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西部邁『ファシスタたらんとした者』を読む(2) [人]

 西部邁は1939(昭和14)年3月に、北海道の長万部町で生まれた。4歳のときに厚別村(現在は札幌市)に移った。父は長沼町にある浄土真宗末寺の末男として生まれ、産業組合(いまでいう農協)に務めていた。その父が召集されなかったのは、おそらく戦時下の物資供給に必要とみなされていたためだろうという。
 厚別で覚えているのは、5月末か6月はじめに、あらゆる花が一斉に咲き誇っている風景だ。厚別は西は大都会札幌、東は野幌(のっぽろ)原生林の境界につくられていた。著者によれば、その住民は内地からの「移民」もしくは「棄民」のなれの果てで、つまらぬ村だった。
 1人の兄、4人の妹がいた。母の実家は長沼村の農家で、戦時中も戦後もいろいろと援助してくれた。そのおかげで深刻な餓えを知らずに育った。
 小学校前の思い出は、マッチ箱からマッチを取りだして、こすったところ、それが障子に燃え移ったことだ。それを見つけた祖母が何とか消し止めた。「この子はオトロシヤ」といわれたことを覚えている。
 1945(昭和20)年、厚別村の小学校にはいった。そのころから記憶は鮮明だ。そして、8月15日、敗北の日がやってくる。このころから「アメリカは吾に仇なすものなり」という感覚が芽生えたという。
 8月末か9月初めに、米軍があらわれた。少年はえらそうな様子をした米軍に敵意を燃やした。兄とともに抗議の投石を実行したという。
 2年生のとき、女の先生から「これからは民主主義」といわれて、反発を覚える。そのころから吃音がはじまる。少年のころの思い出は甘く苦い。
 元気溌剌で、成績は抜群だった。しかし、戦後なるものに偽善めいたものを感じていた。それが、かれに鬱勃たる気分をもたらす。
 小学4年のころには、長靴を加工して雪の道路を走る「雪スケート」がはやっていて、熱中するが、あるとき足をひねって捻挫をおこしてしまう。それを下手に暖めたものだから、ばい菌がはいって、足首が膨れあがり、札幌の病院に入院するはめになった。
 そのころ父が左遷されて帯広に転勤となり、一家ともども帯広に向かった。小学校ではマーケットに住んでいた少年やアイヌの少女とも出会った。
 成績はクラスで一番だったが、孤独感のようなものが貼り付いていた。吃音を知られるのがいやなために、ほとんど失語症者のように暮らしていた。
 父はさらに根室転勤を命じられたため、職場をやめて、肥料販売会社をおこす。一家は厚別に戻った。リンチも経験するが、それをはねのける。小学校の卒業式では、卒業生総代として答辞を読まされることになった。吃音の著者にとっては恐怖だったが、どういうわけかすらすらと読むことができた。
 春からは札幌の柏中学に通うことになった。父の会社はうまくいかず、一家は貧乏生活を強いられた。10円のパン代にも事欠き、冬場もコートなしで通学しなければならなかった。
 少年はからっけつだった。だが、幸いにもまわりの少年たちが映画代やおやつをおごってくれた。こうして、かれは成績優秀だが、映画好きのいささか不良少年に育っていく。本の万引きもした。
 高校入試の全国統一試験では、900万点中899点で、北海道で1番の成績だと知らされる。だが、その志向性はどうみても体制内上昇型ではなく、脱体制の非行型だったという。
 札幌南高校にはいると、1年生のときに3年分の教科書や参考書を一気に読んでしまった。それを読めば、少しは人生の見通しが開けるかと思ったからだ。2年のはじめに大学入試の模擬試験を受けてみたら、ほとんどの科目でトップクラスにはいっていた。
 だが、一人の女生徒と出会って、急に勉学意欲を失う。10年後にかれの妻となる人だ。もうひとつの事件は、妹を自転車に乗せていて、けがをさせてしまったことだ。あわや死ぬかというほどの大事故だった。それから1年4カ月、かれは痴呆のようにすごした。
 高校時代の唯一の友人は、「半チョッパリ」の同級生で、朝鮮人の父はソ連軍によって銃殺されたのだという。その友人は高校を退学して土方になり、そして暴力団員に墜ちていった。
 文学書を読みふけったのもこのころだ。「少年は、世界文学なるものから『人間の不幸』の数々にかんする知識を入手し、それらの不幸の記憶だけを糧にして、いわば蛹(さなぎ)と化した」と、本人が書いている。
 一浪して東大にはいった。浪人中、ズック靴で十勝岳に登り、生爪をはがしたこともある。年末、北大にはいっていた兄の関係で、唐牛健太郎と出会った。
 東大を受験したときは、ドストエフスキーの『罪と罰』を一睡もせずに読みふけり、かえって頭がさえて、試験に落ちる気がしなかったという。
 東大にはいるとなぜか虚しい気分に襲われた。そこで5月の終わり、自治会室を訪れ、「あの、学生運動というものをやってみたいのですが」と申し出た。このあたり、どこか北大の兄や唐牛健太郎の影響がある。
 樺美智子が先輩のお姉さんという風情だった。先輩の坂野潤治(のちの歴史学者)に共産党にはいらないかと誘われた。すぐに「はいります」と返事をしたら、かえってしかられたという。
 駒場細胞会議にもでるようになる。日教組の勤務評定反対闘争を支援するため和歌山にも行った。被差別部落の集会所にも出かけた。
 その年の暮れ、左派の学生組織が共産党から除名されて、「共産主義者同盟」が結成される。いわゆるブントである。著者はそれにもあっさり加入した。
 平和と民主にたいし、革命と自由がブントのめざす方向性だった。だが、革命と自由がどんなものか、いささかの見当もついていなかった。革共同(革命的共産主義者同盟)にも誘われたが行かなかった。ブントの最期を見届けるつもりになっていたという。
 1959(昭和34)年10月、日比谷野外音楽堂で開かれた安保改定反対の集会では、突然、演説するよう求められた。膝はがくがくしたが、いつもの吃音ではなく、ことばがあふれるように流れ出た。以来、安保闘争が終結するまでの8カ月、著者は名アジテーターとして知られるようになる。じっさいは「敗北への予感」と「自滅への願望」がみずからを揺り動かしていたと書いている。
 11月、東大の駒場自治会選挙で、いたしかたなく委員長に立候補し、当選する。ほかの候補者が立候補資格を失っていたためだが、票のねつ造と入れ替えで当選したことを認めている。
 60年の1・16では岸渡米を阻止しようとして、羽田空港で、ブント幹部連とともに逮捕され、起訴される。4・26の国会デモに向けて、駒場ではストが成立した(だが、これも票数を数えた振りをしたでっち上げだったと認めている)。そして、6・15、ブントは国会突入を呼号していた。南通用門からの突入となったが、そのとき樺美智子が死亡した。
 7月3日の全学連大会で、著者は逮捕される。6・3事件でも6・15事件でも著者は起訴され、けっきょく3つの裁判で被告人となった。東京拘置所では向かいが帝銀事件の平沢貞道、右隣が雅樹ちゃん誘拐殺人事件の本山茂久だった。そこを出る11月末までの4カ月半、著者は沈思黙考するほかなかった。差し入れられた『資本論』は、つくり話だとしか思えなかった。そして「自分は予定通りに一介の襤褸(らんる)と化し独りになって裏町に姿を隠そう」と思っていたという。
 本日はこのあたりにしておこう。それにしても西部邁という人は、元気なはみだし型の秀才だったことがわかる。

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