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西鶴『日本永代蔵』をめぐって(まとめ1) [商品世界論ノート]


   1 長者になるための教え

 井原西鶴(1642〜93)の『日本永代蔵』を、暉峻康隆(てるおか・やすたか)の現代語訳で読んでみた 。
『日本永代蔵』が出版されたのは元禄元年(1688)年のことだという。
「大福新長者教」のサブタイトルがついている。解説によると、昔、寛永4年(1627)に『長者教』という本が出ていて、西鶴の本はそれを引き継いで、新しい長者教を記したということになる。長者になるための教えである。
 寛永の『長者教』は中世末期に流布していた写本を出版したもの。3人の長者が童子の問いに答えて、長者になる心構えを説いている。
 長者は金持ちとはかぎらなかった。しかし、西鶴の新長者は、明らかに金持ちを指している。その背景には貨幣経済の発達がある。
 全部で巻6まであり、合わせて30のエピソードからなる。どこからでも読めるが、とりとめがないといえば、そのとおりだ。これがそのまま現代人に役立つとも思えない。それでも、江戸時代の人がなにを思って、どんなふうに生きていたかが伝わってくる。
 全部おカネにまつわる話である。カネが人を動かす時代がはじまっていた。西鶴はそれをときにユーモラスに、ときにあわれぶかくえがく。
 まず巻1の最初のエピソード。「初午(はつうま)は乗ってくる仕合わせ」をながめてみよう。
 おカネはあの世では役に立たないが、おカネがあればこの世でかなわぬことはまずない。残しておけば、子孫のためにもなる。だから、よく働いて、おカネをためよう。
 西鶴はそんなふうに書いている。このあたりは、いまの庶民の感覚も同じといえるだろう。
 春の山遊びにもってこいの2月[いまの暦では3月半ばごろ]、初午の日には、泉州の水間寺(みずまでら)[いまも大阪府貝塚市にある]に多くの貴賎男女が参詣におとずれる。
 厄除けで知られるこの寺の人気は、借銭(かりぜに)ができることだった。その年、1文借りたら、明くる年2文にして返す。100文借りたら、200文にして返す。暉峻康隆の解説にしたがえば、1文は現在の価値で27円。100文借りるといっても、いまでいえば3000円足らずのごくわずかな金額だ。
 ところが、あるとき、遠方からきたと思われる二十歳そこそこの若者が「一貫文借ります」というので、桁違いの金額に僧は驚く。あまりにびっくりしたため、国や名前も聞かないで、そのまま貸してしまった。
 一貫文とは銭1000文のこと。いまの金額にすれば2万7000円ほどだというが、貨幣経済が発達していない当時は、おカネの希少性がちがう。
 ところが1年たっても、貸したおカネは戻ってこない。寺をだますとは、罰当たりなやつだと僧は憤慨するが、後の祭り。これからはあまり大きな金額を貸さないようにしよう、とみんなで申し合わせた。
 それから月日は流れて13年。水間寺に銭を積んだ何十頭もの馬がやってきて、男があの節はお世話になりましたといって、大量の銭を寺に積みあげたのである。何事かとおどろいたが、事情を聞いて得心する。だまされたと思っていた寺は、予想だにしていなかった返済に大喜びし、その寄進で立派な塔を建てた、と西鶴は記している。
 そのとき判明したことだが、男は武蔵国江戸の小網町で、網屋という船問屋をいとなんでいるという。掛硯(かけすずり)[硯箱と銭箱がいっしょになった置物]に仕合丸と書いて、そこに水間寺の銭を入れておいたら、船頭たちがお守りにしたいといって、その銭を借りていった。こうして100文ずつ貸していたら、それが何と13年間に8192貫[約2億2000万円]まで増えていた。こうして男は長者になっていたという次第。
 はたして、こんなうまい話がほんとうにあったものだろうか。
 ちなみに8192貫という数字は、一貫を年利100%の複利で計算すれば、まさに13年後にそうなる。西鶴の計算はまちがっていない。
