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『竹内好とその時代』を斜め読みする(2) [われらの時代]

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[竹内好。1971年。『追悼 竹内好』の口絵から]

 1946年6月末、中国から復員した竹内は家族の移転先、北浦和に身を寄せた。
 中国文学研究会はすでに3月に再建され、雑誌『中国文学』も復刊されていた。
 1950年代前後からは、雑誌『展望』を中心に旺盛な評論活動がはじまる。鶴見俊輔に請われ、「思想の科学研究会」の同人にもなった。
 竹内はこのころ、こう考えていた。
 近代化とは西洋化のことであり、アジアはそれに抵抗しながら近代化を受け入れていった。
 だが、その受け入れの仕方において、日本はもっともアジア的ではなかった。外から来るものを、ほとんど抵抗なく受け入れていったからである。
 こうして、日本は自分がドレイであることに無自覚なままドレイの主人になりかわろうとしてきたのだ、と竹内はいう。
 そうした近代化の構造は、インテリのなかにも染みついている。
 インテリは「閉鎖的なギルド」をつくりたがる。ギルドのなかでは「親分子分の階層秩序が支配し」、「仲間だけに通用するフチョウ(符丁[記号])」が行き交う。
 民衆と隔絶し、特有の特権意識、立身出世主義にかられているのが、日本のインテリの特徴だ、と竹内は断言する。
 ドレイ的な日本のインテリは、ドレイ的日本文化が生みだしたものだ。それは明治維新という奇妙な革命が生み落とした進歩主義=西欧化と結びつき、大衆の上に君臨してきた。
 日本共産党が教条とする日本のマルクス主義も、こうした権威主義的体質とけっして無縁ではない、と竹内はいう。
 さらに、日本では「思想が生活に媒介されない」。「私たちが日常の場で考え、行動することを除いて、外からの救いがあるというのは幻想だ」と論じている。
 竹内はこうしたインテリ的発想から自立することを、みずからの戦後の出発点にかかげたといってよい。

 1951年は講和条約の年である。その前年、南原繁や丸山眞男、都留重人は「平和問題懇話会」を結成し、雑誌『世界』は全面講和の主張を掲げていた。
 竹内にはインテリの平和論への不信がある。それはきれいごとすぎると思っていた。
 だが、現実にサンフランシスコ講和条約と日米安保条約が締結されると、『世界』へのアンケートにこう答えている。

〈これは講和ではない。新たな戦争準備の開始の宣言である。この講和が国民によって承認されたら、中国との関係は破局的になるだろう。〉

 1949年10月には中華人民共和国が成立し、翌50年6月には朝鮮戦争がはじまっていた。そのことを考えれば、中国との「戦争終結」、国交回復を目標とする竹内が、日本がアメリカのドレイになる条約に懸念をいだいていたのは、とうぜんだった。
 竹内は学識者からは出発しない。あくまでも民衆と民族(日本人)に依拠し、健康なナショナリズムを支持するといい、「日本民族の念願」は「独立と平和と自由」なのだと断言する。
 1953年には東京都立大学教授となり、翌年末、武蔵野市吉祥寺に転居した。
 評論活動と並行して、竹内は精力的に魯迅の紹介に努めている。
 魯迅とは何者なのか。
「苦しくなると、とかく救いを外に求めたがる私たちの弱い心を、彼はむち打って、自力で立ちあがるようにはげましてくれる」
 講和後の体制に竹内はいらだちを隠せなかった。
 日本人の「独立不羈の精神」を阻んでいるのは、国民をドレイに縛りつける天皇制だとも述べている。
「天皇制は、いまわしい、のろうべき、しかしまた、いくらもがいても脱却できない、宿命のようなもの」だ。
 しかし、象徴天皇制によって、それが事実上、廃止されたのは一歩前進であり、「あとはわれわれ自身の努力によって、完全に廃止にまで持っていかれる」と考えていた。
 さらに、こんなことも書いている。

〈両体制[資本主義と社会主義]の平和的共存は、終局的には不可能だと思います。というより、世界が共産主義化されるのが人類の運命のように思います。〉(『世界』1953年5月号)

