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駒井稔『いま、息をしている言葉で。』は、さわやかな編集者の奮闘記だ [本]

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 サブタイトルは「『光文社古典新訳文庫』誕生秘話」。
 著者の駒井稔さんはこの文庫を創刊した編集長だ。
 駅前の書店でも、たいてい文庫コーナーの片隅に光文社の「古典新訳文庫」が少なくとも10点くらいは並んでいるはずだ。
 創刊されたのは2006年9月というから、もう12年になる。点数はすでに250点を超える。
 この本のエッセンスは、オビの惹句に言い尽くされている。

〈古典はもはや読むに値しないのだろうか、いや、噛めば噛むほど味わい深く、そこには人がものを考えるためのエッセンスが凝縮されている。古典にこそ読書の醍醐味はある。そんな信念のもと、数多ある外国文学・思想を新訳し、文庫シリーズとして刊行する企画を立ち上げた。……道なきところに道を拓く、光文社古典新訳文庫・創刊編集長の奮戦記〉

 まさにそのとおりの内容である。
 かつてサラリーマン編集者だったぼくは、ちょっと嫉妬すら覚えるし、それ以前に、いまの時代に新しい文庫を築きあげることのすごさは想像もつかなかった。
 実際に本書を読んで、そのすごさを実感した。
 駒井さんが長いあいだ『週刊宝石』の編集者をつとめていたというのにはびっくり。しかし、その経験があったからこそ、この斬新な文庫をつくりだすことができたのだろう。
 工藤幸雄先生は、よく翻訳は30年か40年で古くさくなるとおっしゃっていた。そのかんに、ことばが変わってしまい、人は昔とちがうことばをしゃべるようになっているからだ。
 ところで、オビにもあるように古典にこそ読書の醍醐味がある、というのは、おそらくそのとおりなのだろう。
 しかし、古典というのは、海外のものも日本のものも含めて、たいていは「名のみ知る」で終わってしまい、専門家をのぞいて、それを実際に読んだ人は、きわめて少ないのではないか。
 ぼく自身もほとんど読んでいない。読もうとしても、たいていは途中で投げだしている。
 古典はほんとうは新しい。いつもよみがえるからこそ古典なのではないか。「古典にこそ読書の醍醐味がある」などと聞くと、そんな気になってくる。
 古典を「いま、息をしている言葉で」よみがえらせるのは、ひとえに翻訳者の力と、読者代表である編集者の熱意にかかっている。
 じつは、多くの読者が新しい古典を読みたがっているのにちがいない。
 こうして、古典新訳文庫として出版されたドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳)の発行部数は、なんと4冊で累計100万部を突破することになった。大成功である。
 もちろん、250冊以上にのぼる古典新訳文庫を構築するのは、編集長一人の力だけでは不可能だったろう。今野哲男さんの力が大きかったことに、いまさらながら気づかされる。
 それにしても、困ったことに、いまぼくはものすごい引力にひきこまれそうになっている。
 駒井さんの本を読むと、古典新訳文庫を全部そろえたくなってしまうほどだ。
 ドストエフスキーはいうまでもなく、トルストイ、シェイクスピア、ディケンズ、ロレンスも、スタンダールやフローベール、プルーストも、それにもう一度レーニンやトロツキーも、さらにはカントやホッブズ、ヴォルテール、ニーチェまで読みたくなってしまうからおそろしい。
 駒井さんの本は、ぼくのような先の短い年寄りをも、思わず奮い立たせる。さっそく本屋さんに行って、古典新訳文庫をまずは立ち読みしてみることにしよう。

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