 つまり、著者は独ソの蜜月を「一時的なエピソード」と呼び、その時期を例外とすれば、ソ連はドイツ・ファシズムとみごとに戦ったというのである。これはソ連共産党への甘すぎる評価ではないだろうか。
 さらに著者は、共産主義知識人にとって反ファシズム闘争はそれ自体が目的ではなく、資本主義を終わらせるための一環だったという。だが、さすがにそう断言するのが気恥ずかしくなったのか、そもそも「ファシズムは害悪であり、ファシズムに抵抗すべきであった」と言い直している。
 著者が、ドイツ・ファシズムと戦った共産主義ロシアの肩を持っていることは明らかである。そして、共産主義知識人にとっても、その戦いは資本主義を廃絶するための一里塚だったと信じられていたという。このあたりで、ぼくは思わず首をかしげてしまう。
 あえていえば、20世紀に勝利したのは資本主義であって社会主義ではなかった。その結果、20世紀末には、マルクスの公式とは逆の社会主義から資本主義への移行が生じた。
 とはいえ、資本主義が永遠の勝者とはかぎらない。そこにマルクスを読みなおす意義がある。
 資本主義が勝利し、社会主義が敗北した意味をしっかり認識することが、20世紀史の課題なのではないか。著者のように、それでもマルクスの思想は生きていると主張するだけでは、この謎は解けないのである。
 片言隻句にこだわりすぎるかもしれない。だが、それはとてもだいじなポイントだ。

   7 グラムシをめぐって

 著者はイタリアのマルクス主義思想家、アントニオ・グラムシ(1891-1937)を高く評価している。
 グラムシはイタリアのサルデーニャ生まれ。生後まもなく背中にこぶができて身体不自由のまま育った。苦学して1911年にトリノ大学に入学、1913年に社会党員となり、まもなく社会党機関誌『前進』(編集長はムッソリーニ)の編集にたずさわった。
 1919年、トリアッティらとともに週刊紙『オルディネ・ヌオーヴォ(新秩序)』を発行、トリノの労働運動に積極的にかかわった。1921年、イタリア共産党の結成に参加、中央委員になる。1922年から23年までモスクワに滞在。1924年、イタリア共産党書記長となり、下院議員に当選、ファシストとの対決姿勢を鮮明にした。
 1926年に逮捕され、20年の禁固刑判決を受ける。獄中で思索を重ね、33冊のノートをつづった。1937年4月に釈放されたが、その直後に脳溢血で死亡した。
 ざっと略歴を記したが、こういう人物である。日本でもグラムシの著作が翻訳されているようだが、不勉強なぼくは読んでいない。
 ポール・ジョンソンは『現代史』のなかで、いささか皮肉まじりに、グラムシについて書いている。

〈……[グラムシの]知的背景はムッソリーニとまったく同じだった。マルクス主義、ソレル[『暴力論』の著者]、サンディカリズム。歴史的決定論を認めず、主意説を強調し、歴史を進める力を闘争と暴力に求め、加えてマキアヴェリ式実用主義者だった。グラムシはムッソリーニよりずっと独創性をもっていたが、ムッソリーニの沈着と自信を欠いていた。……自分が指導者に適しているとは思えなかったので、マキアヴェリを読んで引きだしたのが、ムッソリーニのような個人としての君主ではなく、集団としての君主だった。「現代の君主、すなわち神話としての君主は実在の人間、すなわち具体的一個人ではあり得ない。それは一つの組織でなければならない」〉

 グラムシのいう「現代の君主」がイタリア共産党であることはいうまでもない。
 ほかに、手元にある資料としては、1976年に当時イタリア共産党の幹部だったジョルジョ・ナポリターノ(のち2006〜15年、イタリア大統領)が、本書の著者でもあるホブズボームのインタビューに答えた冊子がある(『イタリア共産党との対話』)。
 ナポリターノはグラムシについて、こう語っている。

