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労働の稼得──マーシャル『経済学原理』を読む(18) [経済学]

 ケインズは『人物評伝』のなかで、師のマーシャルについて論じ、かれが晩年に語ったことばを引用している。

〈[大学の]休暇中に私はいくつかの都市の最も貧困な地区を訪れて、最も貧しい人々の顔を見ながら次々に街路を歩いてみた。そのあと、私は経済学についてできるだけ徹底的な研究をしようと決意した。〉

 マーシャルは貧困を克服する手立てとして、経済学を研究しようと思った。それは、マルクスも同様だったかもしれない。だが、マルクスの場合は、社会主義革命こそが、その解決策だった。これにたいし、マーシャルは長期的には資本主義の将来に、楽観的な展望をもつにいたった。
 いっぽう、大恐慌の惨憺たるありさまをまのあたりにしたケインズは、いわばマーシャルの楽観論を念頭におきながらも、かれの「原理」の骨組みを組み替える必要性を感じた。その結果、『雇用、利子、および貨幣の一般理論』(1936年)が執筆される。そこでは、マーシャルの体系からははずされていたマネーと国家が、大きな役割をもつ存在として浮上することになる。
 ここではまだケインズには踏みこまない。マーシャルの分配論をさらにみていくことにしよう。
 今回、まとめるのは分配論のうち「労働の稼得」を扱った3つの章である。
 はじめにマーシャルは、労働の稼得はかならずしも均等ではなく、労働者の能率によって、かなり不均等であることを認めている。
 賃金は時間給(日給、月給)、出来高払い、能率給などによって支払われる。マーシャルは、賃金はほんらい「労働者に要求される能力と能率の行使をもととして算定」されるべきだという立場をとっている。そして、労働賃金を一定の水準に向かわせるのは、経済自由、言い換えれば競争があるからだとしている。
 機械の導入は雇用の減少に結びつきやすい。しかし、雇用を減らしたうえで、賃金も減らすのはまちがっている、とマーシャルは断言する。むしろ、機械を導入しながら賃金を増やしたほうが、生産効率が上がり、製品の単位あたり費用も低下する。かれは「最高の賃金を支払おうとくふうしている実業家こそ最善の実業家である」というモットーに賛成する。
 実質賃金と名目賃金とは区別されなければならない。貨幣の購買力を考慮する必要がある。重要なのは実質賃金である。
 ある人の本来の所得を知るには、粗収入から経費を引いてみなければならない。弁護士であれ、大工であれ、医者であれ、収入から営業経費を控除しなければ、ほんらいの所得は判明しない。
 召使いや店員が、自分で衣服を用意しなければならない場合は、これも経費である。しかし、たとえば、そうした衣服を主人や店主が提供した場合、これを実質賃金に加えるのはまちがいである。逆に、使用者が労働者に、生産した商品の購入を強制する場合は、実質賃金を低下させたことになる。
 個人事業では、成功の度合いは不確実であり、それによって所得は大きく異なってくる。そのため、不安定な仕事より、確実な職種を求める者も多いいっぽう、異常に高い報酬を得られる職種に引きつけられていく者もいる。
 雇用が不規則な職種では、料金は仕事のわりに高くなる。そのことは弁護士や家具屋などをみればわかる、とマーシャルはいう。
 また環境によっては、その収入を主業だけではなく、副業で稼ぐケースもでてくる。家内事業や農業では、家族の稼得を収入の単位とするほうがよいかもしれないとも述べている。
 仕事の選択は、個々人の事情によっても、民族性によってもことなる。低級な仕事にしか適さない人がいるのも事実だ、とマーシャルはいう。そういう人は簡単な仕事に押し寄せ、かえってその職種の賃金を低くする原因となっている。しかし、「こういった種類の労働をするものが少なくなり、その賃金も高くなるようにすることは、他のどんな仕事にも劣らず、社会的に緊要な仕事なのである」。
 このように、マーシャルは、労働者にせよ、個人事業者にせよ、その仕事内容も所得もけっして一律ではなく、大きなばらつきがあるとみているのだ。
 その理由は、おそらく、働き手が扱っている(あるいは生みだしている)、物やサービスからなる商品に関係している。労働者や個人事業主は、その商品が生みだす価値の形成にどれだけ寄与したかによって、その分配分を受け取ると考えられている。同じ労働者や個人事業主にしても、仕事に応じて、かなりの所得のちがいがでるのはそのためだ。
 マーシャルはさらに、賃金のもたらす累積的効果にも注目する。低賃金は労働の質を低下させ、さらにいっそうの低下を招く。これにたいし、高賃金は労働の質を高め、人をより勤勉にさせる。
 いっぽうマーシャルは労働者は機械のように売買できないこと、さらに「労働者はその労働力を売るが、自分自身を売り渡しはしない」と指摘する。
 労働者は奴隷ではない。しかも、労働者の売る能力は、機械以上のものである。
 マーシャルは、労働者の育成には長い時間がかかることを認めている。
 労働者の養育と訓練は、その両親の保護があってこそ可能になる。資力に加えて、先見力や犠牲が、子の将来を支える。
 高い階層の人びとは、将来を考え、子どもたちを養育し、訓練することを怠らない。しかし、下層の人びとは、しばしば子どもたちの教育訓練にまで目がいかぬことが多い。そのため「かれらは能力や資質を十分に開発されぬまま、その生涯を終えてしまう」ことになるのだが、それらが十分に開花し結実するならば、社会にとってどれだけ有益かわからない、とマーシャルは嘆いている。