 経済学者の岩井克人によれば、中世から近世にかけ、信者が寄進した金銭を寺が祠堂銭(しどうせん)として貸し付ける習慣があったのは事実のようだ。借りる人は、おそらく、それを生活費として使うのではなく、縁起物として飾っておき、1年の無事息災を感謝して、倍にして寺に返却したのだろう。変な言い方だが、寺と信者のあいだで、賽銭がぐるぐる回っているようなものである。寺はその儲けを、毎年、寺の維持費にあてていたのだろう。
 ところが小網町網屋の発想はそうではなかった。船頭たちは、もちろんそれが水間寺の銭とありがたがり、縁起担ぎで、網屋から少額の銭を借りたにちがいない。ここで、西鶴はあいまいにぼかしてしまっているが、おそらく網屋は水間寺の銭を元手として、金貸に成長したのである。水間寺とのちがいは、網屋が水間寺の銭を、あくまでも回転資金として扱ったことである。
 回転しはじめた銭に水間寺のしるしがついているはずもない。しかし、それを船頭たちは水間寺のお守りのように信じた。網屋が長者になったのは、おそらく寺から借りた元手から獲得した総利得を寺に戻さず、自分の資本に組み入れるすべを知っていたからである。
 あくまでも物語であることを承知でいうと、男は水間寺の祠堂銭を原資として、いわばみずから銀行を設立し、それで大もうけをし、長者となったわけだ。そのもうけをすべて寺に戻して、元のすっからかんになるほど、お人よしだったとは思えない。
 武家や寺社から独立して、商人が誕生しようとしていたことを、西鶴のエピソード1は示している。それはちいさなお守りのようにはじまったカネが、だれにとっても、なくてはならぬものとして、どんどんと膨らんでいく過程をもあらわしていた。
 ただ、そこにいささか問題がないわけではない。
 一貫なら100銭ずつ借りて借り手は10人である。ところが、たとえば256貫になると、借り手は2560人必要となる。まして8192貫となると、8万1920人が銭を借りてくれなければ、商売は成り立たない。
 同時に貨幣供給量の増大もともなわなければならない。
 そのあたりのむずかしさに西鶴はふれていない。ここで伝えられるのは、まだ中世の雰囲気が残るおとぎ話である。とはいえ、カネがカネを生む世界があれよあれよといううちに広がっていくさまには、西鶴もびっくり、当時の読者もびっくりしていたのではないか。エピソード1は、そんなおどろきを伝えている。
 ちなみに、江戸幕府が金貨・銀貨・銅貨の三貨からなる貨幣制度を整えたのは17世紀前半といわれる。ただし、江戸時代を通じて、完全な通貨統合は実現できなかった。金建ての江戸にたいし、大坂(上方)は銀建てであり、両者のあいだには、いわば為替レートのようなものが発生した。つまり、ひとつの国に金建てと銀建ての地域が併存していたというわけだ。
 そのなごりは「ちんぎん」に賃金と賃銀の表記があることをみてもわかる。貨幣をカネというのも、金銀銅の三貨(3種の金属貨幣)を念頭においているからである。
銭貨(庶民貨幣)としての寛永通宝が発行されはじめたのは寛永13年(1636)のことで、それにより中世を通じて世間に用いられていた皇朝銭や永楽銭、その他さまざまの銭貨は次第に排除されていく。ついでながら、そのことも明記しておこう。
 ややこしい話はさておく。いずれにせよ江戸幕府が成立することで、曲がりなりにも統一された貨幣制度がつくられ、それによって商品世界がだんだんと広がっていくという構図をまずは思いえがいておけばよいだろう。西鶴はそのなかを生き抜く人びとを日本全国にわたって記録しようとしていたのである。



 カネがカネを生む世の中がはじまっている。
 つづいて『日本永代蔵』巻1のエピソード2を読んでみよう。
 場所は京都だ。商売一筋、2000貫(いまなら5400万円)をためこんで亡くなった父親の跡を21歳の息子が継いだ。この息子も最初は倹約家で、商売熱心だった。
 ところが、父親の墓参りから戻る途中、禁裏の薬草園のそばで、封じ文を拾ったところから、歯車がくるいはじめる。この封じ文はどうやら客のひとりが花川という島原の遊女にあてたもので、そのなかには一歩金(約2万7000円)と、詫び状らしきものがはいっていた。

 このままネコババするのもまずいと思った。そこで、男はそれまではいったことのない島原に行き、花川という女郎を訪ねる。花川には会えなかった。このところ気分が悪く引きこもっているという。
