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西部邁『ファシスタたらんとした者』を読む(1) [人]

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 西部邁は思想の人であり志操の人である。
 ちゃらんぽらん、かつ無思想、また気弱く生きているぼくは、これまで西部の本を何冊か買ったものの、いつも途中で投げだすか、飛ばし読みするかのどちらかですませてきた。しっくりこないところもあったし、しつこくこねくりまわすような議論がなんだかうっとうしくもあった。そのため横目でみながら、のめりこむこともなく、やりすごしてきたのが実情だ。
 21日の日曜日、成田山の裏手で、昼間からカミさんやその仲間と一献傾け、いい気持ちで自宅に帰って、ぼんやりネットを眺めていたら、かれがけさがた多摩川に入水し、自死したというニュースが飛びこんできた。急に酔いがさめ、粛然とした。
 テレビや雑誌でも活躍し、知己も多かったはずだから、メデイアではこれから数々の西部追悼文があふれでるにちがいない。よくしゃべり、にぎやかな人だったという印象が強い。しかし、じつは鬱をかかえた孤独な人だったのではないだろうか。
 きのう、駅前、東武百貨店内の旭屋に行って、西部の本を探した。最後の著書とされる『保守の真髄』(講談社現代新書)は売り切れていた。しかし、去年6月に発行された『ファシスタたらんとした者』が1冊残っていたので、それを買うことにした。おだやかなタイトルではないが、せめてもの供養にと思ったのである。
 ぼくにはこの人について語る資格はない。異議は異議として、この本をできるかぎり読みとおしてみることくらいが、死者を追悼するために、ぼくができる唯一の事柄である。
 本書は西部邁の思想的自伝だといってよい。英語のサブタイトルがついている。そこにはCeaseless but unsuccessful life of a would-be fascista と記されている。ファシスタ(英語流にいえばファシスト)になろうとして、日々努力しつつも失敗に終わった人生、ということになろうか。
 いまどき、みずからファシスタ(ファシスト)と名乗れば、世間から白い眼でみられることはわかりきっている。この人はけっこう人気者であるにもかかわらず、孤立無援のポジションを好む癖があった。カネや権力を求めたわけではない。たぶん清廉な人だ。
 最大限、好意的に解釈すれば、ファシスタとは思想の力で人を動かし、世界の(国家ならびに社会の)秩序を変えることをめざす人のことである。ムッソリーニやヒトラーのイメージを思い浮かべないほうがいい。ただし、反左翼という含意がある。
 かれは日夜、世界の秩序を変えるべく日々奮闘努力した。だが、世に受け入れられるところとならず、失敗のまま人生を終えようとしている。これ以上老いさらばえ、周囲に迷惑をかけるのは忍びがたい。そのため、自死の道を選ぶ。
 それが、かれの心境だったのだろう。
 生半可なことではない。死して志を残すという言い方がある。だが、これは非凡人のやることだ。ぼくには、そんな勇気も志もない。たぶん、死ぬまでうじうじと生きるのだろう。
 この人の志のありかを知ることは、せめてもの供養と思われる。それを継承しようとは思わないかもしれないけれど。
 そんな気持ちをいだきながら、ページをめくりはじめる。
 むずかしくて、途中でまた投げだす恐れはおおいにあるにしても。

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