『竹内好とその時代』 を斜め読みする(1) [われらの時代]
図書館で借りて、第1部の「生涯と思想」を読んでみた。
(1)〈魯迅〉にいたる道──復員まで(小嶋茂稔)
(2)〈ドレイ〉からの脱却を求めて──戦後社会のなかで(黒川みどり)
第1部は、このふたつのパートに分かれている。
竹内好は1910年10月2日、長野県南佐久郡臼田町(現佐久市)で生まれている。父は地元の税務署に勤めていたが、東京に転勤になったあと、1915年に退職し、事業を起こした。うまくいかない時代もあったようだ。
竹内は東京府立第一中学校に進学。中学2年のときに母を亡くしている。中学卒業後、一高、三高の受験に失敗し、大阪高等学校に進む。
1931年に高校を卒業したあと、東京帝国大学文学部支那文学科に入学した。講義や研究室の雰囲気にはなじめなかったという。
1932年8月から10月にかけ、はじめて朝鮮と中国の地を訪問した。前半は学生の団体旅行、後半は私費で北平(現北京)に滞在した。
筆者によると「この旅行が、中国や中国文化と関わり続けた竹内の一生を決定付けることになる」。
北平滞在中、中国の文学書を買いあさっている。
帰国後、郁達夫(1896〜1945、小説家)を読みはじめ、卒業論文に『郁達夫研究』を書いた。
当時、中国の現代作家を卒論のテーマに選ぶのは異例だったという。
1934年8月に、正式に中国文学研究会を発足させる。武田泰淳や岡崎俊夫、増田渉、実藤恵秀、松枝茂夫などが同人に加わっていた。
1935年3月には『中国文学(月報)』(題字は郭沫若)が発刊される。
「研究会活動と『月報』の発行は竹内の生活そのものであった」と筆者はいう。
1936年11月に『月報』は「魯迅特輯号」を組む。その準備中に魯迅が上海で亡くなった。
1937年10月から2年間、竹内は北京に留学する。その直前、7月7日に盧溝橋事件が発生し、日中戦争がはじまった。
北京は日本軍の占領下に置かれた。
二度目の北京はつまらなかった、とのちに竹内は述懐している。日本軍がのさばっているのだから、おもしろいはずがない。「つまらなくて飲んだくれて勉強どころじゃないんだね」
縁談(けっきょく破談)や父の急逝による一時帰国はあったものの、完全に北京を引き払ったのは1939年10月のことである。そのかん、ある女性との出会いと別れもあった。
帰国後は、生計を立てるため、1940年4月から回教圏研究所ではたらきはじめる(のちに井筒俊彦が入所)。同時に『中国文学』の発行元を生活社とし[このときから「月報」というタイトルはなくなったのではないか]、みずから編集の中心をになうようになった。
竹内は、あくまでもいま生きている中国にこだわった。そこから旧来の支那学(漢学)との距離が広がっていく。
1940年5月に日本評論社と出版契約を結び、『魯迅』を書くことにした。執筆には2年半を要した。
1941年12月8日、日本は米英と開戦する。それを受けて、竹内は『中国文学』に「大東亜戦争と吾等の決意(宣言)」を執筆する。
「われらは支那を愛し、支那と共に歩む」としながら、米英との戦争を支持したこの宣言は、戦後、竹内に思想的葛藤のドラマをもたらすことになる。
1942年2月から4月にかけ、竹内は回教圏研究所の出張で中国各地を訪れた。上海では魯迅の墓にもうで、その碑にはめられた陶製の肖像が、無残にも打ち壊されているのをみてショックを受けた。
戦争がつづくと、『中国文学』にたいする当局の取り締まりが厳しくなり、1943年3月刊を最後に、雑誌は廃刊に追いこまれる。
竹内が日本評論社に『魯迅』の原稿を手渡したのは1943年11月9日(刊行は1944年12月)。
それからしばらくして12月1日に召集令状が届く。
3日後、佐倉(千葉県)の第64部隊に入隊し、中支に派遣されることになった。
12月28日には、湖北省の歩兵第88大隊に配属された。
それから敗戦まで、軍隊暮らしがつづいた。
戦闘には参加したものの、鉄砲は一度も撃たなかったという。宣撫班や報道班に所属していたからかもしれない。
竹内は8月31日、現地で召集解除となった。現在の武漢などで、しばらく敗戦処理に携わったあと、1946年5月に上海に到着、6月末に品川に戻ってきた。自宅は焼けていたため、武田泰淳の実家の寺に泊まらせてもらったという。
ここで、もう一度確認しておこう。
竹内好が中国を理解するきっかけとなったのは、いうまでもなく魯迅を通じてである。
最初は、もう魯迅の時代は過ぎたと思っていた。「狂人日記」にも批判的で、それは封建的桎梏にたいする呪詛にすぎないと考えていた。
だが、日本評論社から依頼された『魯迅』を執筆する過程で、魯迅への思いは深まっていく。
そして、魯迅の「ある根柢的な態度」を発見するにいたったという。
「絶望の虚妄なることは正に希望と相同じい」(「狂人日記」)
魯迅は中国の暗黒を見て、絶望を覚えた。やがて、それも虚妄であることに気づいた。空疎な希望が虚妄であるのと同じように。
そこで、竹内はこう書く。やや狷介(けんかい)に。
〈文学の生れる根元の場は、常に政治に取り巻かれていなければならぬ。それは、文学の花を咲かせるための苛烈な自然条件である。ひよわな花は育たぬが、秀勁(しゅうけい)な花は長い生命を得る。私はそれを、現代中国文学と、魯迅に見る。〉
竹内自身は『魯迅』を遺書のようなつもりで書いたという。事実、出版社に原稿を渡してからひと月もたたないうちに召集令状が届いている。
魯迅に託して竹内が記した一文は、人の人としての姿勢を問うものであり、政治なるものへの永久闘争宣言でもあった。
評伝の筆者(小嶋茂稔)によると、その思想は戦後直後の『魯迅入門』や『魯迅雑記』に描かれた「ドレイ論」につながっていくという。
魯迅は『野草』のなかで、古来、中国人が政治の奴隷であることを論じた。
竹内は問う。日本人もまたドレイなのではないか。国や会社のドレイであるばかりか、西欧の文明や思想のドレイなのではないか。
〈尊大と卑屈は表裏であり、それは日本文化の非独立性、ドレイ性にもとづく無自覚の外国崇拝=外国侮蔑という心理の反映に外ならないから。〉
竹内は魯迅を何度も読み返すなかで、「ドレイ」論に行き着いた、と筆者は書いている。そこには、いまもつづく「戦後」のドレイ状況が反映していたことはまちがいない。
魯迅の『野草』に収録された「賢人と馬鹿と奴隷」という寓話は、あたかも魯迅が、この世は賢人(政治家、実業家、慈善家、学者、文化人など)と、それにしたがう奴隷、そして馬鹿からできているとみていたことを示している。
賢人と奴隷は相通じ、時にその関係がひっくり返る。賢人は何かの奴隷でもある。
度しがたいのは馬鹿である。馬鹿はそのどちらにもつかず、独自の方向を勝手に歩み、世間にあきれられる。
魯迅が愛したのは、その馬鹿、すなわち阿Qであったことに、竹内はようやくきづく。
そして、ここから竹内の戦後の歩みがはじまるのだ。
2018-12-15 07:36
nice!(9)
コメント(0)
コメント 0