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利子と利潤──マーシャル『経済学原理』を読む(19) [経済学]

 マーシャルの功績は、利子と利潤の概念を区別したことである。
 すなわち、利子が資本(資金)への報酬であるのにたいし、利潤を企業者利得と解釈したのである。
 利子が支払われるのは「資本の利用からなんらかの利益が得られるとの期待」が成立する場合である。当面やむを得ない必要を満たしたり、機械を購入したり、工場を手に入れたり、住宅を取得したりするために、人びとはたとえば金融機関から融資を受ける。現在の要求を満たすために外部から資金を借り入れる場合には、利子が発生し、その資金にたいする報酬の割合を利子率と呼ぶ。
 古代や中世においては、困窮者にたいする金貸しのあこぎな貸付が、倫理的に非難されることは多かったし、いまもそうした問題が残っていないわけではない。しかし、近代の産業組織においては、利子にたいする考え方は根本的に変わってきた、とマーシャルはいう。

〈文明の進歩につれて、困窮した人々にたいする富の貸付は着実にその例が少なくなり、その比重も縮小してきた。その反面、事業における生産的用途のための資本の貸付は加速度的に増大してきた。その結果、借り手はもはや抑圧されたものとはみなされなくなり、すべての生産者が、借入資本をもって運営されているかどうかにかかわりなく、使用している資本の利子を経費のうちに算入し、資本費用が製品の価格によって長期的には回収されることが事業存続の条件として不可欠だと主張されるようになった。〉

 つまり、産業社会においては、資金の貸付はおもに事業にたいしておこなわれるようになり、貸付にたいする利子は、商品を生産したり販売したりする事業の獲得する粗利に含まれるようになるというわけである。
 マーシャルは、利潤とは元来、労働力の生みだした剰余価値にほかならないというマルクスの主張に反論し、あくまでもそれを資本の取り分と理解している。労働力にたいしては賃金が支払われる(それがはたして労働力の価値に見合ったものであるかどうかは別にして)。これにたいし、「使用者および職長などの労働と資本の用役」によって生みだされるのが利潤なのだと解釈している。
 いわゆる利子は粗利子というべきもので、ここでは資本の(「待忍」による)利得である純利子のほかに、さまざまな手数料が含まれている、とマーシャルはいう。その手数料とは、危険補償のための引き当て分や経営上の報酬などである。このことは銀行の利子の中身を思い浮かべれば、よく理解できるだろう。
 ここでマーシャルは、自己資本による事業と他人資本による事業とを対比している。営業上の困難はどちらも同じである。しかし、他人資本の場合は、借り手の信用という問題が発生し、このリスクにたいし、貸し手は高い利子をかけないわけにはいかない。そうした利子のなかには、リスクをできるだけ小さく抑える経営上の報酬という意味合いが含まれている。
 こうして、利子率は純粋利子率(純利率)から乖離していくわけである。しかし、マーシャルが原理的に問題とするのは、あくまでも純利率である。
 現代の金融市場の特徴は、資本が過剰な場所から不足な場所へ、また縮小過程にある業種から拡大過程にある業種へと移動することだ、とマーシャルは述べている。こうした流動性によって、純利率は国内だけではなく国際的にも平準化する傾向がある。銀行は確実な担保をもつ短期の融資であれば、時に低い利率でも、すすんで融資することもありうるという。
 このことは、産業社会の発展と調整がなされるのは、資本(資金)の流動性を通じてである、とマーシャルが考えていたことを意味している。
 厳密にいうと、利子率とは、新たな投資によって得られると期待される純利率を意味する。それは更新される資本にたいしては適用されない。
 だが、現実には、貨幣の購買力の変動は、利子率に大きな影響をもたらす。たとえば、事業者は貨幣の購買力が上昇すれば(つまり物価が下落すれば)、より多くの商品を販売しなければ、借り入れに利子をつけて返却することができない。逆に貨幣の購買力が下落すれば(つまり物価が上昇すれば)、より少ない商品を販売するだけで、返済が可能になる。
 好不況の循環は実質利子率の変動とふかく結びついている、とマーシャルはいう。価格が上昇するときは、人びとは争ってカネを借り、物を買うことによって価格はさらに上昇する。やがて、信用が収縮し、価格が低落しはじめると、だれもが商品を手放し、それによって価格がいっそう低落していく。こうして「価格が低落したがゆえに価格は低落する、といった悪循環が長らくつづく」。
利子と利子率に代表される金融問題は、マーシャルの弟子であるケインズによって、より広範に検討されていくことになるだろう。

