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西部邁『ファシスタたらんとした者』を読む(4) [人]

 東大教養学部では「相関社会科学」に向けての機構改革が具体化されようとしていた。狭い学問領域を超えて、相互の学問分野の交流をはかろうとする構想だった。
 新任教授に中沢新一の名前があがり、著者はそのときの人事担当者となった。教授会はもめるにもめて、中沢人事はけっきょくつぶされる。いやけの差した著者は1988年に東大をやめてしまい、評論家になった。49歳のことである。ずいぶん思い切ったことをしたものである。
 それから八面六臂の活躍がはじまる。出演した「朝まで生テレビ!」は大評判となり、「週刊文春」のエッセイもはじまり、地方講演などでも引っ張りだこになった。時局評論が中心の仕事になる。その活躍ぶりによって、政界やマスコミにも知り合いが広がり、一躍人気者になる。世間は粋のいい保守思想家の登場を歓迎したのだ。
 著者はいたるところで天皇制を擁護した。天皇制は日本の誇るべき「国柄」であり、国家の非常事態においては国民共同体の基礎となると主張していた。そのため左翼過激派から襲撃されようとしたこともある。
 だが、大学を離れて評論家になったのはただしかったと感じていた。「公衆に直接語りかける」ことで政治にかかわるのは人の本分だと思っていたし、自分の働きで稼ぎ、家庭を守ることに生き甲斐を覚えていた。決まりきった学説など脇目において、「世間からの毀誉褒貶を一身で受けて、自分の思ったことを開陳してみせる」ことが、自分にとっての自由であったと記している。
 東大を辞めて、最初に書いた評論が三島由紀夫論だった。三島とは天皇観がちがっていた。三島は天皇を愛の対象と考えていたが、著者は天皇を伝統にもとづく文化的・制度的な装置とみていた。「楯の会」のようなものをつくって、集団の力学で、みずからを死に追いこんでいくやり方にはなじめなかった。
 とはいえ、著者は「三島を論じることを通じて、自己の人生に自裁をもって幕を閉じる決意がほぼ固まった」と書いている。つまり、五十代半ばから、最期は自殺することに決めていたというのだ。その理由は家族や周囲に過大な迷惑をかけるのを避けるためだという。延命には価値をみいだせなかった。だが、すぐ死ぬわけにはいかなかった。全力を挙げて妻を守ることを自己の使命と考えていたからである。
 1990年代前半は、政治改革という名の改悪がなされ、衆愚政治がまかりとおった時代だったと書いている。自民党の汚職が誇大妄想ふうに暴露され、中選挙区制や日本的経営が悪とみなされるようになった。そのことに著者は違和感をいだいた。アメリカに主導される構造改革なるものは伝統の破壊にほかならず、そんなものと妥協したくないと思った。
 そこで、著者は真性保守の立場から1994年に『発言者』という雑誌を発刊する。『発言者』は10年ほどつづく(その後、『表現者』と雑誌名を変えて存続)。同時に事務経費をまかなうため、「塾」の活動もはじめた。雑誌の発行は経済的には苦労の連続だったようだ。そのためMXテレビに出演したり、秀明大学で教えたりもしている。しかし、この雑誌があったおかげで、著者はみずからの発言と表現の砦を守ることができた(もちろん『正論』や『諸君!』の常連執筆者ではあったのだが)。
 真性保守をうたう『発言者』は単なる反左翼の商業右翼雑誌とは異なる、と著者はいう。保守は理想と現実とのバランスを重視する。そして、保守とは「活力、公正、節度、常識」という根本規範を守る態度をさすという。
 オウム真理教の麻原彰晃から対談の誘いがあったが、返事をしないでほうっておいたら、地下鉄サリン事件が発生して、あやうく難を逃れたこともあった。屋山太郎と古森義久にバッシングされた榊原英資を雑誌『正論』で擁護したこともある。ともかく、評論家に転じた著者の活動はなかなか冒険に満ちていた。
 60歳のころ福沢諭吉論を書き、その「報国心」や「武士の心」を高く評価した。丸山眞男など進歩的文化人による解釈のゆがみをただそうとしたのだという。
 幕末以来の「百年戦争」についても、日本軍のふるまいは「自衛度が侵略度を上回る」と考えるようになった。大東亜戦争は「負けを覚悟の偉大な祖国防衛戦争」であり、「日本は果敢に戦って無残に敗北した」というのが、著者のとらえ方だった。これにはおおいに異論があるが、いまはやめておこう。
 そのころ著者は東南アジアを回り、グローバリズムの惨状を目にする。ビルマ(ミャンマー)のマンダレイまで足を伸ばし、インパールの地を訪れ、歴史の運命に殉じた兵士たちをとむらった。
 それから何年かしてパラオのペリリュー島も訪れ、戦争の犠牲者をとむらった。さらに、しばらくして硫黄島を訪問した。知覧や沖縄にも足を運んだ。沖縄に米軍基地があるのは、日本がアメリカの保護領であるに近い、との感慨をいだいた。
 それぞれの戦跡を訪れてよかった、と著者は書いている。200年にわたる西洋のアジア植民地化に昂然と抗したのは大日本帝国だけだったという(ぼくは、そう思わないけれど)。アメリカが正義で、日本が不正義だなどというのはちゃんちゃらおかしい。その意味で、著者にとっては戦後の平和、民主、進歩、ヒューマニズム、自由、人権、幸福、福祉などの観念はとても受け入れられないのだった。
 1991年には湾岸戦争があった。イラクによるクウェート侵攻を容認してしまえば、世界が弱肉強食のジャングルになってしまうという観点から、著者はアメリカによる介入を容認するが、日本がそれに協力するいわれはないと考えていた。
 アメリカによる世界支配に反対していたからである。しかし、その後、アメリカが主導するグローバリズムに日本も巻き込まれていった。
 2001年には9・11事件があった。著者は世界の中心を自称するアメリカにテロがおこるのは何の不思議もないと思っていた。革命と同様、テロには反対だった。しかし、ビン・ラディンにはひかれるものがあった。アメリカが戦争という「国家テロ」を仕掛けるなら、それに「不法の武力行使」としてのテロで対抗する者がでてくるのも自然の成り行きと考えていた。
 翌年のブッシュ・ジュニアによるイラク侵攻を、著者は「侵略」とみなした。イラクが大量破壊兵器を所有しているという証拠など、どこにもなかったからである。難癖をつけてでも、フセインを倒したいという、アメリカの暴力的な姿勢がみえみえだった。そのアメリカの「国家テロ」に加担する日本は度しがたいと思われた。著者は孤立をも恐れず言論戦を展開する。
 自由民主主義というアメリカニズムがグローバルに広がっていくことに反対する、というのが保守派としての著者の立場である。
 そうした輿論を喚起しようと著者は努めるが、それがしょせんむなしいものだともわかっていた。技術主義と拝金教、世論にもとづく多数決制が近代文明の原理なのだ。
「世界破壊の際限なき深刻化、それが世界の未来にかんする唯一の展望」であり、「今はその大戦の『前哨戦』が長く尾を引く時期」なのだ、と書いている。
 2002(平成14)年の秋、母がなくなる。しあわせな自然死だった。だが、著者は、こんなしあわせが自分に訪れることはぜったいにおこりえない、と肝に銘じていたという。人類の未来には絶望しか感じていなかったといえる。

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