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西鶴『日本永代蔵』をめぐって(まとめ2) [商品世界論ノート]

4 紀州太地と庄内酒田

 巻2のエピソード4。
『日本永代蔵』がおもしろいのは、大坂や江戸にかぎらず、日本全国にわたる商いの様子が、まるで週刊誌ルポのようにえがかれているところにある。
 場面は紀州の太地(たいじ)村に移っている。
 ここに鯨(クジラ)突きの名人で、天狗源内という人がいた。沖で鯨が潮を吹いているのをみかけると、船をこぎだし、一の銛(もり)を打ちこんで、風車の旗印をかかげたので、人びとはまた源内の手柄を知ったという。
 鯨を一頭とれば、ことわざにあるように七郷(ななさと)がうるおった。しぼった油は千樽を超え、その肉、皮、鰭まで利用できないところはなかった。源内はさらに徹底し、鯨の骨を砕いて、油をとることも忘れなかったという。これはおそらく貴重な脳油のことだろう。
 もともと浜辺のみすぼらしい家に住んでいた源内も、いまでは檜づくりの家を建て、その長屋に200人あまりの漁師をかかえている。
 ありていにいえば、ここでは鯨は海の稀少な巨大生物というより、貴重な商品として扱われている。だから、源内は鯨を見つけると、天狗のように飛んでいって、一番銛をつける。
 西鶴のいうように鯨の体はすべてにわたって利用される。肉や皮、内臓が食用になったのはいうまでもない。骨は工芸品の材料にもなった。ヒゲは釣り竿やゼンマイ、指物に加工された。油は灯油などに用いられた。腸内からとれる竜涎香(りゅうぜんこう)は香料として珍重された。肥料としても使われている。要するに、あますところなく商品化されていた。鯨はカネになる生き物だったのである。
 西鶴はさらにこんな話も紹介している。
 西宮の恵比須神社で開かれる正月10日の例祭(十日戎)に、源内は持ち船を仕立てて、かかさず参るのを20年この方、恒例としていた。
 ところが、いつもは朝早く参るのに、この日は、前日飲み過ぎたのがたたって、暮れ方の参拝となった。もう帰る人ばかりで、神主も賽銭を数えるのに忙しく、神楽を頼んでも、じつにおざなりにすませた。
 源内はすこし腹が立ったが、遅く参拝したのだから仕方ない。ともかく末社までお参りをすませて、船に戻った。疲れがでて、いつのまにか寝てしまった。
 その夢枕に恵比須さまがでてきて、なんと鯛を生きたまま運ぶ手立てを教えてくれたのだ。それは鯛のツボを針で突いて、眠らせる方法だ。これによって、生船(いけふね)で、鯛を殺さずにどこまでも送ることができる。こうしたやり方で、源内はまた大儲けすることになったという。まずは、めでたいというところだが、まさか恵比須さまがこれを教えてくれたとも思えない。むしろ、源内の工夫が際立つ物語である。
 エピソード5は、一転して山形の酒田に場面が移る。
 日本海に面し、最上川河口に位置する酒田は、江戸時代、北前船の寄港地としてにぎわっていた。
 鐙屋(あぶみや)は、その酒田を代表する廻船問屋で、現在もその屋敷が残っている。鐙屋という名前からは、もともと馬方が宿泊する宿だったことがうかがえる。その宿に、次第に舟方も泊まるようになったのだろう。
 西鶴も、鐙屋はもともとちいさな宿屋をしていたのが、万事行き届いているので、諸国から多くの商人が集まるようになったと書いている。そして、鐙屋は、そのうち米や紅花などの買問屋も営むようになった。
 問屋が失敗するのは、商品が売れると見越して、無理な商いをするからだ。その点、鐙屋は堅実で、客の売り物、買い物をだいじにし、客に迷惑をかけることもなく、たしかな商売をつづけている、と西鶴は観察している。
 カネ(貨幣)の流通と、もの(商品)流通は連動している。日本海と瀬戸内海を往復して、北国・出羽(のちには北海道まで)と大坂を結ぶ北前船の西廻り航路は、寛文12年(1672)に、河村瑞賢によって開発された。
 これによって、出羽、北陸の米が安全かつ容易に大坂に運ばれるようになった。さらにその航路は、すでに開発されていた江戸に向かう東廻りと連結し、これにより江戸時代初期に、本州を一周する航路が完成した。
 当初の目的は、大坂と江戸に年貢米を輸送することだった。だが、輸送されたのは米だけではない。商品の数や量がどんどん増えていった。
 暉峻康隆は解説で、こんなふうに書いている。

