ホリールード宮殿──スコットランドの旅(3) [旅]
8月6日(月)
長女のつれあいマテオ君は、雨が降っていないかぎり、毎日ジョギングをします。それはここエディンバラでも変わりません。きょうはなかなか戻ってこないなと思ったら、われわれの滞在するアパートからずっと東側にあるホリールード宮殿裏手の小山まで、ジョギングをしてきたとのこと。じつに往復10キロ。この体力には驚いてしまいます。
そのとき撮った写真だといって、見せてくれたのがこれ。エディンバラの町が一望できます。向こうの丘に立つのがエディンバラ城ですね。
われわれ夫婦は、そのかんアパートの部屋に備えつけられていたミルクとシリアルで食事をすませていましたが、マテオ君はシャワーを浴びてから、息子をつれて、近くのレストランに行き、食事をとります。
そのため、アパート出発は9時半になってしまいました。日本人はせっかちですね。きのうと同じように広い通りに出て3番のバスに乗り、ウェイヴァリー駅近くの終点で6番のバスに乗り換え、午前中の目的地、ホリールード宮殿に向かいます。
車窓から、その途中ハイ・ストリートの光景をiPhoneに収めます。昔のスコットランド連隊の衣装を売っている店でしょうか。頭と頭で駐車している車にはびっくり。
バスが終点に着くと、そこはスコットランド議事堂前。この議事堂が完成したのは2004年で、とてもモダンな建物です。スコットランドでは1997年の住民投票でスコットランド議会が創設されることになり、2000年に実に300年ぶりにスコットランド議会が開かれました。スコットランド独立を求める2014年の住民投票は、けっきょく否決されましたが、その前後の議会周辺はきっと緊迫していたでしょうね。
ホリールード宮殿は、その議事堂の前にあります。
もともとは、1128年にスコットランド王デイヴィッド1世がアウグスティヌス派の修道院を建てたことがはじまりです。その修道院はのちに破壊され、廃墟となりました(写真はあとで)。
ちなみに、われわれはイギリスというとイングランドと同じと思いがちですが、スコットランドには843年から1707年まで、れっきとしたスコットランド王国が存在していました。もっとも、その王朝はアルピン(9〜11世紀)、マリ(11世紀)、アサル(11〜13世紀)、ステュアート(14〜18世紀)と変遷し、途中イングランドに支配された時代もあり、スコットランドは、けっきょく1707年にイングランドに合併吸収されていくわけです。だから、スコットランド独立の動きというのも、それなりの根拠があるわけです。
さて、ホリールード宮殿の話に戻ると、15世紀には歴代のスコットランド国王が、このあたりにゲストハウスを建てて滞在するようになったといわれています。そして、1498年から1501年にかけてジェイムズ4世がここにつくった本格的な宮殿が、いまのホリールードの原型になっています。
一角獣が向かいあっている紋章のある入り口に向かいます。
紋章をもう少しアップしてみましよう。いちばん下にアザミが刻されているのがわかりますね。
その下のラテン語の意味は「われに触りて無事帰りし者なし」という人もいれば、「何人もとがなく我を害せず」という人もいて、ぼくには判断がつきません。いずれにせよ、アザミ騎士団ここにありということでしょうか。
中庭にはいります。写真撮影が許可されるのはここまで。
色鮮やかな花もつり下げられていて、宮殿はよく手入れされています。
いまでもエリザベス2世は、スコットランドに来ると、ここに何日か滞在し、園遊会を開いたり、著名なスコットランド人に勲章を授けたりしているようです。ショーン・コネリーがナイトに叙任された場所も、この宮殿のホールでした。
しかし、何といっても有名なのは、メアリー女王(1542〜1587、在位1542〜1567)ですね。メアリーは1561年から67年まで、この宮殿で暮らしています。
写真が撮影できないので、その寝室をロイヤル・コレクション・トラストの案内からお借りしました。
1566年には、メアリーの夫ダンリー卿が、イタリア人の秘書リッツィオを女王の愛人とみなして殺害するという惨劇も発生しています。
