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ブッダは何を語ったのか [本]


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 馬場紀寿著『初期仏教』(岩波新書)を読む。むずかしいところは飛ばし読み。
 例によって、年寄りのわがままな読書だ。
 ブッダは何を語ったのか。そこだけを取りだし、勝手なまとめをしてみる。

(1)まずは贈与しなさい。
  贈与には功徳がある。ブッダはとくに出家教団への贈与を勧めた。しかし、より一般的にいうと、これは人に与えなさいということだ。

(2)次は、正しい生活習慣を身につけなさい。
  ブッダは五戒を説く。

  不殺生戒 殺生するなかれ
  不偸盗戒 泥棒するなかれ
  不邪淫戒 邪淫するなかれ
  不妄語戒 妄語するなかれ
  不飲酒戒 飲酒するなかれ

 この(1)と(2)が守れるなら天界に再生することができるらしい。妄語と飲酒の癖が抜けないぼくは、だめかも。

(3)輪廻の思想。
 言動の結果は、かならずみずからにはね返ってくる。すなわち自業自得。
 十の悪行(五戒に加え、虚言、中傷、駄弁、敵意、よこしまな欲求、誤った判断など)をなすと、将来かならず苦におちいり、十の善行をなすと、将来かならず楽をもたらす。
みずからの心をただすことによって、みずからの行為をただすべし。
これを個の自律という。仏教は個からはじまる。
 しかし、悪行の人が、いつまでも傍若無人にふるまっているのは、どうしてなのか。それが、ぼくにはよくわからない。

(4)生まれによって人間の貴賤は決まらない。
 この世において、最上の者は、身分の高い者ではなく、解脱した者である。

(5)理想の王(転輪王)とは、刑罰や武器によってではなく、法によって大地を統治する者を指す。王が十の悪行にふければ、人びとが殺しあう「武器の時代」がやってくる。
 いまはまた、そんな時代に向かっているのだろうか。

(6)人は五感[感覚]と心[意識](六処)を有する存在として、世界に接している。自己という主体は存在しない(非我説)。それらはわずかな契機で崩壊するからである。

(7)人は5つの能力(五蘊[ごうん])をもつ。すなわち身体力(色)、知覚・感覚力(受)、把握力(想)、行動力(行)、認識力(識)。こうした能力は私のものであって、私のものではない。これもまたわずかな契機で崩壊する。

(8)赤子として生まれ、老い、病に倒れ、死んでいくのは、人の必然である。生存は常に統御不能な危うい状態にあり、生死の必然は自己の意思や願望ではどうにもならない不条理である。そこから苦が生まれる。

(9)苦は渇望をもたらす。快楽への渇望、生存への渇望(自己の再生産)、そして無生存(死)への渇望(死への欲動)、さらに再生への渇望。渇望は執着だといってもよい。こうした自己を動かすのは人そのものに備わる「無知」である。渇望は否定されるわけではない。だが自律は必要だ。

(10)しかし、いずれ涅槃(ねはん)、すなわち消滅のときがやってくる。そのとき六処も五蘊もなくなり、渇望の火も消える。

(11)現世で涅槃を経験すれば、不死の門が開かれる。そのためには渇望と執着を停止し、それによって苦を滅しなければならない。もはや快楽を求めず、将来を思いわずらうこともなく、知識を追いかけることもない。それが解脱である。

(12)死後のことはわからない(無神論)。天界への再生よりも、現世での涅槃をめざすべきである。欲望の追求も苦行も苦の停止をもたらさない。よい習慣を身につけ、心を集中して、叡智を得て、出家し、解脱することが求められる。世間との関係を断ち、無所有になり、渇望を捨てること。それこそが崇高な生き方である。

 残念ながら、正直いって、現世での涅槃という考え方は、ぼくにはわからない。それは教団(サンガ)という組織のもたらす幻想ではないかと思ってしまう。
 だが、ブッダがすばらしいのは、涅槃(死)によって人が完成するという逆説を唱えたところにある。涅槃に向けて、人は歩む。そして、だれもが涅槃に達することができる。それは、これまでにない救済の思想だった。
 最近、母親や親しい友人を次々と亡くしているので、よけいにそんなふうに考えるのかもしれない。もっとも、ぼく自身はいまだに煩悩の火、消えやらず、「馬鹿は死ななきゃ直らない」の口でありつづけている。

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