〈最上・庄内地方の米はもとより、紅染(べにぞめ)になくてはならぬ山形特産の紅花をはじめ、内陸の特産品は、酒田を通じて千五百石・二千石積みの堅牢な北前船で大坂へ運ばれ、上方からは木綿・砂糖・古手[使い古しの着物や道具]などの雑貨が、これまた酒田を通じて東北各地へ運び込まれるようになった。瑞賢の開発によって、東北地方や日本海沿岸の各国の物産は、上方相場で取り引きされることになり、地域経済の壁を破ることができたのである。〉

 交易の発展は、商業の中心地と地域を結び、地域の発展を促していく。江戸時代のはじめには、そんな好循環がはじまっていたのだ。
 酒田はそんな日本の流通を担う北前船の一大寄港地だった。その数は天和(てんな)年間(1681〜83)で、毎年、春から9月までで3000艘におよんでいたという。
 鐙屋は北前船の交易にたずさわる商人に宿を提供するところから出発し、買問屋として商人の欲しがる物品を集め、それを売ることによっておおいに繁盛した。
 その経営者はどんな様子かというと「亭主は年中袴(はかま)をはいて、いつも小腰をかがめ、女房は絹の衣装を着て居間を離れず、朝から晩までにこにこして客の機嫌をとり、なかなか上方(かみがた)の問屋などとはちがって、家業を大事にしている」。
 西鶴は、ここに人当たりのよさに加えて、並々ならぬ才覚と度胸をもつ商人の姿をとらえたのだった。

5 人生は変転きわまりない

 巻3の最初のエピソードは、貧病の苦しみをなおす治療法について。
 ある金持ちがこう教えてくれた。早起き、家業、夜なべ、しまつ。そして、健康に心がけること。何よりも家業(与えられた仕事)にはげむことがだいじだ。
 しかし、次のものは毒になるので、気をつけなければならない。それは美食、好色、ぜいたくな着物。乗り物での女房の外出、娘や息子の稽古事。俳諧、茶の湯道楽、花見、夜歩き、博奕、碁、町人の剣術、寺社参詣、諸事の仲裁と保証人、新田開発や鉱山事業への出資、食事ごとの酒、たばこ、観光、役者遊びと廓通い、高い利息での借金、その他もろもろ。
 たしかに、これらを断てば、カネはたまりそうである。
 これを聞いた文無しの男は、まず江戸は日本橋の南詰めに1日立って、人の群れを観察してみることにした。橋には祭でもないのに大勢の人が行き交いし、大通りも往来の人であふれている。だれか財布でも落とさないかと目を皿にしてみていたが、そんな人はいない。なるほど、カネを稼ぐのは容易ではないと、いまさらながら男は気づいた。
 元手がなくてもかせげる仕事はないかと思案しているうち、ある日、男は大名屋敷の普請を終えた大工の見習い小僧たちが、かんなくずや檜の木っ端をぽろぽろ落としていくのに気づいた。それを拾っていくと、ひとかたまりの荷物ができた。ためしに売ってみたところ、手取りで250文(7000円たらず)になった。
 足もとにこんな金もうけの種がころがっていたとは、と男はびっくり。それから、木屑や木っ端を集めつづけた。雨の日には、木屑を削って、箸をつくり、須田町や瀬戸物町の八百屋に卸売りをするようになった。それが箸屋の由来。