 そのまま引き返せば、なにごともおこらなかったはず。しかし、ここでついむらむらした気分が顔をのぞかせる。せっかく評判の島原に来たのだから、一生の記念に遊んでいこうと思ったのだ。そこで、男は出口の茶屋にあがり、安上がりの囲い女郎を呼んでもらい、飲みつけぬ酒に酔った。
 これが転落のはじまり。若旦那はだんだん悪い遊びを覚え、値の張る太夫買いまでする始末。太鼓持ちに囲まれ、「扇屋の恋風さま」とおだてられ、連日、散財するうちに、あっというまに財産をなくしてしまった。
 当時の島原がカネを吸い寄せる歓楽スポットだったことがわかる。扇屋の若旦那は、商売そっちのけで、その魅力に取りつかれてしまったのだろう。カネは儲けるより使うほうがおもしろいに決まっている。
 西鶴の話は、一代目がカネをため、二代目がそれを使いはたしてしまうというパターンが多い。豪農の場合とちがって、それほど、二代目が商家を守るのはむずかしかったのかもしれない。二代目が初代とおなじように商才にめぐまれているとはかぎらないからである。
マルクスが『資本論』で展開するほど、資本を維持し拡大するのは容易なことではない。江戸時代においては、資本と経営が分離されているわけではなかった。大きな商家では、外には大旦那を立てながらも、内では大番頭の采配と活躍が欠かせなかった。日本特有の知恵だったともいえる。
 つづいてエピソード3。
 泉州の唐金屋[いまの泉佐野市に実在した]は大船をつくり、北国の海を乗り回して、難波に米を運び大儲けした、と西鶴は記している。
 唐金屋はおそらく北前船が整備される前から、難波に北国の米を運んでいたのだろう。
 大坂が日本一の港となったのは、北前船に加え、従来からの瀬戸内航路で大量の米が運ばれたからである。米の相場は北浜の米市(のち堂島)で決まる。西鶴は華麗な筆で、大坂の繁盛ぶりをえがく。とりわけ中之島には鴻池、淀屋をはじめ、昔からの分限者(金持ち)が集まっていた。だが、こうした大店にとって、米仲買は表向きで、商売の中心はすでに金融業に移っていた。
 米は当時、最大の商品だった。各藩の財政は年貢によって支えられており、物納された米は大半が売却され、貨幣に代えられる。その貨幣は大半が江戸藩邸で使われる。各藩の米を扱う鴻池や淀屋が実質上、金融業者となり、大名にカネを貸すようになったのは必然だったといえる。
 運ばれた米は町で消費された。なかでも、江戸、大坂、京都が3大消費地だった。もっとも、人の生活は米だけあれば足りるというものではない。人がくらしていくには、衣食住それぞれの支えがなくてはならない。町では、それに応じて、さまざまな商品が生みだされ、貨幣を仲立ちとして、それらの商品をたがいに売り買いすることによって、生活が成り立つ。こうした商品をつくりだす職人や、それを売る商人が増えて、流通する商品が多くなるにつれて、町は繁盛することになる。
 そして、かつてはほぼ自給自足していた村が、こんどは町のために商品をつくるようになり、逆に町の商品を買うようにもなって、貨幣経済が全国に行き渡り、商品世界が誕生し拡大していくのである。
 西鶴は、大坂の商売人といっても、昔から商売をしているわけではないと書いている。大和、河内、摂津、和泉あたりの農家の子どもが丁稚にでて、見よう見まねで商いをしているうちに、暖簾分けをしてもらうケースが多いという。その途中でしくじる者も数知れない。ともかく、奉公はよい主人をもつかどうかで、あとの運が決まってくる、と西鶴はいう。これはいまのサラリーマンも同じかもしれない。
 しかし、大坂が画期的なのは、商売のネタがどこにでも転がっていることだ、と西鶴は書いている。たとえば、大坂では蔵がいっぱいになって、置ききれないと、米俵を外に置いておくことがある。それらはいずれ動かさねばならない。
 俵を運搬しなおすたびに、米がこぼれ落ちる。そのこぼれ米を集めている老女がいた。貧しそうな老女の姿をみて、それをとがめる者はいない。ところが、老女は集めた米をためて、こっそり売り払っていたのだ。そのうちに、へそくりがたまりにたまって、20年あまりのうちに12貫500目(いまの金額にして2000万円以上)になったという。ちょっとびっくりするような話である。