 次に論じられるのが、利潤についてである。
 マーシャルは、利潤は企業の能力によって生じると考えている。すなわち、資本力、経営力、組織力が利潤を生みだす源である。
 マルクスが剰余価値の利潤への転化を解き明かすのに困難を覚えたように、利潤が発生する根拠を見いだすのは、そう容易ではない。
 現在、経済学のテキストなどでみられる利潤の定義は、次のようなものである。

〈[商品の]販売収入から賃金支払を控除した剰余を利潤とよぶ。この利潤を資本の前貸にたいする収穫(リターン)とみなし、前者の前貸資本額にたいする比率を「利潤率」と呼ぼう。〉(青木昌彦『分配論』による)

 これはあくまでも定義であって、利潤がはたして実現するかどうかは別問題である。また、ここでいう資本は私的資本とはかぎらず、国営資本であってもいっこうに差し支えない。
 利潤とは何かをいちおう頭に入れたうえで、マーシャルに戻っていくことにしよう。
 企業が存続していくのは容易ではない。そこには、常に「代替の法則」、言い換えれば競争の原理がはたらくからだ。「直接的で短期的な用役をより安い価格で提供する産業組織の方式が他のものを駆逐していく傾きがある」と、マーシャルはいう。要するに、より役に立つ商品をより安く提供できる企業が生き残っていくというわけだ。その生存競争はけっこう激しい。
 労働者は一般に利潤の分配にあずからない。その分配にあずかるのは、部長や工場長、職長などの管理職、ならびに事業主だ。賃金と利潤ははっきり区別されている。利潤から得られる所得は、報酬ということになる。
 それでは企業はどのようにして利潤を得るのだろう。マーシャルは次のような例を挙げている。
 大工が独立し、ひとりで稼いでいる場合は、依頼された仕事から得られる収入と、仕事場や道具などにかかる経費の差額が利潤となるだろう。
 しかし、その事業が大きくなって、大工が建築業者になると、かれは人を雇い入れ、その収入から賃金、その他の経費を控除した分を利潤として獲得することになる。
 さらにかれがすぐれた経営能力をもっていれば、より少ない経費でより大きな成果を挙げる工夫を重ね、販路を広げて、事業規模を拡大し、より多くの利潤を得るようになる。
 企業間には、代替の法則、言い換えれば競争の原理がはたらいている。大規模企業と小規模企業のあいだでは棲み分けがなされる場合もあるが、企業間の吸収や統合へと発展することもありうる。
 伝統的な産業分野では、利潤率はおもに自己資本からなる企業間の競争によって決まってくる。借入資本で企業を運営しようとする新人が優位となるのは、大胆な機略と工夫によって、これまでにない商品を開発できる場合においてのみである、とマーシャルは断言している。
 いっぽう大きな利潤が出なくても、さほど気にしない人もいる。それは、職業の自由さと品位、それに商品への愛着があって、強い忍耐力でその仕事を守りつづける自作農や親方、貧乏画家、三文文士などだ、とマーシャルはいう。かれらはふつうの労働者よりも低い報酬が得られなくても夢中になってはたらく。
 マーシャルの時代、株式会社はまだ発展途上段階だが、かれはその株式会社について、こんなふうに述べている。株式会社では、経営者の大半は、ほとんどあるいはまったく資本をもっていない。会社内部の摩擦もあるし、株主と役員の対立もあって、その運営は容易ではない。
「株式会社は個人企業にみるような機略、活力、強固な意志と迅速な行動を示すことはまれである」。だが、大きな資本を有する株式会社は、銀行や保険会社、さらには鉄道、電車、運河、電気、ガス、水道などの産業部門では、長所を発揮する。「その経営は長期的な視野にたって将来を考え、緩慢ではあるが遠大な方針をたてるようになるのが普通である」。マーシャルは、産業が巨大化するにつれて、事業体は株式会社形態に移行するとみていたと思われる。