 こうして、この男、箸屋甚兵衛は、しだいに金持ちになり、ついには材木屋をいとなみ、材木町に大きな屋敷を構えるようになったという。持ち前の度胸で、手堅く材木を売り買いして、わずか40年のうちに10万両(108億円)の財産を築いたと伝えられる。
 そして70歳をすぎてからは、それまでの木綿着物を飛騨紬(ひだつむぎ)に替え、江戸前の魚の味も覚え、築地本願寺にも日参し、木挽町の芝居を見物し、茶の湯をもよおしたりして、余生をすごした。
 人は若いときに貯えて、年を寄ってから人生を楽しみ、人にほどこすことが肝心だ、と西鶴は教える。カネはあの世にはもっていけない。しかし、この世でなくてはならないものはカネというわけだ。
 ここには徒手空拳から富を築き、晩年はゆっくり思いのまますごすという、いわば町人の理想がえがかれている。箸屋の場合は、木材の売り買いに致富のきっかけをつかんだのである。
 エピソード2は豊後の府内(いまの大分市)に実在した富豪、万屋(よろずや)の話だ。
 万屋の家督を継いだ三弥は、新田を開墾し、菜種を植えたところ、これが大成功して、大金持ちになった。灯火に使われた菜種油は当時の大ヒット商品である。
 ところが、この三弥、京都の春景色を見物にいったあたりから、だんだんと遊興の味を覚えるようになった。豊後に戻ってくるときには美しい妾を12人連れてきた。屋敷を新築して、ぜいたくのかぎりをつくし、冬の朝は優雅に雪をながめ、夏の夕涼みには多くの美女をはべらせて、扇で風を送らせるという日々。
 店をまかせていた古参の手代が亡くなると、三弥のぜいたくはますますエスカレートするばかり。これではおっつけ暮らしも立たなくなるだろうと周囲もやきもきしていたところ、案の定、ある年、収支に不足が生じ、それからしだいに穴が大きくなっていった。そして、ついには罪をおかし、殿様からとがめられ、命まで失うことになった、と西鶴は書いている。
 じっさい、豊後では、こういう事件があったらしい。本書の注には、万屋の3代目、守田山弥助は、藩主日根野吉明(ひねの・よしあきら)によって、正保4年(1647)10月、密貿易や奢りのかどで、一族5人とともに誅されたとある。
いったい何があったのだろう。その真相はわからない。興味をそそられる。
幕藩体制は商品世界の広がりになかば懐疑的だったと思われる。参勤交代がおこなわれ、武士が都市に集住する時代においては、武士政権を維持するには、年貢の米を正常に換金化することが欠かせなかった。しかし、それ以上に商品世界が広がることには、むしろ懸念をいだいていた。三井や鴻池、住友のように幕府や藩に仕える商人とちがい、カネの力によって自由に羽を広げようとするブルジョワは、むしろ何かにつけて弾圧しようという傾向が強かったのではないだろうか。
 次のエピソード3は京都伏見の質屋、菊屋善蔵の話。
 伏見には豊臣秀吉の時代、城がつくられ、大名屋敷が軒を並べていた。地震によって城が崩壊して以来、かつてのおもかげはまるでない。いまは荒れ放題で、まばらに家が立つばかり。人びとの暮らしは貧しく、蚊帳なしの夏、布団なしの冬をどうにかしのいでいる、と西鶴は記している。いまの伏見のにぎやかさからみれば、信じられない記述である。
 そんなうらぶれた伏見の町はずれに、菊屋という質屋があった。質屋といっても内蔵(うちぐら)もなく、長持ちに質草をいれてあるといった情けない身上だったが、それでも銀200目(36万円)にも足らぬ元手を回して、なんとか8人の家族を支えていた。
