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カネと狂気、そして商人道──西鶴『日本永代蔵』をちょこっと(8) [商品世界論ノート]

 巻4のエピソード4。
 カネが人を動かす時代はいつからはじまったのだろう。それは貨幣が日常生活に欠かせないものになってからのはずだから、元禄のずっと以前、遅くとも室町時代からだったにちがいない。
 西鶴は同時代における、そうした人とカネの世の様相を、日本全国にわたってあますことなく記そうとしている。
 この回には越前の敦賀が登場する。北国の都、敦賀には毎日の入り船があって、さまざまな問屋が建ち並び、「ことに秋になると市の仮小屋が建ち続いて、目の前に京都の町を見るようににぎやかである」と、西鶴は書いている。
 その町に小橋(こばし)の利助という独り者の男がいた。恵比須さまの格好をして、荷をかつぎ、茶を売り歩いていた。恵比須の朝茶はいかが、とふれ歩いたので、縁起がいいと評判になり、よくもうかっていた。
 そのうち煎茶の店もだすようになり、多くの手代をかかえて問屋までやるようになった。しかし、だんだん利に目がくらみ、飲み茶に茶殻までまぜるようになったので、一気に店の評判を落としてしまった。
 利助はそのあたりから狂いはじめる。顔つきは青鬼のようになり、家じゅうを飛び回り、気を失ったかと思うと、またよみがえり、カネにしがみついた。奉公人たちは利助を部屋に閉じこめることにした。てんでに護身用の棒をもって台所に集まっていたところ、2、3日して物音がしなくなった。そこで、部屋をのぞいてみると、利助は金銀にかじりついて、目を見開いて死んでいた。
 町は、死んだはずの利助が掛け売りの代金を集めにきたという幽霊話でもちきりになった。利助の財産は気味悪がって、遠い親類も受け取ろうとしない。そのため、菩提寺が引き継いだが、和尚は京都にのぼって、それを役者遊びにつぎこんでしまったという。カネの運命はまことにはかない。
 何が利助を狂気に追い込んだのだろう。西鶴は利助がカネ儲けに執着するあまり悪事に走ったことが原因だと示唆している。だが、真相はわからない。どこかで利助の歯車が狂ってしまったのだろう。こういう浮き沈みにともなう精神の変調は、現代でもよく聞く話である。
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[荒れくるう利助]
 当時のあくどい稼ぎ方として、西鶴は次のような例を挙げている(暉峻康隆訳)。

〈はじめから流すつもりで質入れしたり、さまざまな偽物をつかませたり、騙りとぐるになって持参金つきの女房をもらったり、寺々の祠堂銀[貸付金]を借り集めておいて計画的に破産してすませたり、博奕(ばくち)打ちの仲間入りをしたり、いかさま薬を売り歩いたり、朝鮮人参の押し売り、美人局(つつもたせ)、犬殺し、もらい子殺し、さては溺死人の髪を抜き取って髢屋(かもじや)に売るなど……〉

 手口はちがえど、偽物販売から計画倒産、結婚詐欺、オレオレ詐欺にいたるまで、カネをめぐる犯罪は、いまも後を絶たない。

 巻4最後のエピソード5では、これと打って変わって、実直な商人道が示される。場所は大坂に接した堺の町だ。
 正月はどの家も相応の支度をする。餅をつき、台所の肴掛けにブリやキジをならべ、薪(たきぎ)置き場に薪を積み重ね、土間には米俵を積んでおく。そして支払いは12月20日までに片づけ、そのあとは貸金を取り立てるばかりになる。
 ところが、年末にはとかく物の値段があがる。ある年、伊勢エビと橙(ダイダイ)が高騰した。大坂でも伊勢エビが銀2匁5分(約4500円)、橙が7、8分(約1300円)にもなったことがある。
 堺の樋口屋(ひのくちや)は、このとき、高価なものを飾っても天照大神(てんしょうだいじん)もお喜びになるまいと、伊勢エビの代わりに車エビ、橙の代わりに九年母(くねんぼ[ミカンのようなもの])を飾ってすませた。堺の町衆も感心して、この新趣向にしたがった、と西鶴は書いている。
 樋口屋は世渡りに油断なく、むだ使いをしたことがない。算盤を忘れず、家計をつましく、見かけはきれいにし、物事に義理がたく、しかも優雅である。若いときは苦労して働き、老後は安楽に暮らすことをモットーにしている。
 ある夜更け、樋口屋の戸をたたいて、酢を買いにきた人がいる。下男が「おいくらほど」と聞くと、客は「お手数ながら一文(30円)ほど」という。すると、下男はめんどうになり、「本日は閉めておりますので、あしたにでもおこしください」といって、客を追い返してしまった。
 たまたまこのやりとりを聞いていた主人は、翌朝この下男を呼んで、門口を3尺(1メートル)ほど掘れと命じた。
 下男は諸肌ぬぎになって、汗水を垂らしながら、鍬(くわ)で地面を掘る。
「どうだ、銭はでてきたか」と主人が声をかける。
「いや、小石と貝殻だけです」と下男。
 これを聞いた主人はさとす。
「これだけ骨を折っても、銭一文も手にはいらないことがわかっただろう。これからは一文商いもだいじにしなさい」
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[樋口屋の教訓]
 主人は家業をまじめに勤めることがいかにたいせつかを説いた。さらに、借金があれば、毎日のもうけのなかからその分を取り置いてまとめて月の返済にあてること、小遣い帳をつけてむだな買い物をしないこと、それからよほど困ったときには外聞にかまわず思い切った処理をして、また一から出直す覚悟をすることなどを下男に教えたという。
 西鶴は、堺では成金はまれで、親から二代、三代とつづけて、堅実な商売をしていると絶賛する。
 さらに、こんなふうに書いている(暉峻康隆訳)。

〈専売業の朱座は落ち着き[朱の取引を独占していた]、鉄砲屋はお上の御用商人だし、薬屋仲間もしっかりしていて、長崎の問屋へ支払う為替銀をよそから借りるようなことがない。世間体はひかえめに構えているが、またあるときは人まねのできないこともしてのける。〉

 しかし、こうした堺の繁栄がいつまでもつづかなかったことを、西鶴はまだ知らなかった。海運の変遷が商売の基盤を押し流していったからである。

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