リッツィオは、狭い部屋で女王と食卓を囲んでいたところ、夫のダンリーとその取り巻きによって引きずり出されて、隣の部屋で五十数か所にわたって刺され、殺害されたのだといいます。その小部屋も見学しました。ほんとうに狭い部屋でした。
クロムウェル時代の1650年に宮殿は焼失します。しかし、その後、再建され、チャールズ2世によって改築されたといいます。
ほかに、ここに滞在した有名人としては、1745年のチャールズ・エドワード・ステュアート(1720〜88)、フランス革命で処刑されたルイ16世の弟アルトワ伯シャルル(のちのシャルル10世)がいる、と館内の説明にありました。チャールズ・エドワード・ステュアートは名誉革命で奪われたステュアート家の王位を奪還するため、1745年のジャコバイト蜂起でスコットランドに上陸し、ここホリールードに何週間か滞在したのでした。
この宮殿は、スコットランドとイングランド、そして時にフランスの歴史が交錯する場所といってよいでしょう。しかし、ややこしい歴史の話に、これ以上深入りするのはやめておきましょう。
宮殿の外には廃墟となった修道院が建っています。中世スコットランドで最大規模のこの修道院は1128年にディヴィッド1世によって建てられ、ジェイムズ2世(1633〜1701、在位1685〜88、スコットランド王としてはジェイムズ7世)の時代に破壊されたといいます。ジェイムズは、イギリスでは最後のカトリック王でした。それにたいする反発が、この破壊をもたらしたのだと思われます。
修道院を出ると、庭園が広がっています。ここでは、いまも園遊会が開かれているようです。
われわれはこのあたりでホリールードの見学を終え、またバス停に戻ってきました。前に王室のコレクションを展示したクイーンズギャラリーがありましたが、見学はパスしました。よくみると門の上にかわいいライオンが笏と剣をかざしています。
バスに乗って、ウェイヴァリー駅のあたりまで戻ってきました。このあたり、いかにもイギリスらしい重厚な建物が立っています。高級ホテルといったところでしょうか。
さて、これから昼食です。
長女のつれあいマテオ君は、雨が降っていないかぎり、毎日ジョギングをします。それはここエディンバラでも変わりません。きょうはなかなか戻ってこないなと思ったら、われわれの滞在するアパートからずっと東側にあるホリールード宮殿裏手の小山まで、ジョギングをしてきたとのこと。じつに往復10キロ。この体力には驚いてしまいます。
そのとき撮った写真だといって、見せてくれたのがこれ。エディンバラの町が一望できます。向こうの丘に立つのがエディンバラ城ですね。
われわれ夫婦は、そのかんアパートの部屋に備えつけられていたミルクとシリアルで食事をすませていましたが、マテオ君はシャワーを浴びてから、息子をつれて、近くのレストランに行き、食事をとります。
そのため、アパート出発は9時半になってしまいました。日本人はせっかちですね。きのうと同じように広い通りに出て3番のバスに乗り、ウェイヴァリー駅近くの終点で6番のバスに乗り換え、午前中の目的地、ホリールード宮殿に向かいます。
車窓から、その途中ハイ・ストリートの光景をiPhoneに収めます。昔のスコットランド連隊の衣装を売っている店でしょうか。頭と頭で駐車している車にはびっくり。
バスが終点に着くと、そこはスコットランド議事堂前。この議事堂が完成したのは2004年で、とてもモダンな建物です。スコットランドでは1997年の住民投票でスコットランド議会が創設されることになり、2000年に実に300年ぶりにスコットランド議会が開かれました。スコットランド独立を求める2014年の住民投票は、けっきょく否決されましたが、その前後の議会周辺はきっと緊迫していたでしょうね。
ホリールード宮殿は、その議事堂の前にあります。
もともとは、1128年にスコットランド王デイヴィッド1世がアウグスティヌス派の修道院を建てたことがはじまりです。その修道院はのちに破壊され、廃墟となりました(写真はあとで)。