 質をおきにくる人の様子はいかにもわびしい。古傘1本、鍋、帷子(かたびら)、両手のない仏像、肴鉢などを置いて、わずかな銭を借りていく。脇からみていても涙がでるほどだから、質屋の主人は気が弱くてはつとまらない、と西鶴はいう。
 それでも、利息というのはつもるもので、この菊屋の主人は4、5年のうちに銀2貫目(360万円)ほども稼ぎだした。客にたいしては人情のかけらも見せず、神仏を信心することもない。ところが、どういう風の吹き回しか、この男、とつぜん大和は長谷寺の初瀬(はせ)観音を信心しはじめた。寺に通っては、御開帳に大判(86万円)を3度も投じるようになった。
 またとない信心深い男だと寺が大喜びしたのはいうまでもない。質屋の主人が、戸帳(いわばカーテン)がだいぶ痛んでいるので、新しいものを寄進したいと申し出ると、寺は喜んで、古い戸帳の唐織をさげ渡した。
じつは、この戸帳は金襴の唐織で、室町時代以前の古渡りだった。男はこれを茶壺の袋や表具切れとして売りさばき、しこたま儲けたという。さては、信心の狙いはここにあったのか、と町の人はしきりにうわさした、と西鶴は書いている。
 ところが、いったんは大金持ちになったものの、観音様の罰があたったのか、菊屋はその後、没落し、晩年は伏見の船の発着所で、焼酎や清酒を小売りしてくらす身に成り下がったという。甘口にせよ辛口にせよ、今の世の中、人はそうそう酔わされなくなった、と西鶴は結ぶ。
 寺の戸帳をだましとって、売り飛ばすようなまねをするから、仏罰があたったのだ、と西鶴がいいたいわけではない。むしろ西鶴は、寺の戸帳に目をつけた質屋の才覚をたたえているようにもみえる。
問題は大儲けしたあとである。男は一時のカネに目がくらんで、商売そっちのけで遊蕩に走ったのかもしれない。あるいは気が大きくなって、妙なものをつかんだのか。いずれにせよ、店をつぶしてしまった。
日ごろの家業をおこたることなかれ、持続的な商売のネタ(商品)なくしてカネは手にはいらない。一発勝負だけではだめ。西鶴が訴えたかったのは、むしろそのことだったにちがいない。
 エピソード4は高野山に縁がある。
 大坂の今橋筋に、けちで評判の金持ちがいた。この男は独身で、男盛りに何一つおもしろいことをすることもなく、57歳で死んでしまった。残された財産は供養のため寺に奉納されたが、そのカネが回りまわって世間を潤すようになったのは、なによりもの功徳だった、と西鶴は皮肉っている。西鶴は信仰による救済より、あくまでも現世的幸福を求める立場を支持している。
 金持ちになるには、持って生まれた才覚のほかに、幸運の手助けがなくてはならならない。ずいぶん賢い人が貧乏しているのに、愚かな人が富み栄えていることが多いのはそのためだ、と西鶴はいう。神仏を信じても、金持ちになるとはかぎらない、ともはっきり書いている。
 しかし、贅沢ざんまい、遊蕩ざんまいで、カネにしまりがない人は、いくら財産があっても、そのうち破産することはまちがいない。こういう跡継ぎをもつと家は不幸だ。そんなときには、前もって何らかの対策をとっておく必要がある。
 破産の規模はいろいろで、その清算の仕方もいろいろだ。ある人は11貫目(約2000万円)の借銀で破産したが、その負債にあてる家財は2貫500目(270万円)ほどしかなかった。これをどうわけるかで86人の債権者が連日連夜寄り集まって話し合いをもった。しかし、話がなかなかまとまらず、集まってはうどんやそば、酒、肴、その他さまざまな菓子をとっているうちに、半年するうちに、残ったカネもすっかりなくなったという笑える話もある。
