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南部保守主義──カーク『保守主義の精神』を読む(5) [本]

 第5章「南部保守主義」を読みはじめている。南部とはアメリカ合衆国南部のこと。南部といえば、南北戦争(1861〜65)を連想するが、時代はまだそこまで進んでいない。
 ここで取りあげられているのはジョン・ランドルフ(1773〜1833)とジョン・コールドウェル・カルフーン(1782〜1850)。日本ではどちらもなじみのない人物といえる。
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[ジョン・ランドルフ。ウィキペディアより]
 ジョン・ランドルフはヴァージニア州出身の農園主で政治家(下院、のち上院議員)。政治腐敗を告発しつづけ、決闘好きだった人物。惰性的な変革を嫌い、農業や地方に愛着をもち、奴隷制については、原則廃止を唱えながらも微妙な立場を保っていた。強い連邦主義国家には反対していた。
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[ジョン・カルフーン。ウィキペディアより]
 それはサウスカロライナ出身の大物政治家、ジョン・カルフーン(国務長官や副大統領を歴任)も同じである。ふたりとも基本的には南部の大農園社会の利益を代表する人物だったといってよい。
 急速な変化を嫌い、農業に重きを置き、奴隷の解放には慎重というのが、南部保守主義の立場だった。
 ランドルフは連邦主義にもジェファソン流の民主主義にも反発しつづけた。政府支出の節約、歳入と歳出の均衡、イギリスとの戦争反対、農本主義、自由貿易を主張し、人種平等主義には反対を唱え、当時、猛烈な勢いで進んでいた合衆国領土の拡張には慎重な立場を崩さなかった。新たに法律をつくったり、実定法を変更したりすることは社会を不安定にするだけであり、できるだけ避けるべきだと考えていた。ランドルフによれば、議会の役割は法律を制定することではなく、法律が適正に施行されているかどうかを監視することだという。
 生まれつきの平等をめざして法律を制定しつづけるなら、人間の自由は破壊されてしまい、いずれは専制政治へと行き着くというのが、ランドルフの考え方だった。
 ランドルフは連邦政府の目的を制限し、重要な権力は州が保持すべきだと主張した。州が権力を保持するならば、不当な権力の行使は少なくなり、古くからの規範や慣習が作用するはずだ。カークがいうように「ランドルフの保守主義は分権主義であり、地方主義であった」。
 ランドルフは、投票権は土地保有者に限定すべきだとも述べている。「ナイフと算盤をもった黒人の少年」や、酒場にたむろする連中に投票権を与えるなどは愚の骨頂である。それは暴民政治を招く。無制限の権力を大衆にゆだねてはならない。ランドルフは民主化と大衆化の流れに抵抗した。
 1829年末、ヴァージニア州では州憲法制定会議が開かれた(アメリカでは国だけではなく州にも憲法がある)。最初のヴァージニア憲法は1776年につくられたが、1829年の憲法制定会議はそれを改正するために開かれたのだ(それ以降も現在まで5回改正されている)。この会議でランドルフは、変化は改革ではないと主張し、選挙権の拡大に反対している。奴隷制はやむを得ないというのが、かれの立場であり、南部を従属的な立場におとしめる高関税政策には絶対反対の立場を貫いていた。ランドルフの主張は、南部保守主義を覚醒させた、とカークは書いている。
 いっぽうのカルフーンは、カークによれば、「屈強で素朴なカロライナ人」であり、「好戦的なフロンティア民主主義の推進者」だった。合衆国大統領になることをめざしていたが、けっきょくは国家の統合強化を主張する多数派とたもとをわかつことになった。
 1824年にカルフーンはジョン・クインシー・アダムズ(前述のジョン・アダムズの息子)政権の副大統領に就任する。しかし、1828年の関税引き上げには公然と反対した。この関税法は連邦議会多数派の利益に沿っているとはいえ、南部の権利をないがしろにしたものだと感じたからである。
 このあたりの背景については、少し説明がいる。
 北部が関税引き上げを望んだのは、工業化の発展途上にあるアメリカの工業を保護するためである。これにたいし、綿花やタバコを大量に輸出している南部は、低関税を求めていた。
 実際、1828年の関税法により、カルフーンの出身地であるサウスカロライナは大きな打撃を受ける。1832年に関税法は改定され、南部の貿易には多少の改善がみられた。それでもサウスカロライナ州は満足せず、憲法会議を開いて、1828年と32年の関税法は無効だと宣言し、実際に関税の徴収をやめてしまうのである。
 その運動を主導したのがカルフーン本人だった。そのため、かれは1832年に任期途中でアンドルー・ジャクソン政権の副大統領を辞任することになる。
 こうした北部と南部の根深い利害対立が、ついには1861年の南北戦争をもたらすのだが、その前に、当時の南部の産業が奴隷制と深く結びついていたことを知っておく必要がある。
 歴史家のポール・ジョンソンはこう書いている。

