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西部邁『ファシスタたらんとした者』を読む(3) [人]

[2、3日、いなか(兵庫県高砂市)に帰っていました。それにしても思うのは町のさびれようです。ぼくは店で育ちましたが、最初、店のあった南本町も、それから次に移った鍛冶屋町商店街も、いまはほとんど人が通らない状況になってしまいました。70年代半ばに大型店ができたこと、80年代から郊外の大型店どうしの競争が激しくなったこと、車の発達、工場の撤退と合理化により人口が減ったこと、若い人が町を出ていってしまったこと。ほかにも理由があるでしょうが、景気がいいといわれる裏で、かつてはにぎわった地方都市の衰退がますます進んでいるようです。いま必要なのは都市論ではなく、いなか論ではないかと思った次第です。そんなことを思いながら、今回も西部邁の自伝を読んでみます。]

 60年安保闘争の終わったあと、ブント書記長の島成郎は、3000人の職業革命家からなる秘密組織をつくろうと叫んでいた。しかし、著者はそんなものがつくれるわけはないと思っていた。政治の季節は終わったのだ。拘置所からでてくると、すでにかつての同志はちりぢりになり、それぞれおのれの保身に走りはじめていた。
 家からは勘当を言い渡されていた。それでも北海道に帰り、家に泊めてもらい、つきあっていた彼女にも別れをつげた。
 ブントは事実上、解散となる。青木昌彦は組織を離れ、清水丈夫と(京大の)北小路敏、(北大の)唐牛健太郎は革共同に合流することになった。著者は「戦線逃亡する」とつげて、ひとりになった。
 下宿を見つけ、家庭教師をし、パチンコではほとんどパチプロの領域に達した。たまに大学に出ると、共産党員からリンチにあった。
 被告人として3つの裁判所に通うので、けっこう忙しい毎日だった。著者はなぜ安保条約改定に反対したのかとふり返る。それは「日米の軍事協力」そのものに異を唱えるためだ。双務性といっても、それは見せかけのもので、日本がアメリカの下請けになるのが目に見えていたからだという。
 ブランキストめいた行動主義の熱狂の裏には空無感が貼りついていた。その罰を受けるのはとうぜんだと思っていた。それから20年、著者は政治向きの問題についてはいっさい沈黙を守りつづけることになる。
 経済学の勉強がはじまる。まずマルクス経済学の書物を読みあさったが、すぐに失望する。1年ほどたって気づいたのは、文明の基礎は経済にあるのではないということだった。反権力も手前勝手な思想だと思えた。そこで、文明について知るには、あらゆる学問を習得しなければならないと決意した。
 1963(昭和38)年の夏、元ブントの青木昌彦と生田浩二に誘われて、通産省の外郭団体でのアルバイトにありついた。データ整理と解析の仕事だった。それは玉野井芳郎ゼミの請負仕事で、おかげで著者は多少なりとも喰うことができた。そのころ、別れをつげたはずの北海道の彼女がやってくる。そして、けっきょく、いっしょに暮らす成り行きとなった。
 青木昌彦は著者に近代経済学で大学院に行くことを勧めた。そこで、著者は10冊ほど近経の本を読んで、論文を提出したところ、みごと合格。東大の大学院にはいることになった。
 大学院では数理経済学を専攻した。いくつかの経済動学モデルをつくったりもした。それまで解けなかった数学の応用問題の解法もみつけた。宇沢弘文に評価されて、横浜国立大学に助教授として迎えられることになった。それが可能になったのも、1967年に6・15事件の執行猶予つき温情判決がでたからだ。そのころ、まだ組織にいた連中は、権力を志向する陰湿な組織の論理にしばられ、底なしのテロにおののいていた。
 1970年4月から73年3月まで横浜国大で近代経済学を教えた。そのころ新左翼は内ゲバで自壊しはじめていた。大学の講義は平均並みにこなしていたが、どこか方向性を失っていると感じていた。「尋常ならざる遊び癖と異様なまでの子育てへの熱中」が同居していた、と著者はいう。
 そんなとき東大の内田忠夫教授から、東大の教養学部にこないかと誘われた。社会科学方法論のようないささか哲学的なこともやれると聞いて、喜んでそれに応じた。
 1972年2月に連合赤軍による浅間山荘事件が発生していた。しかし、事件後、榛名山リンチ殺人事件が発覚したことで、著者は驚愕を覚える。10年前、組織を離れたときに、このまま組織にいると、訳のわからぬ仲間殺しがはじまるという予感があたったことに慄然とする。
 東大に移ってから、著者は遊びをやめて猛勉強をはじめる。哲学、社会学、政治学、心理学、歴史学、文化人類学、記号論などの本を浅く広く渉猟した。
 そして1年半後、経済学の基礎は物質や技術そのものにあるのではなく、経済を意味づける過程にあると考え、『ソシオ・エコノミックス』という書物を上梓する。あまり評判はよくなかった。
 外国には行ったことがなかった。そんなとき、インド、アフガニスタン、トルコ、イラク、エジプト、アルジェリア、モロッコの貧民窟を回るという旅行企画がもちあがり、それにホイホイ乗ったりもした。
 著者はスペシャリストではなくジェネラリストをめざそうとしていた。いわば社会全体をえがいて、そのなかに経済を位置づけようとしたのだ。すべてをコスト・ベネフィットで組み立てる分析的な経済学の思考には、ついていけなくなっていた。マル経もひどいものだが、近経も大同小異だと思った。