 大坂や江戸ならともかく、大津で1000貫目(18億円)もの負債をかかえて、倒産した家があったというので評判になった。100貫目借りるのも容易ではないのに、よく1000貫目も借りていたものだと、世間ではびっくりすることしきりだったという。
 これとは反対に、じつに律儀に借金を返そうとした人もいた。大坂の絵の子島(現在の大阪市西区江之子島)に伊豆屋という金持ちがいたが、破産したため、みなに頭を下げ、残った全財産を債権者に渡した。その額は負債の6割半だったという。それくらい渡せば、残りの借金はふつう帳消しになる。
 だが、その男は律儀で、故郷の伊豆に帰ると、一生懸命にはたらいて、しこたまもうけ、また大坂に戻ってきた。そして、借金の残りを返したのだが、倒産してからすでに17年もたっていたため、関係者も行方知らずになったり、亡くなったりしている人も多かった。子孫の絶えている人もいたが、伊豆屋はその分の銭を高野山に奉納して、石塔を建て、借銭塚と名付けて、その菩提をとむらったという。
 寺がでてくるのは最後である。
 巻3のエピソード5。
 駿河府中(いまの静岡市)の本町にあった呉服屋の菱屋は、かつては繁盛し、大店をいとなんでいた。安倍川紙衣(かみこ[防寒などに用いた紙の衣])に縮緬皺や小紋をつけて売りだしたのが評判を呼んで、30年あまりのあいだに千貫目(18億円)の身代を築いた。
 ところが、息子の忠助はまるで無能、収支も決算もせず、帳面もつけないというだらしなさで、店はたちまち倒産してしまう。いったいにカネ儲けはむつかしく、減るのも早いものだ、と西鶴は書いている。努力なくして、カネはたまらぬものだ。しかし、ただの努力だけでも、カネはたまらぬだろう。商品を買う人が減れば、カネは逃げていくからである。紙子がいつまでもよく売れたとは思えない。
 その後、忠助は浅間神社(現在の静岡市葵区にある)の前の町はずれで、借家住まいをする身となった。親類縁者も寄りつかず、かつての手代も音信不通となり、悲しい日々を送っていた。
 かといって、はたらくわけではない。小夜(さよ)の中山にある峰の観音にお参りに行き、「もう一度長者にしてくだされ」と願って鐘をつくのがせいいっぱい。そんな男を観音さまが助けてくれるわけもない。
 しかし、さすがに何もしないのでは、日々のくらしが成り立たない。そこで忠助は竹細工の名人に習って、鬢水(びんみず[髪油])入れや花籠をつくって、13歳になる娘に町で売らせ、生計を立てていた。
 ところが、あるとき、伊勢参りから帰る江戸の豪商が、たまたまこの娘を見初めたのだ。そして、ぜひ息子の嫁にしたいと親元にやってきた。こうして忠助夫婦は娘ともども江戸に引き取られ、わが子の世話になる仕合わせな身の上となったという。まさに、ことわざにいうとおり、「みめは果報のひとつ」だ、と西鶴は結んでいる。
 ほんとうにこんなことがあったのだろうか。しかし、貧乏な家の娘がスカウトされて有名なタレントになるという話は、いまでもありそうだから、あながちなかったともいえない。
 人生はまさに変転きわまりない。カネがカネを生む世の中で、人は翻弄される。そのなかで、人生はしょせん一代かぎり、男も女も与えられた運をしっかり見定め、みずからの才覚で自分の道を切り開いていかなくてはならない、と西鶴は諭しているようにもみえる。