 いまから考えれば完全に的外れの発言としか思えない。しかし、1950年代はまだ革命ということばが生きていたのだ。
 その革命について、竹内はあくまでも日常生活から出発するプログラムを構想すべきだと主張する。革命がもたらすのは、「新しい人間タイプと、新しい国民道徳」の出現であり、中国革命はその一歩を踏みだしている、と竹内はみていた。
 このあたり、竹内が社会主義を資本主義に代わる倫理的な体制としてとらえているようにみえて興味深い。毛沢東の中国革命には、大きな期待を寄せていた。
 1954年3月、マーシャル諸島ビキニ環礁で、アメリカの水爆実験により、第五福竜丸が被曝する事件が発生する。
 竹内は「これはあきらかに[アメリカによる]ファシズムではないか」と声を荒げる。戦争中の体験を思いだし、民族が死に絶える光景を連想したという。
 1956年1月に竹内は日本教職員組合講師団に加わる。しかし、日教組への不信から3年後には講師団を辞任している。
 左翼的な官僚主義と、政治優先の姿勢にがまんならなかったようだ。
 そのなかで、竹内は超然とした組織よりも、民衆の生活に根ざしたサークル運動的なものに希望を見いだしていく。
 沖縄に興味をもちはじめたのもこのころだ。「沖縄について知らぬことは日本について知らぬことである」と書いている。
 部落問題研究所ともかかわりをもつようになる。「[日本社会の性質をつかむ]その急所は、まさに、内においては部落であり、横に眺めたときには沖縄にある」

 1960年の安保闘争は、竹内にとって、みずからの生き方を問うたたかいとなった。
 竹内は、中国との戦争そのものが終わっていないと考えていた。中国との国交回復が悲願だった。そのためには、日本はまず中国への侵略戦争を深く反省しなければならない。
 アジア・太平洋戦争には、侵略戦争と帝国主義間戦争の二重性がある、と竹内は考えていた。日中戦争には徹頭徹尾反対だった。しかし、1941年12月8日のアメリカとの開戦には、「積年の鬱屈」が吹き飛ばされる思いがしたと述懐している。
 戦前に論議された「近代の超克」論は、発想そのものとしては正しいと考えていた。問題は、それが欧米への抵抗とアジアへの侵略のセットで構想されていたことだ。
 アジアへの侵略という思想は、徹底して否定されるべきである。しかし、「近代の超克」論が提起した西洋への抵抗という課題は、いまも受け継がれなければならない。それが竹内の考え方だった。
 福沢諭吉についても、かれを単に文明開化の啓蒙家、欧化主義者とみるのはまちがっているという。
むしろ、福沢の本質は「日本の独立という緊迫した課題」に全身で立ち向かおうとしたことにある。
「脱亜」というスローガンだけで、福沢をとらえるべきではない。かれは非西洋であるアジアが、はるか先に虚妄なる西洋文明を超えることを遠望していたのではないか。
 つづめていえば、それが竹内の福沢理解だったと思える。
 竹内が帝国主義にたいするアジアの抵抗運動を支持したのはとうぜんといえる。西洋的近代を「もう一度東洋によって包み直す」という言い方もしている。
 日本のアジア主義が侵略的側面をもっていたことはいなめない。にもかかわらず、竹内は、玄洋社や黒龍会に少なくともアジア連帯の思想はあったと論じる。物質主義の日本を批判した岡倉天心のアジア主義を再評価したのも竹内だった。
 竹内は60年安保闘争を中国との国交回復問題と結びつけていた。
 このころ数々の反安保集会に出席し、民主主義は「いま戦後最大の試練にぶつかっている」と連呼し、もし新安保条約を国会が承認するなら「中国との国交回復を日本国民は願っていない、という意思表明になる」と述べている。
 しかし、政府は5月19日の衆議院本会議で、条約批准の強行採決に走った。竹内は前日、安保批判の会を代表する11名とともに岸信介首相と面会し、慎重な審議をうながしていた。政府は聞く耳をもたなかった。これに抗議して、竹内は東京都立大学教授の職を辞する。
 そこから「民主か独裁か」という有名な問いかけが登場する。竹内は、安保に反対する者、賛成する者を問わず、「今は、独裁を倒すために全国民が力を結集すべきである」と訴えた。
 5・19強行採決にたいする国民の反発は強かった。その反発は既成組織の枠を超えて、大衆運動、学生運動として広がっていく。
 強行採決から1カ月後、6月19日に新安保条約は自然承認される。敗北だった。
だが、竹内は安保闘争を評価する。その意義は「人民の抵抗の精神が植えつけられたこと」にある。
「日本の政府がどんなに戦争をやりたがっても、日本の人民にはやらせない、やらせないだけの力がある」。それを証明したのが安保闘争だったと語っている。この教訓はいまも重要だろう。
 竹内はあくまでもナショナリストだった。日本を思い、アジアの自立を願い、日本とアジア諸国との友好・連帯を求めた。