 マーシャルは「自己資本をもたないが経営能力はもっているような人々に活動の場を与える」ことに、現代経済の特徴があると述べている。以前は「資本の所有者以外のものの手で資本が利用されることがほとんどなかった」。それにたいし、現代においては、経営能力と必要な資本とが結合し、最小の費用でより役立つ商品がつくられるようになっただけではなく、新たな商品も次々と開発されるようになった、とマーシャルはいう。
 そんななかで、マーシャルが重視するのは経営能力である。まれな天才を除いて、そうした能力は一朝一夕では形成されない。「天性の資質の稀少さと仕事に必要な特殊の訓練にかかる費用は、……経営の正常な稼得額にも影響をもたらす」と書いている。商品をやみくもに製造したり、やみくもにかかえたりしているだけでは、企業は成り立たない。それらを、いわば社会化することができてこそ、企業ははじめて存続するのである。
 したがって、平均利潤率などといったものは存在しない、とマーシャルはいう。
 利潤をどう規定するかで、マーシャルは悩んでいる。大企業では部長や工場長、職長などの所得は、一般に賃金として利潤から控除されるが、かれらが企業所有者の意志を代表して動いているのだとすれば、その賃金は、ほんらい利潤の一部として理解してもよい。そうでないと、個人商店と大企業とでは、利潤の概念がくいちがってしまうからだ。
 そのうえで、一般的にいうと、大資本は技術上の優位性をもち、さらに規模の経済を活用できるから、小さな事業体にくらべて利潤率が高いとみてよい。逆にさほどの経営能力をもたない個人会社の利潤率は、一部の例外はあるにせよおおむね低い。そんなふうに、マーシャルはみる。
 とはいえ、鉄鋼業などをみると、事業体の規模が拡大するにつれ、ふつうのやり方で計算した利潤率は一般に低下していくようにみえるのはどうしてか。ここで、マーシャルはまた迷いはじめる。
 そこで出した結論はこうだ。産業によって利潤率はことなる。たとえば固定資本の割合の大きな事業体では、利潤率が低い。また、高価な原材料を要する事業では、仕入れや販売を含む経営能力が利潤率を大きく左右する。
 マーシャルは利潤を危険にたいする補償とみる考え方には否定的で、そうした危険は保険の対象であって、利潤のうちに含まれるととらえている。
 同規模の資本がもちいられる同様の事業体では、賃金の支払総額が利潤額を決定する要因となり、ここでは利潤率平準化の傾向がはたらく。
 有能な経営者は、組織化と調整をおこなうことによって事業を拡大し、他の事業体より優位さを確保し、それにより利潤の増大をもたらす。しかし、産業による競争が一般化していくと、製品の価格が下がり、利潤率も下がっていく。
 ここで、マーシャルは年利潤率と回転利潤率のちがいにも言及する。業種によって、資本の回転率は大きくことなる。それは、たとえば小売業者、卸売業者、造船業者をくらべてみてもわかる。繊維産業でも、原綿購入から完成品までを一貫してつくる業者と紡績や織布を専門におこなう業者とでは回転率がことなる。鮮魚や果物、野菜、花卉などの足の速い商品を扱う業種は回転率が高いだけではなく、利潤率が高くなければ引き合わない。
 資本の回転は業種によって、ばらばらだし、その利潤率も一定ではない。それでも業種ごとに、それぞれ適正な利率が存在している、とマーシャルはいう。というのも、それ以下の利率だと業績が落ち込み、逆にそれ以上の利率だと顧客を逃がしてしまうおそれがあるからである。
 マーシャルは、経済を動かす原動力を企業家間の競争にとらえている。「かれ[企業家]は将来起こり得ることがらを予測し、それらの相対的な意義を正しく評価し、その事業の収入が必要な支出をこえてどれだけの余剰を残すかを検討して、あらゆる新規の事業を試みようとする」。