6 信心と商売繁盛

 巻4にはいっている。
 エピソード1は桔梗屋(ききょうや)という京の染物屋の話だ。
 正直一途に商売に励んできたが、そのかいもなく貧乏暮らしがつづいている。
 あるとき、やけをおこして、わら人形で貧乏神をつくり、これを神棚に祭って、元旦から七草まで精一杯もてなすことにした。
 貧乏神でも家の神さま。毎日、仕事があって、食べていけるのも、そのおかげ。
 めったにないもてなしを受けた貧乏神は大喜び。七草の夜に、亭主の夢枕に立って、しきりに感謝を述べ、この家を繁盛させてやると約束した。
 しかし、あの貧乏神がこの家を繁盛させてやると告げたわけは何だろう。桔梗屋は考えた。染物屋として、何か工夫できることがあるのではないか。
 染めといえば紅だ。紅染めは山形の紅花で染めた本染めがいちばんだが、値段が高い。もっと安くできないものか。
 そこで桔梗屋はいろいろ工夫を重ね、蘇芳(すおう)で下染めし、それを酢で蒸し返すと、本染めと遜色のない中紅(なかもみ)ができあがった。
 桔梗屋は染めあがった品物をみずから担いで江戸に下り、本町の呉服屋に売りさばいた。しかし、手ぶらでは帰らなかった。京に戻るさいには、奥州(おく)の絹と綿を仕入れて、それを京で売った。こうした商法をのこぎり商いというそうな。
 いまでは桔梗屋は一家75人を指図する大旦那となり、長者町(いまの上京区仲之町)に大屋敷を構えるまでになった。桔梗屋甚兵衛は延宝9年(1681)に亡くなっている。西鶴の話は、どれも実際にあったことだ。
「金銀は回り持ち、その気になって稼げば、たまらぬものでもない」と、西鶴は書いている。
 巻4のエピソード2。
 近ごろは天気も予測できるようになり、航海もかなり安全になった。中国や朝鮮との貿易も盛んになっている。しかし、どちらかというと中国人が実直で口約束をたがえるようなことをしないのに、日本人は目方をごまかして不正な取引をしようとする輩が多い、と西鶴は率直に記している。
 今回は筑前博多の商人の話だ。このところ不運なことに1年に3度まで嵐にあって貨物を失い、すっかり元手をなくしてしまい、家でぼんやり暮らしている。
 あるときのことだ。ふとみると、クモが杉の梢に糸を張ろうとしている。外は強い嵐。クモの糸はたちまちちぎれてしまう。だが、何度失敗しても、クモは糸をくりだし、ついに巣をつくりあげた。男はそれに心打たれた。「気短にものごとを投げだしてはいけない」と思い、家屋敷を売り払い、それを元手として、ひとり長崎にくだった。
 ようやく伝手を見つけて、長崎博多町の入札市にはいりこみ、舶来の唐織や薬、鮫皮[刀の鞘に用いる]、諸道具に出合った。買えばもうかるとわかっている。だが、それを買うだけの資金がない。みすみす京や堺の商人に品物をさらわれてしまった。
 やけになった男は、丸山の遊郭にでかけた。昔はぶりのよかったころに出会った花鳥という太夫を揚げて、一夜かぎりの遊びおさめにしようと思ったのだ。
 花鳥の部屋にあがる。だが、そこに立てられている枕屏風をみているうちに、そのみごとさに見とれてしまった。よくみれば、ほんものの定家の小倉色紙が6枚も張ってあるではないか。
 それから男は明け暮れ花鳥のもとに通いづめ、すっかりなじみになり、ついにその屏風をゆずってもらうことに成功する。男はそれを持って上方におもむき、さる大名にこの古屏風を献上して、かなりのカネを下げ渡された。それを元手として、ついには長崎でも知られる金屋(かなや)という大貿易商になったという。
 これだけなら、遊女をだましてカネもうけした悪い男の話で終わってしまう。だが、西鶴は男が花鳥を身請けして、思う男のところに縁づけてやったという逸話をつけ加えている。遊女も「このご恩は忘れませぬ」と、男に感謝したという。これなどは、回りまわって、カネが人を救う話になっている。もちろん、その逆もおおいにありうることだが。
 エピソード3に移ろう。
 伊勢神宮は元禄以前から庶民の参拝でにぎわっていた。日本人が無宗教というのはうそだ。むしろ神頼みの傾向が強い、と西鶴も指摘している。
 伊勢では太々神楽(だいだいかぐら)の奉納金は宝の山のよう、大願成就の祈祷料も絶えることがない。参詣人の案内や宿をつかさどる御師(おし)も年じゅう忙しく立ち回っている。土産物屋も大繁盛している。
 これはおそらく1680年ごろの話だが、日本ではこのころすでに貨幣経済が発達し、経済活動と信仰(宗教)とのかかわりが強くなっていた。不安定な貨幣社会のなかで、富貴と一家繁盛を願う気持ちが、宗教の否定に向かうのではなく、かえって信仰を強めていったことがよくわかる。観光とも結びついた伊勢参りはその象徴だった。
 伊勢には内宮と外宮のあいだに、間(あい)の山という坂があった。そのあたりにはお杉とお玉という路上女芸人がいて、三味線で「間の山節」を唄って、参宮者から銭を集めている。
 あるとき、御師の案内でここにやってきた江戸の町人が、山田(宇治山田)で用意した新鍮の寛永通宝200貫文(約540万円)を50町(約5キロ)にまきちらしたので、豪勢なことだと評判になった。
 この町人は江戸の堺町(日本橋人形町)で分銅屋(ふんどうや)という両替商を営んでいた。堺町は芝居見世物の町だ。分銅屋は芝居や見世物の木戸銭を両替して、その手数料で稼いでいた。それがたまりたまって、35年のうちに7000両(約7億5000万円)の身代を築いたのだ。
 明暦3年(1657)の大火で、江戸の町は大半が焼失したが、ほどなく復興した。
 西鶴はこう書いている(暉峻康隆訳による)。