 この資金を元手に、老女のせがれは今橋のたもとで銭店を開いた。銀貨などを小銭に両替する商売だ。それが繁盛して、この息子はいっぱしの両替商になった、と西鶴は書いている。これこそ、ほんとのこぼれ話。商売のチャンスはどこにでも転がっている。それを生かすのは才覚しだいというわけだ。
 すでに年貢米を換金化する米商売は、淀屋や鴻池などの豪商によって独占され、どこにもはいりこむ余地がないようにみえた。しかし、思わぬところからそれを突破して、一代分限(金持ち)になる道があることを西鶴は示したかったのかもしれない。すべては一代で分限になるところからはじまるのである。
 エピソード4は一転して着物の話になる。
 昔とちがって、服装はしだいにぜいたくになり、人は万事不相応に華麗を好むようになった、と西鶴は書いている。太平の世の到来が、服装にも大きな変化をもたらしていた。
 小紋の模様、百色(ももいろ)染、洗い鹿の子など、西鶴はいろいろ紹介してくれている。着物が華美になってきたことがわかる。江戸時代の人も現代人とおなじく、おしゃれには目がなかった。いい柄の着物は当時だれもがほしがる商品だった。それに時と場所によって、着るものもちがってくるから、着物も何着かはそろえなくてはいけない。
 西鶴によれば、京都室町にある仕立屋は、腕のいい多くの職人をそろえていた。そのため、人びとはここに絹や木綿の反物を持ちこんで、着物をつくってもらっていたという。このころから、上等の着物の仕立ては家でやらず、だんだん専門の職人にまかせるようになっていたようだ。
 江戸では本町(日本橋本町)に呉服屋が並んでいた。いずれも京都の出店だった。こうした呉服屋の番頭や手代は、得意先の大名屋敷に出入りして、抜け目なく商売をおこなっていた。
 ところが、最近(17世紀半ば)は世の中がせちがらくなり、大名屋敷も入札(いれふだ)で、業者に品物を請け負わせるようになった。そのため呉服屋も、もうけの幅が少なくなった。しかも、当時は掛け売りが一般的だったので、それがこげついてしまう恐れもあった。このままでは、算盤が引きあわなくなり、店の経営がますます苦しくなる、とみんなが心配する矢先のこと。
 そこにさっそうと登場したのが、三井九郎右衛門(正しくは八郎右衛門高平[1653〜1738]、西鶴はわざと仮名にしている)という男だ。伊勢松坂から進出し、豊富な資金力を背景に、天和3年(1683)、日本橋駿河町に越後屋という大きな新店(しんだな)を開いた。
 すべて現金掛け値なしと決め、それぞれ品ごとに専門の手代40人を担当させて、商売をはじめたのだが、これが大評判になった。現金売りだが、ほかと比べて安いし、品揃えが豊富、端切れでも売ってくれるし、急ぎの羽織なども即座に仕立ててくれる。毎日平均150両(いまでいえば1700万円近く)の商いをしている、と西鶴は書いている。
 この主人こそ大商人の手本だ、と西鶴はべたほめしている。三井の越後屋が、現在の三越へつながることは、いまさらつけ加えるまでもないだろう。
ここで「永代蔵」に書かれていないことを示しておくと、三井は銀100貫目(1億8000万円)を投じて、日本橋に「越後屋」を開いたのだという。資金力がなければやれなかったこととはいえ、当時としても大きな賭けである。消費都市、江戸(まもなく人口100万となる)の需要を見込んでいたともいえるが、これだけの大店が出現すれば、ほかのちいさな呉服店はとても太刀打ちできなかっただろう。
 巻1の最後、エピソード5は松屋の後家の話だ。
 松屋は奈良の春日の里で、晒布(さらしぬの)の買問屋(かいといや)を営んでいた。ちなみに、晒布は麻や木綿でつくる反物で(木綿のものが更紗)、奈良の特産品だ。松屋はその晒布を買って、諸国の商人に売る商売をしていた。
 ところが、あいにく、その主人が平生の贅沢と不摂生がたたって、50歳で早死にしてしまう。あとに残されたのは38歳の後家と幼い子どもだった。悪いことに、だいぶ借金も積もっていた。
 器量よしにもかかわらず、後家は再婚せず、髪を短くして、白粉もつけず、懸命に亡き夫の後始末に奔走した。