〈ええ、グラムシの教えた精神がわれわれを導いているのです。……グラムシほどりっぱに労働者階級の革命的役割についての建設的なヴィジョンを言い表した人はいないのです。それはすなわち、生産および経営管理の場所自体で、代わるべき対案をしめすのが労働運動にとっては必要だということなどがそれです。1924年にグラムシは、国家を掌握するということは、なによりもまず、労働者階級とその運動にとって、国の生産力の指導において資本家を上回る能力をもつことを意味すると書いています。これをグラムシは、労働者階級のヘゲモニーのための、それが新しい指導階級として確認されるための対決および闘争の基本的な土台だと考えているのです。〉

 残念ながら、ぼくはグラムシについて、この程度の知識しかもっていない。
 要するに、グラムシはイタリア共産党の理論的支柱であって、ファシズムと戦い、マキアヴェリやソレル、クローチェにもとづき、すぐれた政治的考察をくり広げ、労働者の革命的役割について新たなヴィジョンを打ちだした人物といってよいだろう。
 グラムシはイタリア共産党内部では早くから知られていたが、かれが国際的に名声を得るようになるのは、その著作が整理され刊行されるようになった1970年代からだ、と著者は書いている。
 そこでまず、著者は、思想家の評価はその時代の歴史的政治的文脈を抜きにしては語れないと述べ、次のようにイタリアの特性を列記するところからはじめている。

(1)「イタリアは、一国のうちに大都市と植民地、先進地域と後進地域の双方を含んでいるがゆえに、世界資本主義のいわばミクロ宇宙であった」
(2)「イタリアの労働運動は、工業的であると同時に農業的であること、つまりプロレタリア的であると同時に、農業労働者に基礎をおいていた」
(3)「イタリアの国家統一は、一部は上から──カヴールによって──達成され、一部は下から──ガリバルディによって──達成された」。そのためイタリアの革命は未完成であり、一体感のある「イタリア国民」は形成されていない。
(4)イタリアはカトリックの国である。カトリックの教会が、いわばイタリアという国の制度になっている。
(5)「イタリアは政治的経験の一種の実験室だった」。1917年以降、イタリアには革命の条件が整っているかにみえたが、実際はファシズムが権力の座についた。

 グラムシはこれらイタリアの特性や、イタリア共産党の挫折を踏まえて、マルクス主義政治理論を根本から練りなおさねばならなかった。その作業がなされたのは獄中においである。
 グラムシにとって重要なのは政治戦略だった。加えて、社会主義社会をいかに構想するかというテーマが課されていた。
「彼にとり政治とは、社会主義を勝ち取るための戦略の核であるだけではなく、社会主義それ自体の核でもある」と、著者は書いている。
 その政治のあり方を、グラムシはマキアヴェリ(もっと正確に表記するとマキァヴェッリ)から学んだ。政治は単なる経済の上部構造ではなく、それ自体が自律的な活動なのだ。
 グラムシのつくった用語で、現在、多くの人に知られているのは「ヘゲモニー」ということばだ。
 グラムシによると、国家は政治機構だけでつくられているわけではない。市民社会とのバランスによって成り立っている。社会は企業や組合、教会、学校など個別団体のヘゲモニー(権力、権威、指導力)によって組織され、つねに動いている。
 もちろん、政治機構そのものにもヘゲモニーが形成される。つまり、政治機構は市民社会のヘゲモニーを統合しながら、それ自体、ひとつのヘゲモニーとして国=社会全体を動かしているということになる。
 ファシズムとは、戦争を目的とする国家の全体意志のもとに、市民社会のヘゲモニーのすべてを従属させる体制を指すといってよい。
 いっぽう、グラムシにとって社会主義とは、政治機構(狭い意味での国家)と市民社会のヘゲモニーを労働者が握る運動を意味した。その道は容易ではなく、知謀と教育、訓練を必要とした。武力革命はできるかぎり避けるべきだった。
 知識人によって形成される党は、労働者階級を代表して、「現代の君主」となるために、政治の局面において国を導く指導力を発揮しなければならない。その戦いは、武力による正面攻撃のかたちをとるのではなく、長い「陣地戦」になるとグラムシは考えていた。
「グラムシの戦略の核心には、永続的に組織される階級運動がある」と著者はいう。とりわけ、党を担う革命家たちは、労働者階級を代表して、国民的にも国際的にも同意を得られるリーダーシップを発揮できるよう、たゆまず努力を重ねなければならない。
 グラムシにとって、社会主義とは中央集権的な計画経済体制を意味するわけではない。重要なのは、市民社会において、労働者階級が力をつけ、従属的(サバルタン)階級からヘゲモニー的階級へと移行していくことである。そのため労働者はこれまでの「経済的─同業組合的」組織に甘んじることなく、ひとつの信頼に足る存在として、市民社会のさまざまな分野でヘゲモニーを握るよう努めねばならない。グラムシにとって、社会主義の目的は、労働者を搾取から解放し、「社会を自由な人間たちからなる現実の共同体として構成する」ことにほかならなかった、と著者はいう。
 こうしたグラムシの考え方は、ファシズムともスターリニズムともことなっていた。人民大衆が政治過程から排除され、党の決定や命令に黙々と従うといった構図はまったく考えられていなかった。国民は公共的な問題に幅広く関心をもち、自由に意見を表明するいっぽう、党は国民の意見をとりいれ、国民の信頼を得る政治的指導力を発揮することが求められていた。
 グラムシの考え方を著者は高く評価している。じっさい、イタリア共産党を支えていたのも、こうしたグラムシの考え方だったにちがいない。だが、ソ連邦解体を受けて、1991年にイタリア共産党も解党を余儀なくされている。そこには社会主義にたいする失望があった。なぜソ連型だけではなく、イタリア型の社会主義(グラムシ主義)も見捨てられたのか。そのことを深く考えてみる必要がある。

