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自貢の塩、栄県の白塔──今井駿『四川紀行』を読む(4) [本]

 著者の旅行記で、四川省の旅を楽しんでいる。
 今回の行き先は自貢である。重慶から西に列車で約8時間。
 ホテルの場所がわからなかったので、著者は仕方なくふだんは乗らない人力車に乗った。ようやくホテルにたどりついたが、法外な料金をふっかけられたという。
 自貢という地名はもともとあったわけではない。この地域にあった自流井(じりゅうせい)と貢井(こうせい)というふたつの塩井(えんせい)の名をあわせて、1939年に自貢市という地名が誕生した。
 塩井は文字どおり塩をくむ井戸のこと。自貢は塩の都である。
 翌朝、著者は塩業歴史博物館に出かけた。入り口は4層の屋根で、門をくぐると広い内庭があり、正面に3層の屋根をもつ楼閣、左右に楼閣式の回廊がある。華麗きわまりない建物だ。
塩業歴史博物館.jpg
[塩業歴史博物館。ウィキペディアから]
 博物館では、塩井から塩をくみ上げる技術が紹介されている。労働消耗型ではあるが、聞きしにまさる生産技術だった、と著者は書いている。
 塩は人間にとってなくてはならないものだ。日中戦争当時、日本軍は中国沿岸の塩業地帯を占領した。しかし、この四川奥地の塩井にまでは支配がおよばなかった。中国が執拗な抵抗をつづけられたのは、自貢の塩のおかげだという説がある。
 博物館をでてから、著者はいまも操業をつづける塩井を見学にでかけた。現在、塩井からは揚力ポンプで、塩水がくみ上げられている。
 著者は郊外にある恐竜博物館にも足を延ばしている。広大な建物の恐竜群の展示は大迫力。ただし表示が××サウルスではなく、××龍となっているので、慣れるまでは、ちょっとくたびれるという。
恐竜博物館.jpg
[恐竜博物館の展示。ウィキペディアから]
 博物館を出たあとは、ホテルのある沙湾に戻り、王爺廟(おうやびょう)の茶店で一服。町で夕食をとって、古本屋をのぞいてみた。思いがけず貴重な本を見つけ、何冊かを買いこんだ。
 そのうちの1冊が『天安門詩文集』。1976年、北京の天安門広場では、周恩来を偲んで、革命記念碑に詩や短文がささげられた。『天安門詩文集』はそれらを収録したもの。
 江青らの四人組は、このとき広場に集まった民衆に解散を命じ、それに従わなかった3000人の人びとを強制的に排除した。いわゆる第1次天安門事件である。このとき100人以上の死者がでたといわれている。
 その「詩文集」を著者は四川省の奥地、自貢の古本屋で見つけたわけだ。
 さらに翌日の12月30日、著者は自貢のバスターミナルからバスに乗って栄県まで出かけている。
 自貢から西へ約40キロ。栄県は自貢市に属している。県が市に含まれるというのは、ちょっと不思議な感じだ。
 栄県は呉玉章(1878〜1966)の生まれた地だ。呉玉章といっても知る人は少ない。中国の政治家・教育家である。
呉玉章.jpeg
[呉玉章。ウィキペディアから]
 例によって、オンボロバス車内の一騒動があって、著者はようやく栄県のバスターミナルに到着。
 手に入れた略図を頼りに、呉玉章の旧家をたずねようとするが、これがなかなか見つからない。何人もの人に聞いて、わかったのは14、5キロも先だということ。仕方なく断念し、引き返した。
 呉玉章は早くから成都などで学び、日本にも留学して、孫文の側近として活躍した。辛亥革命が挫折したあと、フランスに留学した。その実家がどんな家だったか見ておきたかったが、返す返す残念だった、と著者は書いている。
 旭東河のほとりまでたどり着いて、くたびれはてた著者は仕方なく人力車を頼んで、大仏寺の正面まで乗せてもらった。大仏寺のほんらいの寺の名は真如寺だ。
 寺の階段を登っていくと、正面に王天傑(?〜1913)の祈念碑が立っている。清朝にたいし決起した好漢。辛亥革命後も袁世凱の独裁に反対して、ふたたび立ちあがったが、敗れ、殺された。
「まことに、その名に恥じぬ天下の快男児である」と、著者はいう。
 そこからさらに行くと、大仏の真下に出る。
栄県大仏.jpg
[栄県の大仏]
 大仏の大きさは、楽山の大仏につづいて、中国では第2位。保存状態はあまりよくない。
 大仏の頭部の上にある亭でひと休みし、北側の崖沿いに下りた。洞のなかに達磨大師の石像があった。
 著者は街に戻って、昼食をとってから、気になる白塔があったので、そこに向かった。
 あぜ道を通っていくと、前方の丘にすばらしい白塔が立っている。犬の遠吠えを背に坂道を登っていく。
 白塔にたどり着く。高さは20メートルほど。7、8メートル四方の基台の上に乗っている。様式からみて、宋代のものだ。塔は心持ち右に傾いている。「鉛色の冬空がずっしりと歳月の重みを感じさせる」と、著者は書いている。
 大仏も白塔も、塩業の繁栄が生みだす財力を抜きにして考えられない。いまは畑だが、白塔のまわりはかつて大小の伽藍がいらかを並べていたのだろう。
 著者はなぜかこの塔に心ひかれた。「ただひたすら天に向かわんとする精神」、「人を威圧する力がない」おおらかさが好きだという。
「大楼・寺観は灰となっても、塔は数百年の歳月を生き残り、世知辛い現実主義に疲れ果てた人々に、無力がゆえの慰めを捧げつつ、立ちつくしている」
 街に戻ってきた。露店が並んでいるが、ろくなものはない。もうすぐ正月だというのに日本の暮れのような雰囲気はない。それもそのはず、中国人にとっては旧正月の春節こそがほんとうの正月なのだ。
 街角ではおばさんどうしの激しい言い争い。それを取り巻く野次馬たち。
 ふり返ると超然とたたずむ千年の塔が見え、なぜかほっとする。
 天について考えながら、著者は思う。

〈中共は革命により天帝とその属僚を追っ払い、地上に浄土を実現することをめざしていたはずであった。が、天帝とその属僚の席には結局、党主席と党員たちが納まった。「天」は依然として在り、人々の運命を握っていた。しかも、神々よりもずっと確実に、だ。こうして「天」は地上近くに引き下ろされたが、その分苦しさが増すことになった。〉

 いささか暗澹たる気分をいだいたまま、著者は夕方4時半のバスに乗りこむ。しかし、バスに揺られながら、この道を王天傑が袁世凱を倒すため、重慶に向けて出撃していったかもしれないと思うと、いささか高揚感をおぼえたと記している。

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