 借金は銀5貫目(およそ900万円)ほどだった。最初はそれを返済するため、多くの債権者に自宅を引き渡すつもりだった。しかし、だれも受け取ろうとしない。その処理がめんどうだったのと、母子をいきなり追いだすような不人情をしたくなかったからだろう。
 そこで、後家はこの家を頼母子(たのもし)の入札(いれふだ)で売ることにした。1人から銀4匁(約7200円)ずつ受け取って、札にあたった人にこの家を渡すことにした。いまでいう宝くじのようなものだ。
 すると3000枚の札がはいって、後家は銀12貫目(約2100万円)を受け取ることになった。札にあたったのは、人につかわれていた下女で、彼女はめでたくこの家を受け取ることになる。後家はこれで5貫目の借金を払って、残った7貫目(約1260万円)を元手に商売をはじめ、ふたたび金持ちになった、と西鶴は書いている。いわば女性社長の誕生だ。
 これは才覚によって、降りかかる苦難を乗り越える話だ。「永代蔵」には、困ったときの知恵袋のような話が、随所に織りこまれている。

3 カネは日本全国津々浦々に

 西鶴はおカネにまつわる話を、日本全国にわたって、じつにこまめに集めている。感心するほかない。
『日本永代蔵』が出版されたのは元禄元年(1688)だが、その話は寛文年間(1660年代)のものが多いという。そのころから、日本では商業活動が盛んになり、たたき上げの富豪もあらわれはじめている。それを支えていたのは、安定した貨幣だった。
 巻2のエピソード1は、京都で狭い借屋暮らしをしている大金持ち、藤市(ふじいち)、こと藤屋市兵衛の話だ。ただの倹約の勧めではない。
 世渡りの基本は万事ぬかりないことだ、と西鶴は書いている。
 藤市の特徴は、つねに情報を集めていたことだ。両替屋、米問屋、薬屋、呉服屋の手代から、いつも銭や米の相場、長崎の様子を聞いている。繰綿や塩、酒の相場にも注意を怠らない。そして、それを怠らずメモしていた。
 藤市は京都の室町通御池之町に店をだし、長崎商いで2000貫目(いまでいうと36億円)の財をなした大商人である。
 そのしまつぶりは徹底していた。
 身なりはこざっぱりしていたが、質素だった。絹物もほとんどもたず、紋服もありきたりのもの。野道でセンブリなどをみつけると、これは腹薬になると持ち帰るほど。正月用にぬくもりの冷めた賃餅を目方で買う。冷めたほうが目方が減るというのがその理由だった。
 茄子(なす)の初物も買うのは少しだけ。家の空き地には、もっぱら実用的な草木を植えている。娘も寺子屋に通わせることなく、家で手習いを教え、とうとう京でいちばんの賢い子に育てあげた。親がしまつなのを知って、子も人の世話にならず身の回りのことは自分でする習慣を身につけ、華美な遊びにはまったく染まらなかった。
 正月に客がたずねてきて、藤市に世渡りの秘訣を聞いた。藤市は丁寧にいろいろと教える。客はそろそろ夜食がでるころだと期待する。「そこを出さぬのが長者になる心がけだ」と、釘を刺すところに藤市の本領がある。
 エピソード2は、大津の醤油屋の話。
 大津は北国の物産が集まる船着場である。もちろん東海道の宿場としてもにぎわっていた。その問屋町も豪勢で、客をもてなすために、柴屋町の遊郭から遊女を呼び寄せて、どんちゃん騒ぎしている声が聞こえてくることもある。
 そんなカネがあふれている町で、醤油屋の喜平次は、荷桶をかついで地道に醤油を売っている。その日暮らしの生活だが、世をうらんではいない。銭は天から降るわけでも、地から湧くわけでもないと思って、毎日、一生懸命にはたらいている。
 醤油を売り歩いていると、町のいろんな話が耳にはいってくる。
 関寺町(いまの大津市逢坂2丁目)の森山玄好は藪医者で、ほとんど患者が寄りつかない。しばらくぶらぶらしていたが、とうとう碁会所をはじめたとか。
 馬屋町の坂本屋仁兵衛は、以前は大商人だったが、いまは見る影もなく、母親の隠居銀(いんきょがね)で家族5人、ほそぼそと暮らしているとか。
 船着場のほとり、松本の後家は、娘に黄枯茶(きがらちゃ)の振り袖を着せ、「抜け参りの者にお助けを」と唱えさせて、お伊勢さまをだしに、人から小銭をかすめとって暮らしているとか。
