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大足、それから三峡下り──今井駿『四川紀行』を読む(5) [本]

 1992年11月、重慶に滞在していた著者はバスで大足にでかけている。例によってターミナルでは案内が不親切で、45分遅れでようやくバスに乗りこむことができた。そのかん、いらいらがつのる。
 重慶会談というのがあったらしい。1945年8月28日に蒋介石と毛沢東が会って、これからの中国について話し合いがもたれた。その会談がおこなわれたのが重慶の歌楽山で、バスはそこを通って大足に向かう。
 著者が大足に行きたいと思ったのは、絵葉書でみた石刻群に感激したからだ。とくに北山の数珠観音と宝頂山の鵜飼いの女に魅せられたという。
 バスは西に向かい、6時間かけて大足県龍崗(りゅうこう)鎮に到着。長旅である。
 ホテルを確保してから、さっそく北山の石窟を見に行く。石細工の露店が並んでいる。ここでも案内は不親切。最初、道に迷ったほどだ。
 数珠観音には圧倒された。やはり来てよかった、と書いている。
 翌日、著者は宝頂山に向かう。ミニバスで30分ほど。
 宝頂山は密教の成都瑜伽(ゆが)派の中心地だった。南宋の名僧、趙智鳳(ちょうちほう)がここを伝教の本拠地とした。
「智鳳は資金を募り、約70年間をかけて小仏湾と大仏湾を中心とする周囲2キロの山々に1万余体の磨崖仏を彫り、ここを中国未曾有の密教道場とした」。その資金源はやはり塩業だった。
 宝頂山では仏教の教えが石刻になっている。お目当ての「鵜飼いの女」は、地獄変像のなかに慎ましく納まっている。一匹のみみずを二羽の鶏が争っている。これがどういう教えなのか、よくわからないが、すばらしいものだった、と著者は感嘆している。
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[鵜飼いの女。本書より]
 牛飼いの像、千手観音像、華厳三聖像、涅槃像もすばらしい。ともかく百聞は一見にしかず。おすすめの場所だという。
 北山の静にたいして、宝頂山の動。中国のふたつの側面を見ることができてよかった。重慶行きのバスに揺られながら、著者はつくずくそう思った。
 最後にしめくくりとして、「三峡下り」の旅を紹介しておこう。
 1992年12月21日午前8時半、著者は重慶から上海行きの船に乗り、武漢まで2泊3日の旅を楽しんでいる。このころはまだ三峡ダムが完成していなかった。
 船は300トンくらい、乗客は300人くらい、2階が3等、4等の船室で、3階が2等の船室。著者は中国人のふりをして2等の船室に乗りこんだ。外国人だと倍の値段をとられる。食堂もあるが、お世辞にもきれいとはいえない。
「私は、こんな豚小屋のごとき状況の中で飯を喰わせておいて平気な汽船会社に対して、無性に腹が立ってきた」
 さらに「『プロレタリア独裁』は社会教育が苦手と見えて、交通道徳といい、市民的マナーといい、日本よりまだまだひどい部分が相当にある」と憤慨している。
 しばらくすると、街並みも消え、変哲もない段丘がつづく。それから船は長寿、涪陵(ふりょう)に停泊して、やがて夜になった。
 もってきた『三峡詩文選』を開いて時をすごした。これは南北朝時代から清代までの三峡を詠ったものだという。
 猿のでてくる詩が多いことをみれば、いまははげ山が広がるこのあたりも、昔はさぞ緑が多かったのだろうと思う。
 午前零時、船は万県に着く。ここで1時間休憩。著者は船を下りて、買い物に出かけた。変哲もない町だが、1926年9月に、ここで万県事件がおきている。中国側に捕らえられた商船を奪回するため、イギリス軍艦が砲撃し、2000軒ほどの民家が破壊され、600人以上の死者が出た。国民革命時代の反帝意識の高まりを思わないわけにはいかなかった。
 瞿塘(くとう)峡にはいったのは、翌日の昼。水墨画のような光景に身をおいてみると、迫りくる断崖にむしろ圧迫感を覚えた、と著者は書いている。
瞿塘峡.jpg
[瞿塘峡。ウィキペディアから]
 ダムの準備は着々と進んでいた。宜昌(ぎしょう)の手前には巨大な閘門があって、パナマ運河と同じようなやり方で、水位を調整して船を通していた。
宜昌.jpg
[宜昌。ウィキペディアから]
 帰国してから、川沿いの山がなぜはげ山になったかを調べたら、原因は塩業だった。井戸からくみ上げた塩水を煮詰めるために、薪が必要だったのだ。
 四川の森林面積は漢・唐代に70%もあったのに、20世紀初頭には40%程度となり、1960年代には何と9%以下になってしまった。大躍進政策で、鉄づくりのためにさらに木が刈られたせいだ。加えて、人口増と畑の開発、家屋建築や燃料のための伐採も増えたという。
 宜昌に着いたときは夜になっていた。翌朝おきてみると岳陽(がくよう)だった。風景は一変し、長江の川幅は300メートルを超え、まるで海のように思えた、と著者は記している。
 武漢までは思ったよりも時間がかかった。到着は夕方。イルミネーションがまたたき、重慶よりずっと洗練された大都会だった。
 三峡の旅はこれでおわりである。
 本を読んだだけでは中国のことはよくわからない。
 ともかく、知らないことが多すぎる。
 もっと中国のことを知りたいものだ。それには旅がなんといっても、手ごろな手段なのだ。
 久しぶりに旅心がわいてきた。本書に感謝したい。

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