 アメリカ知らずのアメリカ批判と評されるのもしゃくなので、36歳になってから一家はカリフォルニアの大学に行き、1年間バークレーで暮らした。アメリカは精神的にも物質的にも貧しい国だと感じた。左翼思想はいうまでもなく、大衆化を進める近代主義にも薄っぺらなものしか感じられなかった。
 科学とは仮説を導きだし、命題を検証するというふたつの手続きのうえに成り立っている。仮説は経験される世界にもとづいているが、それは感覚によって選びだされ、ことばによって表現されるほかない。著者は、問題は科学ではなく、思想だという気がした。
 そこで著者は経験論の国イギリスに渡ることにする。保守思想を学ぼうとしたのだ。保守思想とは伝統にもとづく考察にほかならず、言い換えれば「歴史の英知」のことだと思った。
 当時はハロルド・ウィルソンの労働党に代わって、マーガレット・サッチャーの保守党が政権を奪還しようとしている時代だった。日本とちがい党首どうしの論戦は知的で迫力があったという。
 サッチャーの考え方はフリードリヒ・フォン・ハイエクに依拠していた。著者はハイエクの「自生的秩序」という考え方に賛同を覚えた。しかし、経済の自由競争が秩序ある市場社会をつくるという主張には納得できなかった。
 歴史は危険に満ちたものである。そのなかでバランスをとっていく知恵だけが伝統の名に値すると考えるようになっていた。エドマンド・バークの保守思想もそのようなものだと思われた。
 大学はケンブリッジにあったが、著者が暮らしたのはフォックストンという小さな村だった。スコットランドにも足を伸ばし、旧東欧圏やトルコ、ギリシャも旅してみた。社会主義のひどさに慄然とし、歴史の栄光を失った国の悲惨さに心が痛んだ。
 多数派の世論を正しいとする民主主義の考え方や、通常、大衆社会と訳されるマス社会にも批判をいだくようになった。民主主義と大衆社会は、愚劣きわまる政治と社会を生みだす可能性があることに気づいたという。
 近代への懐疑も芽生えはじめる。大衆社会を批判したフリードリヒ・ニーチェやホセ・オルテガ・イ・ガセットに共感をいだくようになった。
 1979(昭和54)年暮れ、著者は日本に帰国する。そこでみたのは「経済大国」日本の狂乱と愚劣にみちた光景だった。
 帰国してからの最初の仕事は、世にはびこる相対主義への反撃だった。相対主義は、他人の意見を認めるとか、だいじにするといいながら、その実、それを無視して、自己の考えを押し通すことになりやすい。しかし、ほんとうはどちらの考え方がただしいかという絶対的基準があるはずだ。その基準を模索することこそが求められる。
 流行のポストモダニズムも阿呆としか思えなかった。差異化を求めて、自由に進めという考え方は、あまりに軽薄だった。
 著者によれば、保守とは現状維持を意味するのではない。それは歴史を踏まえながら、先を見据える態度を指している。
 ケインズとヴェブレンについての評伝を書いた。両者ともマルクス主義には批判的だったが、現代資本主義を混迷に導くのは拝金主義とマス(世間)の心性と行動だと見抜いていた。
 著者がふたりの評伝を書いたのは、なにもかれらの経済学をもちあげるためではなく、かれらがいかに時代と格闘したかを示したかったからだという。科学の論理と検証の前に、感性と理性にもとづく総合が存在するはずだと思っていた。
 オルテガについての評伝も書き、そのタイトルをあえて『大衆への反逆』とした。それによって、日本の高度大衆(マス)社会を正面から批判しようとしたのだ。
 著者はマスのことを「大衆」というよりも「大量人」としている。この区別はいささかわかりにくい。マスは政界にも経済界にも学界にも存在している。また左翼もマスだという。戦後日本をアメリカ化した連中もマスだという。経済大国自体がマス社会だ。しかし、人々はホンネではマスであることにうんざりしている可能性がある、とも書いている。そこに著者は賭けたわけだ。
 45歳のとき、親友の唐牛健太郎が亡くなった。著者はブントとは何だったかについて書く。その年、父も72歳で亡くなる。子どもたちは日教組の教師からいやがらせを受けていた。それは著者が大平正芳首相のブレイン組織に名をつらねたせいらしい。
 そのころ著者は保守の立場を鮮明にする。「ブラウン神父」シリーズなどで知られるチェスタトンを読み、「平凡の非凡」を理解した。保守の真髄をもとめて、福田恆存の評論を読みあさり、「勇気と節制」、「正義と思慮」のあいだで精神の均衡を保つことの重要さを学んだ。田中美知太郎とも出会った。
 そして、著者は保守思想がきわめて繊細なものであることを悟った。自称保守は、中国や韓国・北朝鮮、さらには民主党や共産党のことをあしざまにののしるが、それはほんらいの保守思想ではない。保守はみずからの主張も「間違いを犯す可能性を持つ」ことを自覚している者を指すという。
 世論や民主主義を金科玉条として、時の政権に罵声をあびせる自称左翼の態度も受け入れがたいものだった。なぜなら、民衆が常に正しいとはかぎらないからである。
 ヘイト・スピーチは著者のもっとも嫌うドグマだった。ルール、マナー、エチケットこそが、保守の要ともいえる精神なのだった。それを無視して、権力をごり押しする者は、右翼であろうが、左翼であろうが、けっして認めないというのが、保守の真髄なのだった。
 このあたりは、ぼくにも共感できる。つづきはまた。

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