   8 われらの時代のマルクス主義

 かりに、われらの時代のマルクス主義と名づけてみよう。
 著者は戦後のマルクス主義をどのようにとらえているのだろう。
 第2次世界大戦後もマルクス主義の影響は大きかった。マルクス主義はピーク時には人類の3分の1を支配した体制の公式イデオロギーになっただけではない。世界各地の革命運動を鼓舞する役割をはたしてきた、と著者はいう。
 第2次世界大戦後もマルクス主義の存在感が大きかったことはまちがいない。ソ連への信奉性は薄れ、社会民主主義政党はマルクスの影響を否定するようになった。それでもマルクスの影は大きく、1990年代までマルクス主義は、たとえ少数派だとしても力強い政治勢力を保ってきた、と著者はいう。
 著者はこの時期のマルクス主義の発展を4つの局面にわけて分析している。

(1)ソ連などの社会主義諸国
(2)「第三世界」の国々
(3)60年代末の学生反乱
(4)70年代以降の動き
(5)80年代半ば以降

 それを順番にみていこう。

(1)ソ連などの社会主義諸国
 ソ連では1956年にスターリン批判がはじまった。これに呼応して東欧諸国では、ポーランドやハンガリーで自由化運動が発生する。1960年ごろには中国とソ連が対立するようになる。1968年には「プラハの春」という悲劇的なできごとがあり、その後、ポーランドでは一連の地殻変動が生じた。60年代末から70年代半ばにかけ、中国では文化大革命が発生した。
 こうした動きにたいし、西側のマルクス主義者は「ソ連からキューバやベトナムにいたるまでの現存社会主義体制は……こうであって欲しいと願っていた姿とは、似ても似つかないものであったという結論」に達していた、と著者はいう。つまり、西側のマルクス主義者はソ連型の社会主義体制に幻滅していたというのだ。
 そこからは、ふたつの道が生じた。ひとつはロシア革命以前の社会主義の理念に立ち戻ろうとする動き。もうひとつは、社会主義そのものに失望して、マルクスのすべてを拒絶しようとする動きだ。