〈あるひとつの問題さえなかったならば、アメリカの奴隷制は19世紀初めに宗教の力で難なく廃止されていただろう。問題は綿花である。奴隷所有が大きな政治権力と結びつき、結局、南北戦争が避けられなかったのは、綿花という短いたった一言が原因だった。〉

 1770年代、イギリスで紡績機が発明されたことにより、綿工業が発達し、綿製品が世界じゅうに普及したのは周知のとおりだ。綿花の需要が増えたことにより、アメリカ南部では1780年代から綿花が盛んに栽培されるようになった。
 奴隷労働に、ホイットニーが発明した綿繰機が加わって、アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナなどの深南部では、綿花産業が急成長する。こうして、カロライナ、ヴァージニア、ジョージアなど旧南部のタバコ以上に、綿花がアメリカ最大の輸出商品となった。
 ふたたびポール・ジョンソンからの引用。

〈南部の奴隷制を、時代遅れの過去の遺物だと考えるのは誤っている。実際は、むしろ、産業革命や技術の高度化がもたらしたもの、世界中の何億という巨大市場の要求を満たそうといる商業主義から生まれたものなのだ。〉

 したがって、南部が奴隷制を擁護し、綿花輸出を阻害する高関税を拒否するのはとうぜんだったといえる。ランドルフやカルフーンの主張は、こうした南部の立場を踏まえている。
 カルフーンは、われわれの政府は「各州の主権という確固とした基盤の上に成り立つ政府なのか、抑制の効かない多数派の意志の上に成り立つ政府なのか」と問う。これは単に南部擁護の発言ではない。もっと本質的な問いだ。
 連邦政府が制定した関税法を拒否したカルフーンは、「無効化」という考えを打ちだす。それは法律が違憲とみなされた場合、州は法律を無視できるという考えである。
 カークによれば「無効化は明らかに国家の存続を危うくさせる理念」だった。無効化は、力による対抗をどこまでつづけられるかにかかっている。無効化がいつかは無効になってしまうことをカルフーンは知っている。それでもかれは少数派の権利を模索しつづけた。
 カルフーンは少数派の権利を模索するなかで、穏やかな従来の慣行を保持するという保守主義の原理に回帰していった。とはいえ、多数派の統治に対抗して、少数派の権利を断固として守ることは、けっして容易ではなかった。
 すべての健全な憲法は譲歩の精神を効果的に具現化したものだ、とカークは述べている。政体が専制的ではなく立憲的であるとすれば、それは譲歩の精神にもとづいて少数派の権利を守ることにもとづいている。
 カルフーンは「競合的多数制」という教義にたどりつく。数の論理によって、共同体を支配するのは立憲主義ではなく専制である。数の論理で押し切るのではなく、さまざまな対立する利害関係を統合し、調整し、少数派の権利を尊重してこそ立憲的多数制(真の民主主義といってもよいだろう)は成り立つ。
 カルフーンは、単なる数的多数決でことを決めてしまうなら、すべての権利が都市部の人びとに与えられ、事実上、地方から権力を奪ってしまう恐れがある、と主張した。ある勢力が他の勢力によって権利を侵されることがないよう、万全の注意を払うのが、政治の基本でなければならないという。
 カルフーンは画一性の原則にたいして、多様性の原則を打ちだした。民主主義が数的多数制を意味するなら、それはむしろ専制であり、社会的自由を侵害する。自由と平等は両立しえない。あまりに極端な平等を求めるなら、けっきょくは高い資質をもつ人の働きを規制し、その努力の成果を奪うことになるだろう。多少の不平等があってこそ、人は進歩に向かって努力するものなのだ。
 しかし、ランドルフやカルフーンの保守主義は、古き良き南部を守ることはできなかった。南北戦争が発生し、北部が勝利したことにより、南部の知的保守主義も完全に押さえこまれてしまう。「南部の民衆の熱狂の力は、北部の産業主義とナショナリズムの若い力によって粉砕された」とカークはいう。
 カルフーンの主張は、南部の立場と奴隷制を擁護するためのものだったかもしれない。だが、けっして矮小化されてはならない、とカークはいう。

〈その原則はこれまでアメリカ保守主義によって示された提案の中で、最も聡明で活力のあるものの一つであった。競合的多数制という概念。単なる数ではなく地域や利害による市民代議制。自由は文明化の産物であり、美徳の報酬であり、単なる抽象的な権利ではないという、自由に対する洞察。道徳的平等と条件的平等の間の明確な区別。自由と進歩の密接な関係。数的優位の名のもとに、特定の階級や地域が支配することへの強い抵抗。〉

 日本の保守も、せめてこうしたアメリカ保守主義のふところの深さを学んでもらいたいものだ。

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