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西部邁『ファシスタたらんとした者』を読む(5) [人]

 著者は経済を発展させるのはイノベーションだという考え方に疑問をいだいていた。イノベーションは資本をより機能的にし、労働をより節約する方向にはたらき、その結果、労働分配率の減少をもたらす。その結果、所得格差が広がり、国内の購買力が低下するのは目に見えていた。
 イノベーションはさらに現在の資本収益率を未来にも想定することによって、デリバティブ(派生証券)をつくりだす。それがいずれ金融パニックにつながることもわかりきっていた。
 イノベーションが伝統の破壊をもたらすことも気に入らなかった。また、競争といっても、それは力をもつ者どうしによる価格の調整にすぎないこともわかっていた。
 著者はデモクラシーを絶対的な社会正義とする現代の風潮に一石を投じようとした。とりわけ、有権者に政策を選択してもらう民主党の「マニフェスト政治」にあきれた。新語で人をたぶらかすのは衆愚政治にほかならないと思った。そこには議会で少数派が多数派の意見を検証し、修正していこうという議会制民主主義の真摯な姿勢もみられない、と著者は怒る。
 著者は「小さな政府」論なども信じない。公共活動があって、はじめて市場の安定性がもたらされると考えていた。財政赤字の大半は、将来世代のためのインフラ投資であり、その点では子孫からの借り入れにならないと思っていた。
 民主党は偽善をばらまくことによって、選挙民をたぶらかしたという。
 その矢先に2011年の3・11東北大地震と福島第一原発事故が発生した。民主党はすっかり腰砕けになり、あとは漂流する以外になかった。
 だが、著者は自民党を支持するわけでもない。自民党は社会主義者をやっつけるだけで、「アメリカ流の純粋近代主義としての戦後レジーム」を完成させることにはげんでいるだけだ、と批判している。
 2014(平成26)年に、著者は妻に先立たれる。これが大きな打撃となった。もう生きていても仕方がないと思った。だが、当面、評論活動をやめるわけにはいかなかった。
 そのころはじまったのがTPPと安保法制をめぐる議論である。その議論を聞いていて、著者は日本がやはりアメリカの保護領にほかならぬと感じた。アメリカは自己の自由民主主義という個別性を普遍原理として他国に押しつける侵略国家であり、それを牛耳っているのが「巨大金融資本と軍産複合体」だ、と著者は論じる。そのアメリカは中国と対立しているようにみえて、両国が手を結ぶ可能性は強いとみていた。
 そこから抜けだすには、「日本自身が軍事に始まって外交や政治を経て文化に至るまでのパワー(力量)を身につける必要がある」。そのパワーがあってこそ、アメリカの協力も得られるのであって、最初に集団的自衛権をもちだす安倍首相の考え方はまさに属国の思考法だ、と著者は批判する。そして、日本が自力防衛をかちとるには、核武装の道を検討するほかないと主張する。
 憲法について、著者はイギリスにならって、不文法のほうがいいと思っている。改憲より廃憲の立場なのである。だから立憲主義などちゃんちゃらおかしいということになる。万機公論に決すべし、でじゅうぶんなのだ。
 戦後の日本国憲法は敗戦直後の混乱期に押しつけられたもので、その条項を著者はことごとく批判している。それを紹介するのはめんどうなのでやめておくが、もし憲法が必要なら、憲法制定議会を開いて、伝統にもとづく新しい憲法を制定すべきだと主張する。
 著者がみずからファシスタと称するのは、自由、民主、平和を金科玉条とせず、反資本主義、反社会主義、反米主義の立場をとるからである。それは世にいう右翼、左翼の主張とはことなり、いわば真性保守の考え方といえるかもしれない。とはいえ、ヒトラーやムッソリーニとちがうのは、みずからの立場を戦争や暴力によって表現するのではなく、あくまでも言論によって主張するところである。
 現在の戦争は、アメリカニズムで世界を塗りつぶそうとするアメリカの侵略行為と、それに抵抗するイスラムのテロとの武力衝突の様相を呈している、と著者はみる。いっぽう、中国は東シナ海や南シナ海に進出し、アジアを勢力圏にいれようとしている。第三次世界大戦の前哨戦がはじまっているとみてよい、と著者はいう。
 そのなかで、日本はどうすればよいのか。自衛を強固なものにすることがだいじだ、と著者は論じる。
 著者はファシスタを自認するが、それは「国民性の保持」を第一と考えるからだ。状況に対応しながら、自衛を強固なものにしつつ、国民性を維持・進化させていくというのが、著者の考え方だといってよい。
 イノベーションがつづく現代は、リスク社会どころかクライシス社会に突入している、と著者はいう。その象徴がバブルと詐欺だ。さまざまな事故や災害も発生している。テロと戦争が結びついている。先制攻撃は報復攻撃を招いて、事態は戦争とならざるを得ない。
 こうした危機においては、政府による舵取りが重要になってくる。とはいえ、軍事力なき外交力など空語にすぎないのだから、軍事力を含むパワーの維持強化をめざすのはとうぜんである。
 国家は自由・平等・友愛・合理という近代主義に代えて、活力・公正・節度・良識の規範を国民に示していかねばならない。国家の改革は漸進的にしかなしえない。革命は地獄(ディストピア)を招くだけである。国民社会の伝統にももとづく統合がなされなければならない、と著者はいう。
 ところが、実情はマスと化した人びとが高度情報化(技術)社会のなかで、ひたすらロボット化、ないしサービス化の道を歩んでいる。つまり、みずからがつくりだした情報や技術にもてあそばれているのだ。
 そんなことを思いながら、言論人である著者はほとんど何の収穫もないまま、死が近づいていることを感じていた。他人による看取りが長期におよぶことには堪えられなかった。
 雑誌の編集や妻の看病、講演、テレビ出演などで、日々の仕事は忙しかった。それでも、死の影は容赦なく迫ってきた。著者は「自死の具体的なやり方」を検討するにいたる。妻が亡くなってからは、こんな時代に生きるのでは生きた心地がしないと思うようになっていた。
 このままいけば虚無への転落が待っているような気がした。それを避けるにはまだ気力のあるうちに自決するほかないと決意するようになっていた。あとは社会や周囲に迷惑をかけないシンプル・デス(簡便死)を選ぶだけである。「死は束の間の生の最後のほんの一環にすぎぬと心の底から思わないわけにはいかない」と、著者は書いている。
 このあたり書き写していて苦しくなってくる。人間どうせ死ぬのだから、もっと気楽に考えればいいとぼくなどは思うのだが、やはり思想家ともなると、そうはいかないのだろう。

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