(2)「第三世界」の国々
「第三世界」という曖昧な概念はもともとマルクス主義のなかには存在しなかった。それは欧米先進国とソ連社会主義圏のどちらにも依存せずに、植民地後の発展を遂げようとする開発途上国全体を指す呼称だった。
「第三世界」を自称する新興国は、欧米諸国からの自立をめざして、社会主義をかかげることが多かった。だが、その後の発展は容易ではなく、「第三世界」ということばは次第に使われなくなった、と著者はいう。
 I・ウォーラーステインによれば、世界はいくつかの「中枢」先進諸国が「周辺」を支配し、世界市場を形成することで成り立っている。こうした世界システムは16世紀以降に生まれ、「中枢」が発展するのに、周辺は取り残されるという構図が生まれた。第三世界とは、ウォーラーステインのいう「周辺」にあたる。
 それでは、周辺地域が自立的発展を遂げるにはどうすればよいのか。第三世界の左翼勢力は、米帝国主義と独裁政権に抗する共同戦線を提唱し、議会での勢力獲得をめざした。国内における攻撃は、主に世界市場向けの輸出品をつくる大土地所有者に向けられていた。革命の目的はまず大土地所有を解体することだった。
 だが、議会主義にあきたらない極左勢力は、資本主義そのものの廃絶をめざして、各地で蜂起した。社会主義そのものの建設が目標とされた。フィデル・カストロによる1958年のキューバ革命は、社会主義の明るい未来を切り開くかに思えた。だが、社会主義建設は困難をきわめた。

(3)60年代末の学生反乱
 1960年代末の急進主義の波は、突然かつ予期せぬ事態だった、と著者は書いている。それは急速に盛りあがり、しぼんだ。その運動をおこしたのは若いインテリたちであり、フランスとイタリアでは学生運動が労働者階級の運動にまで飛び火した。学生反乱が見られたのは、資本主義国だけではない。ユーゴスラヴィアやポーランド、チェコスロヴァキアでも、急進的な運動が発生した。
 新たに登場した新左翼は、アナーキズムやテロリズムの傾向すら含んでいた、と著者はいう。1950年代初頭以降、労働者階級の生活水準が改善されるにつれて、マルクス主義はどちらかというと退潮傾向にあった。だからこそ、新左翼の動きは激しいものとなった。
 学生たちの急進化は、経済的不満や経済危機によるものではなかった。「経済の奇跡」と呼ばれた資本主義の繁栄期に発生したからである。彼らは労働者や農民と一体化していたわけではない。だが、新左翼運動は大衆からはほとんど受け入れられず、次第に孤立していった。それは秘儀的な言語や哲学と結びついており、理論中心主義の傾向があった、と著者は評している。
 新左翼に理論以上の何かがあったとすれば、それは反戦運動や環境問題と結びついていたことだった、と著者はいう。新左翼が大衆政党を生みだすことはなかった。とはいえ、その運動は大学から大学へと広がり、国際的にも伝播していった。それによって、いったん消えかかったマルクス主義を広げるきっかけになった、と著者は論じる。

(4)70年代以降の動き
 70年代以降の特徴は、かつてのソ連共産党がもっていたマルクス主義の教理が失われたことだ、と著者はいう。60年代末の学生反乱をへて、さまざまな解釈が生まれ、マルクス主義は多元的になった。
 そのいっぽうで、マルクス主義の理論家が生まれた。マルクス主義は知の分野で欠かせない要素となり、哲学者や思想家のあいだでも論じられ、構造主義や実存主義、精神分析などと結びつくようになった。
 さらに、これまで世界を分析する唯一の武器であると思われていたマルクス主義は、次第に自分たちの砦の外を見ることを余儀なくされた。マルクス経済学者は、大学のブルジョワ経済学を単なる資本主義擁護の学説と片づけることができなくなった。実際、社会主義国でも経済分析に近代的なプログラムの手法がとりいれられるようになった。
 つまり、マルクス主義者は、もはや非マルクス主義者の知識を避けて通ることはできなくなった。そのいっぽうで、それまでマルクス主義とは無縁だったフランスの歴史学も、逆にマルクス主義の業績を取り入れるようになった。
 マルクス自体にさかのぼる研究もさかんになってくる。マルクス研究は公式のドグマからかなり自由になって、マルクス主義者のあいだからも、これまでにない命題や考え方が提示されるようになった。
 マルクスの再評価とマルクス主義の現代化が生じた。主流派と非主流派の区別はもうなくなった、と著者はいう。
 原典からの時間的距離が大きくなるいっぽう、教条としてのマルクス主義は見捨てられるようになった。
 マルクス自身は体系的な理論を完成したわけでもないし、ポスト資本主義社会への道筋や未来社会の姿をえがいたわけでもない。そのため、70年代には、さまざまな解釈や論議が巻き起こった。
 人間社会のすべてを解明するというマルクス主義の目標は、いまや大言壮語とみられるようになった。資本主義の崩壊や、プロレタリアートによる革命、あるいはきたるべき社会主義の姿などについての古い確信はもはや信じられなくなった、と著者はいう。
 1970年代には、マルクスやマルクス主義関連の出版物が世界各地でピークを迎えた。だが、それと裏腹に、現存社会主義の実態が、知識人、そしてそれ以上に大衆を、マルクス主義から遠ざけることになった。こうして1980年代に、マルクス主義は後退期を迎える。