〈酒屋は杉の葉を束ねた看板を元どおり門(かど)に掛け、本町の呉服店もそれぞれ錦を飾り、伝馬町の絹屋や綿屋も元と同じ店つきで、佐久間[大伝馬町]の表通りは相変わらず各種の紙屋が軒をならべている。舟町の魚市、米河岸の米の売買、尼店(あまだな)の塗物問屋など、通り町の繁盛はこのご時世なればこそである。〉

 にぎやかな様子がうかがえる。
復興は早かった。商売替えをした人は、ほとんど見当たらなかった。そして、焼けだされた職人たちも、まもなく戻って家業を再開し、日雇い人足や山伏、膏薬(こうやく)売りもまた集まってきた。
 分銅屋が伊勢参りをして、間の山で銭をまきちらしたのは、江戸日本橋の復興を加護してくれた「お伊勢さま」に感謝してのことだったにちがいない。
 商売は信用と信心ぬきには成り立たなかったのである。

7 カネと狂気、そして商人道

 巻4のエピソード4。
 カネが人を動かす時代はいつからはじまったのだろう。それは貨幣が日常生活に欠かせないものになってからのはずだから、元禄のずっと以前、遅くとも室町時代、おそらく鎌倉時代末期からだったにちがいない。
 西鶴は同時代の人とカネの世相を、日本全国にわたってあますことなく記そうとしている。
 この回には越前の敦賀が登場する。北国の都、敦賀には毎日の入り船があって、さまざまな問屋が建ち並び、「ことに秋になると市の仮小屋が建ち続いて、目の前に京都の町を見るようににぎやかである」と、西鶴は書いている。
 その町に小橋(こばし)の利助という独り者の男がいた。恵比須さまの格好をして、荷をかつぎ、茶を売り歩いていた。恵比須の朝茶はいかが、とふれ歩いたので、縁起がいいと評判になり、よく儲かっていた。
 そのうち煎茶の店もだすようになり、多くの手代をかかえて問屋までやるようになった。しかし、だんだん利に目がくらみ、飲み茶に茶殻までまぜるようになったので、一気に店の評判を落としてしまった。
 利助はそのあたりから狂いはじめる。顔つきは青鬼のようになり、家じゅうを飛び回り、気を失ったかと思うと、またよみがえり、カネにしがみついた。奉公人たちは利助を部屋に閉じこめることにした。てんでに護身用の棒をもって台所に集まっていたところ、2、3日して物音がしなくなった。そこで、部屋をのぞいてみると、利助は金銀にかじりついて、目を見開いて死んでいた。
 町は、死んだはずの利助が掛け売りの代金を集めにきたという幽霊話でもちきりになった。利助の財産は気味悪がって、遠い親類も受け取ろうとしない。そのため、菩提寺が引き継いだが、その和尚は京都にのぼって、それを役者遊びにつぎこんでしまったという。カネの運命はまことにはかない。
 何が利助を狂気に追い込んだのだろう。西鶴は利助がカネ儲けに執着するあまり悪事に走ったことが原因だと示唆している。だが、真相はわからない。どこかで利助の歯車が狂ってしまったのだろう。こういう稼業の浮き沈みにともなう精神の変調は、現代でもよく聞く話である。
 当時のあくどい稼ぎ方として、西鶴は次のような例を挙げている(暉峻康隆訳)。