 問題はこうした弊害が累積的であることだ。「そうした悪循環が世代から世代へと累積していく」ことを何とかして避けたい。
「ある世代の労働者によりよい稼得とかれらの最良の資質を開発するよい機会をもたらすような変化が起これば、かれらはその子供たちによりよい物的および道徳的な利便を与えてやれるようになろう」。それがマーシャルの希望でもある。
 人生における出発のちがいは、職業の選択においても大きなちがいをもたらす。高い階層に生まれた者が有利なことはいうまでもない。熟練工の息子は、非熟練工の息子よりめぐまれているし、家庭でもゆきとどいた世話を受けて育っている。
 学校での教育が終わったあと、労働者に周到な訓練をほどこすのは雇い主である。雇い主は従業員に投下した資本の成果があらわれることを期待する。
「高賃金の労働こそほんとうは安い労働だ」とマーシャルはいう。その影響力はひとつの世代だけで終わらず、次の世代にも永続的な便益を与える。
 所得の大きさは、次の世代の育成にも影響をもたらすというのが、マーシャルの持論だとみてよい。
 労働についての考察は、さらにつづく。
労働のもうひとつの特殊性は、それがかならず場をともなうことだ、とマーシャルは論じている。つまり、場なくして、労働はない。
 労働がおこなわれるのが不快な場所、あるいは危険な場所であれば、それにたいして支払われる賃金は高くなる。また人がしばしば移住するのは、自主的ないし強制的に、新たな仕事場に移ることを余儀なくされるからである。
 このテーマは労働の流動性、もっと大きくいえば人口の流動性に関係してくる。
さらに、労働のもうひとつの特殊性、それは労働力が「保存がきかない」ことだ、とマーシャルは指摘する。俗なことばでいうと、人ははたらかないと食っていけない。労働者にとって最大の災厄は、失業問題である。
 未熟練労働者の場合は、その代わりとなる者は多くいる。そのため労働組合を結成するのもむずかしく、賃金交渉力も弱い。熟練労働者や上流社会の召使いは、未熟練労働者よりも、有利な交渉力をもっている、とマーシャルはいう。知的職業人の場合は、その用役を売る、より優位な条件を備えているといえるだろう。
 一般的に、肉体労働者は交渉において不利な立場にたっている。かれらの賃金は低く抑えられがちだ。その影響は累積的で、かれらの能率を引き下げ(やる気をなくさせ)、さらに賃金を引き下げる方向にはたらいてしまう。
 親は子どもたちを、よりよい職につけたいと願っている。だが、その業種が将来どうなるかを見極めるのはじっさいにはなかなかむずかしいことだ。よいと思って選んだ職種が、そこに人が集まりすぎて、かえって賃金が低くなることもある。逆にそこへの就職が容易でない場合もある。何はともあれ、一般的に、子どもの仕事は、親の仕事の影響を受けることが多い、とマーシャルは書いている。
しかし、労働の需要に対応するように労働の供給が調整されていく事実を見落とすわけにはいかない。労働力の移動が生じるのはそのためだ。
「つまり成人労働力がある業種から他の業種へ、ある職階から他の職階へ、またある場所から他の場所へ移動する」。この移動は、ときに大規模で、急速におこなわれることがある、とマーシャルはいう。
働き手が一人前になり、その力を発揮するまでには長い時間がかかるけれども、その後は仕事場を離れるまで、長くはたらきつづけることになる。その意味で、労働に関する需給関係は「長期」におよぶ。労働を提供した人びとにたいする報酬は、じゅうぶんとはいかないことが多いが、その稼得額は「利用可能な労働のストック、他方、労働にたいする需要」によって規定されざるをえない。
 現代社会において労働者は企業によって雇用されることが多くなっている。そして、資本家的企業者は、経済競争のなかで、事業を拡張し、高い収益を確保するため、従業員を確保し、賃金改定に応じないわけにはいかなくなっている、とマーシャルはいう。
「その結果、一般には、収益の大部分はやがて従業員のほうに配分されていき、かれらの稼得額は繁栄がつづくかぎり正常な水準を上回っていく」。労働分配率が増大することをマーシャルは望んでいたといえるだろう。
 だが、仕事場がなくなると、労働者への需要は減り、実質賃金が低下していく。マーシャルの時代、1873年にイギリスでは恐慌が発生し、20年にわたる不況がつづいていた。

〈1873年に頂点に達した信用の拡張は事業の堅実な基調をうちこわしてしまい、真の繁栄の基礎をそこない、その程度には差こそあれ、ほとんどの産業を不健全で沈滞した状態におとしいれていった。〉

 ジョヴァンニ・アリギ風に超マクロ的展望でいうと、このころ世界のヘゲモニーは、大英帝国からアメリカ帝国に移ろうとしていた。
 1873年以降の長期不況は、イギリスの炭鉱労働者に深刻な影響をもたらした。
 賃金理論についてのマーシャルの結論はこうである。

〈人的なものにせよ物的なものにせよ、生産要因の場合には、その需要はそれを使って製造された商品にたいする需要から「派生」してくる。こういう短期においては賃金の変動は販売価格の変動に付随して起こるのであって、これに先だって起こるわけではない。〉

 その反面、マーシャルは労働力の需要と供給のあいだには、常に正常均衡点に向かう傾向があると論じている。ただし、一国の経済状態はたえず変化しているために、労働力の需給均衡点もたえず移動していく。
 これが何を意味するかは、あらためて考えなおしてみなければならない。

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