(5)80年代半ば以降
 1980年代以降、マルクスは時代遅れとみなされ、世界中でマルクス主義は「ゆっくりと朽ちてゆく中高年の生き残り集団の単なる思想一式に落ちぶれた」と著者は書いている。
 ヨーロッパではマルクス主義は見捨てられ、中国も劇的な進路変更をはたした。そしてソ連邦が崩壊する。「マルクス・レーニン主義」は一掃された。
 ソヴィエト・モデルの崩壊は、共産主義者だけではなく社会主義者にも大きな爪痕を残した。マルクス主義者は、未来にたいする歴史予測が完全にはずれたことを認めないわけにはいかなかった。
 旧社会主義国でも、社会主義の崩壊後、体制のエリートたちはマルクス主義の教義を捨て去り、国家に守られながら、ジャングル資本主義やマフィア勢力に身を投じることになった。
 しかし、マルクス主義の後退は、70年代から徐々にはじまっていたのだ、と著者はいう。1974年にはフリードリヒ・ハイエクが、76年にはミルトン・フリードマンがノーベル経済学賞を受賞する。経済学ではケインズ派に代わって新自由主義派が主流となった。
 いっぽう、社会学や歴史学は、マルクスの方法を取り入れていた。それまでの政治史的な歴史学に代わって、社会経済史というジャンルもあらわれる。その代表がフェルナン・ブローデルの仕事である。イアン・カーショーも、ヒトラーについてのこれまでにない研究をあらわした。それらの仕事は、教義的なマルクス主義とはまったくことなる。
 80年代以降は、全般的にマルクス主義の後退がみられた。とりわけレーニン流の党組織と、中央統制型の社会主義には批判が集まった。これに代わって注目されたのは、たとえばチェ・ゲバラなどによる小グループのゲリラ闘争である。しかし、こうした「行動による宣伝」は、テロリズムに後退するほかなかった、と著者はいう。
 社会変革を求める政治的行動主義が沸騰したのは、むしろ非ヨーロッパ諸国においてである。西側諸国では、社会民主党や労働党すら資本主義システムにのっとるのはとうぜんと考えるようになった。
 社会主義から資本主義へというのが1990年代以降の風潮である。学位をもつ億万長者が登場し、学生たちは社会変革よりも出世をめざすようになった。
 18世紀的な啓蒙主義にもとづく社会変革イデオロギーは後退し、近代化された伝統的宗教が興隆ないし復活した。こうして、マルクス主義は全面的に周辺化していく。マルクスには、テロルと強制収容所からなる社会主義のイメージがつきまとい、それがマルクス主義を嫌われ者にしていった。
 いまや西側の自由民主主義的資本主義が世界的規模で優位性を誇っているかにみえる。それでも、と著者はいう。「資本主義は……それ自身の無制約のグローバルな影響によって、自らの将来が問われている」
 資本主義は人類に危機をもたらそうとしている。そのとき、深い闇の奥からよみがえるのは、資本主義は永遠不滅ではない、資本主義世界は変革されなければならないというマルクスの声ではないか、と著者は論じている。
 こうして、200年にわたるマルクス主義の興亡をみていくと、やはりマルクスは遠くなったという思いが強くなる。それでもマルクスはいまでも思索のスタート台を提供している。肯定するにせよ、否定するにせよ、マルクスを含みこまない思考は、どこか浅薄さをまぬかれないのだ。

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