ちなみに、われわれはイギリスというとイングランドと同じと思いがちですが、スコットランドには843年から1707年まで、れっきとしたスコットランド王国が存在していました。もっとも、その王朝はアルピン(9〜11世紀)、マリ(11世紀)、アサル(11〜13世紀)、ステュアート(14〜18世紀)と変遷し、途中イングランドに支配された時代もあり、スコットランドは、けっきょく1707年にイングランドに合併吸収されていくわけです。だから、スコットランド独立の動きというのも、それなりの根拠があるわけです。
さて、ホリールード宮殿の話に戻ると、15世紀には歴代のスコットランド国王が、このあたりにゲストハウスを建てて滞在するようになったといわれています。そして、1498年から1501年にかけてジェイムズ4世がここにつくった本格的な宮殿が、いまのホリールードの原型になっています。
一角獣が向かいあっている紋章のある入り口に向かいます。
紋章をもう少しアップしてみましよう。いちばん下にアザミが刻されているのがわかりますね。
その下のラテン語の意味は「われに触りて無事帰りし者なし」という人もいれば、「何人もとがなく我を害せず」という人もいて、ぼくには判断がつきません。いずれにせよ、アザミ騎士団ここにありということでしょうか。
中庭にはいります。写真撮影が許可されるのはここまで。
色鮮やかな花もつり下げられていて、宮殿はよく手入れされています。
いまでもエリザベス2世は、スコットランドに来ると、ここに何日か滞在し、園遊会を開いたり、著名なスコットランド人に勲章を授けたりしているようです。ショーン・コネリーがナイトに叙任された場所も、この宮殿のホールでした。
しかし、何といっても有名なのは、メアリー女王(1542〜1587、在位1542〜1567)ですね。メアリーは1561年から67年まで、この宮殿で暮らしています。
写真が撮影できないので、その寝室をロイヤル・コレクション・トラストの案内からお借りしました。
1566年には、メアリーの夫ダンリー卿が、イタリア人の秘書リッツィオを女王の愛人とみなして殺害するという惨劇も発生しています。
リッツィオは、狭い部屋で女王と食卓を囲んでいたところ、夫のダンリーとその取り巻きによって引きずり出されて、隣の部屋で五十数か所にわたって刺され、殺害されたのだといいます。その小部屋も見学しました。ほんとうに狭い部屋でした。
クロムウェル時代の1650年に宮殿は焼失します。しかし、その後、再建され、チャールズ2世によって改築されたといいます。
ほかに、ここに滞在した有名人としては、1745年のチャールズ・エドワード・ステュアート(1720〜88)、フランス革命で処刑されたルイ16世の弟アルトワ伯シャルル(のちのシャルル10世)がいる、と館内の説明にありました。チャールズ・エドワード・ステュアートは名誉革命で奪われたステュアート家の王位を奪還するため、1745年のジャコバイト蜂起でスコットランドに上陸し、ここホリールードに何週間か滞在したのでした。
この宮殿は、スコットランドとイングランド、そして時にフランスの歴史が交錯する場所といってよいでしょう。しかし、ややこしい歴史の話に、これ以上深入りするのはやめておきましょう。
宮殿の外には廃墟となった修道院が建っています。中世スコットランドで最大規模のこの修道院は1128年にディヴィッド1世によって建てられ、ジェイムズ2世(1633〜1701、在位1685〜88、スコットランド王としてはジェイムズ7世)の時代に破壊されたといいます。ジェイムズは、イギリスでは最後のカトリック王でした。それにたいする反発が、この破壊をもたらしたのだと思われます。
修道院を出ると、庭園が広がっています。ここでは、いまも園遊会が開かれているようです。
われわれはこのあたりでホリールードの見学を終え、またバス停に戻ってきました。前に王室のコレクションを展示したクイーンズギャラリーがありましたが、見学はパスしました。よくみると門の上にかわいいライオンが笏と剣をかざしています。
バスに乗って、ウェイヴァリー駅のあたりまで戻ってきました。このあたり、いかにもイギリスらしい重厚な建物が立っています。高級ホテルといったところでしょうか。
さて、これから昼食です。
2018-11-28 07:09
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