 ほんとうに、いろんな暮らしぶりがあるものだと、きょう集めた話を、喜平次は家に帰っていつも女房に話していた。この女房はよくできた女で、家事万端やりくりをして、大晦日に借金取りがやってくることもなかった。
 ところが大晦日の12月30日の明け方、冬はめったに鳴らない雷が家に落ちて、一揃えしかない鍋釜を打ち砕いてしまうという椿事(ちんじ)が発生する。喜平次は仕方なく鍋釜を買ったが、9匁(1万7000円ほど)借金が残ってしまった。これまで、大晦日に借金を残したことはないのに。
 くわばら、くわばら。雷ほどこわいものはない。
 話はここで終わるのだが、人の好い喜平次には、これからも息災でいてほしい、とだれもが思うだろう。「永代蔵」には大富豪には縁のなさそうな、こんな庶民の話もでてくる。西鶴は、この人物をとおして、にぎやかな大津の町の様子をえがきたかったものとみえる。
 エピソード3は京都大黒屋の息子の話。
 大黒屋は京都でも指折りの金持ちで、米問屋を営んでいた。五条橋を石橋に架け替えるときに、その橋板を譲り受け、それに大黒の像を刻ませた。それが大黒屋という屋号の由来になったという。
 その主人がそろそろ隠居しようと思うころ、長男の新六がにわかにぐれだした。色遊びにうつつをぬかし、半年もしないうちに170貫目(約3億円)もの穴をあけてしまった。手代がなんとか帳尻をあわせて、盆前の決算を乗り切ったものの、その後も新六の道楽はやまない。
 そこで、とうとう勘当ということになった。新六は伏見稲荷門前の借家に身を隠し、わが身を嘆く日がつづいた。年もおしつまった12月28日、風呂にはいっていると、血相を変えた親父さまが突然あらわれたので、ふんどしもつけず、綿入れを1枚引っ掛けて逃げだした。たぶん、大黒屋に借金取りが押し寄せたので、親父の堪忍袋の緒が切れたのだろう。
 江戸に行こうと思っていた。1文もないので、道中苦労したことはいうまでもない。生まれもった才覚で、何とか銭をかせぎだし、餓えをしのぐ。その道中のなりゆきをえがく西鶴の筆はさえている。
 江戸に着いたときは2貫300文(6万2000円ほど)残っていた。日も暮れかかっているのに、宿のあてもない。そこで、新六は東海寺(北品川の禅寺)の門前で一夜を明かすことにした。大勢の乞食がいた。波の音が響いて、眠れないまま、みんなが身の上話をするのを聞くともなく聞いていた。
 だれもが親の代からの乞食ではなかった。ひとりは大和の竜田の里から江戸に出たのだという。江戸にくだって、一旗揚げようと、わずかな元手で酒の店を開いたが、これが大失敗。もうひとりは泉州堺の出身で、芸事で身を立てようとしたが、商売にならなかった。さらに別のひとりは江戸の生え抜きで、日本橋に大きな屋敷をもっていたが、何せカネを使うことしか知らず、そのうち自分の家まで売ってしまい、乞食になったという。
 話を聞いて、新六も身につまされるばかり。親に勘当された身を語った。それにしても、これから江戸で生きていくにはどうすればよいか。カネがカネを生む世の中、元手がなくては商売もはじめられない。新六は話を聞いたお礼として、3人の乞食に300文(約8000円)ずつやって、たまたま知るべがあった伝馬町の木綿問屋を訪れ、それまでの事情を正直に話した。
 すると問屋の主人は同情してくれて、江戸でひと稼ぎするよう励ましてくれた。そこで、新六はまず木綿を買いこみ、手ぬぐいの切り売りをすることにした。縁日に目をつけ、下谷の天神(寛永寺黒門近くにあった牛天神)に行き、手水鉢(ちょうずばち)のそばで売ったら、参詣の人が縁起をかついで、よく買ってくれた。
 そんなふうに毎日工夫して、商売をつづけていたら、10年たたないうちに5000両(約5億円)の金持ちとなり、町の人からも尊敬を集めるようになったという。店ののれんには菅笠をかぶった大黒が染められていた。これが江戸の笠大黒屋のはじまりになった、と西鶴は話を結んでいる。
 大金持ちの息子から、勘当されて乞食どうぜんの身に、そしてまた大金持ちに。人生どんなふうに転がるかわからないものだ。世をうらんでも仕方ない。けっきょく、自分で自分の道を切り開くしかないのだ、と西鶴は主張しているようにもみえる。
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