 実業家が形成されるまでには長い時間と訓練を必要とする。しかし、それで実業家が誕生したとしたとしても、その成功は約束されているとはいえない。時の運によって、成功と失敗は相半ばしているといえるだろう。
 その理由は、利潤にはさまざまな攪乱要因があるからである。たとえば、製品価格の変動である。何らかの事情で製品価格が上がれば、利潤が増大する。その場合、企業家は労働者に高い賃金を払う余裕がでてくる。しかし、「利潤率の上昇率に賃金の上昇率はなかなか追いつかない」のが実情だということを、マーシャルも認めている。
 逆に景気が悪くなると、とりわけ借入資本の多い企業は苦しくなり、製品が売れなくなって、最悪の場合、企業が倒産し、投資家も企業家も資本を失い、従業員は失業することもありうる。
 事業で成功を収める者は全体のなかでほんの一握りだ。だが、少数の成功者のもとには、富が集中してくることになる。
 熟練工や弁護士、大学教授の得る所得は、かれらの習得した技能にもとづくのであって、それはそれまでの投資額にたいする準地代と似たものである。これにたいし、大規模な事業体の企業家が得る所得は巨額なものとなり、それは一種、天与の非凡な才能にもとづくものだ、とマーシャルはいう。
 事業体の所得は、産業の置かれた環境や経済状況の変化によって、大きな影響を受ける。それは鉱山労働者や劇場の役者でも同じである。アメリカやオーストラリアで大鉱山が発見されると、資源の価格が下がって、イギリスの鉱山労働者の所得稼得力は下がる。いっぽう、劇場の演目が大ヒットすると、役者の稼得は大幅に上昇する。
 所得に関しては、産業の連関性も念頭におかなければならない。住宅産業にせよ、繊維産業にせよ、その業種の好不況が、さまざまなかたちでその産業にかかわる人びとに影響をもたらさないはずはないからである。
 いっぽう事業体の稼得額は、資本力、経営力、組織力による物理的結果によるものだけではない。いわば、商品自体のもたらす準地代のようなもの、言い換えればブランド力もそれに加わる。
 商品のブランドを維持するうえで、従業員の貢献は欠かせない。ある企業の業績がよければ、企業はその従業員にたいし給与を増額し、不況のさいにも雇用を継続し、好況のさいには超過勤務料を多額に出さなければならない。
 そこで、マーシャルは「ほとんどすべての事業体とその従業員とのあいだには、ある種の収益分配制がおこなわれている」という。いや、むしろ「正式に収益分配制をとったほうが、労使関係は経済的にも道義的にも高次の段階にすすんでいく」と主張している。
 経営者と従業員がそれぞれ団結して組織的な行動をとると、賃金問題はその解決が不確定なものになる。収入の余剰を労使間でどう分配するかは団体交渉で決めるほかない。
 衰退に向かっている産業は別として、一般に賃金の引き下げは長い目でみれば、使用者の利益にならない、とマーシャルはいう。それは、企業がかれらの技能を失ってしまうからである。使用者は労働組合の主張を受け止めなければならない。しかし、事業体の運営をつづけるためには、賃上げといってもおのずから限度がある、とマーシャルは論じている。
 マーシャルの利潤概念は、単なる資本家ではなく、非凡な才能をもつ企業家による事業体経営に重きをおいたものといえるだろう。
 しかし、そうした資本主義の英雄時代はいまや終わりを告げ、資本主義の周縁が叫ばれるなか、計画と管理が企業社会全体をおおっているようにみえる。
 それはまた別のテーマとなるだろう。

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