〈はじめから流すつもりで質入れしたり、さまざまな偽物をつかませたり、騙りとぐるになって持参金つきの女房をもらったり、寺々の祠堂銀[貸付金]を借り集めておいて計画的に破産してすませたり、博奕(ばくち)打ちの仲間入りをしたり、いかさま薬を売り歩いたり、朝鮮人参の押し売り、美人局(つつもたせ)、犬殺し、もらい子殺し、さては溺死人の髪を抜き取って髢屋(かもじや)に売るなど……〉

 手口はちがえど、偽物販売から計画倒産、結婚詐欺、ぼったくり、オレオレ詐欺にいたるまで、カネをめぐる犯罪は、いまも後を絶たない。
 巻4最後のエピソード5では、これと打って変わって、実直な商人道が示される。場所は大坂に接した堺の町だ。
 正月はどの家も相応の支度をする。餅をつき、台所の肴掛けにブリやキジをならべ、薪(たきぎ)置き場に薪を積み重ね、土間には米俵を積んでおく。そして支払いは12月20日までに片づけ、そのあとは貸金を取り立てるばかりになる。
 ところが、年末にはとかく物の値段があがる。ある年、伊勢エビと橙(ダイダイ)が高騰した。大坂でも伊勢エビが銀2匁5分(約4500円)、橙が7、8分(約1300円)にもなったことがある。
 堺の樋口屋(ひのくちや)は、このとき、高価なものを飾っても天照大神(てんしょうだいじん)はお喜びになるまいと、伊勢エビの代わりに車エビ、橙の代わりに九年母(くねんぼ[ミカンのようなもの])を飾ってすませた。堺の町衆も感心して、この新趣向にしたがった、と西鶴は書いている。
 樋口屋は世渡りに油断なく、むだ使いをしたことがない。算盤を忘れず、家計をつましく、見かけはきれいにし、物事に義理がたく、しかも優雅である。若いときは苦労して働き、老後は安楽に暮らすことをモットーにしている。
 ある夜更け、樋口屋の戸をたたいて、酢を買いにきた人がいる。下男が「おいくらほど」と聞くと、客は「お手数ながら一文(30円)ほど」という。すると、下男はめんどうになり、「本日は閉めておりますので、あすにでもおこしください」といって、客を追い返してしまった。
 たまたまこのやりとりを聞いていた主人は、翌朝この下男を呼んで、門口を3尺(1メートル)ほど掘れと命じた。
 下男は諸肌ぬぎになって、汗水を垂らしながら、鍬(くわ)で地面を掘る。
「どうだ、銭はでてきたか」と主人が声をかける。
「いや、小石と貝殻だけです」と下男。
 これを聞いた主人はさとす。
「これだけ骨を折っても、銭一文も手にはいらないことがわかっただろう。これからは一文商いもだいじにしなさい」
 主人は家業をまじめに勤めることがいかにたいせつかを説いた。さらに、借金があれば、毎日のもうけのなかからその分を取り置いて、まとめて月の返済にあてること、小遣い帳をつけてむだな買い物をしないこと、それからよほど困ったときは外聞にかまわず思い切った処理をして、また一から出直す覚悟をすることなどを下男に教えたという。
 西鶴は、堺では成金はまれで、親から二代、三代とつづけて、堅実な商売をしていると絶賛する。
 さらに、こんなふうに書いている(暉峻康隆訳)。

〈専売業の朱座は落ち着き[朱の取引を独占していた]、鉄砲屋はお上の御用商人だし、薬屋仲間もしっかりしていて、長崎の問屋へ支払う為替銀をよそから借りるようなことがない。世間体はひかえめに構えているが、またあるときは人まねのできないこともしてのける。〉

 しかし、こうした堺の繁栄がいつまでもつづかなかったことを、西鶴はまだ知らない。港としての機能が次第に失われたことが、商業都市、堺の経済基盤を押し流していったからである。
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