〈私はネーションを固執したい。ナショナルなものを大事にし、ナショナルなものにつなげて伝統からの投影で未来図を考える仕事をつづけていきたい。〉

 この姿勢が竹内の根幹をなしている。そして、かれは安保闘争を通じて、民主主義は外から与えられたものではなく、人民の抵抗の精神にほかならぬことをあらためて認識した。

 安保闘争のあと、竹内は、とりわけ日中関係を軸に、日本の近代史を書きなおしたいと思うようになった。そのとっかかりとなったのが、明治維新の「再吟味」だった。
 明治維新によってつくられた「明治国家は一つの選択にしか過ぎず、もっと多様な可能性をはらんでいた」と竹内はいう。
 1961年末、『思想の科学』の発行元である中央公論社は、「天皇制特集号」を断裁廃棄処分にする。竹内が怒ったのは、このこと自体ではない。中央公論社が、廃棄された雑誌を公安関係者に見せたことだった。
 このころから、竹内はみずからの根拠地となる小さな雑誌をつくりたいと思っていたのではないだろうか。
 1963年2月、竹内は雑誌『中国』を発刊する。編集は「中国の会」。数年前から開いていたごく小規模な研究会が母体である。
 その目標は中国との国交を回復し、中国と平和条約を締結することだった。竹内は何はともあれ中国、とりわけ中国の民衆に寄り添う姿勢を表明した。かれの中国びいきは、そのころの中ソ論争で「持たざる国」中国を支持したことにもあらわれている。
 だが、雑誌を発行してから3年目、竹内は国交回復を半ばあきらめるようになっていた。日本人が引きつづき中国を侮蔑しているだけではなく、中国を敵視している姿勢に、両国間の深い溝を感じていた。
 絶望感はさらに深まっていく。
 そして、竹内は評論の筆を断つ。
 もはや新規事業には手を出さず、「中国の会」と「魯迅友の会」を維持し、魯迅個人訳を完成させることに全力を傾けたいと思っていた。
 1965年秋に竹内は大病を患い、9月20日から10月末まで入院した。
 老年がはじまろうとしていた。
 竹内はこれまでの評論を整理して、筑摩書房から『竹内好評論集』を発刊する。その内訳は第1巻「新編現代中国論」、第2巻「新編日本イデオロギイ』、そして第3巻『日本とアジア』だった。評論集は1966年6月に完結する。
 そのころ竹内は、アジアの抵抗のモデルとしてきた中国の現実に直面していた。文化大革命がはじまっていたのだ。
 竹内は中国との「あの不幸な戦争」については語ったけれど、文化大革命については、ほとんど口をつぐんだ。文化大革命を支持するとも、それに反対するともいわなかった。
 ただ、文化大革命を「権力闘争と、社会的混乱としてとらえる」報道のステロタイプを批判し、現在の動きを洞察するには「ある程度は距離をおいて、時間および空間のはばを拡げて、しかも理性をはたらかせて見ないといけない」と語ったのみである。
 1971年10月には「日中間の国交回復は不可能だと思います」と述べ、「自分のできる範囲で、歴史の復習をやるしか方法がありません」と語っている。
 竹内には国家レベルでなく、民衆レベルで、日中連帯ができてこそ、真の国交回復がなしとげられるのだという考えがあった。国交回復は政治や経済の打算ではなく、民族の道義の問題だった。
 1972年9月、田中角栄首相訪中によって、日中国交は正常化し、日中共同声明がだされた。
 これにたいし、竹内はこの声明を「承認」するとして、次のようなコメントを発表する。

〈目的は友好である。そして友好は、人民同士の友好でなくてはならない。その友好を実行に移すことを、政府は妨害しない、というのがこの共同声明の根本の趣旨であると解する。〉

 国どうしの国交回復ですべてが片づいたわけではない。むしろ、日中友好が実現するかどうかは、人民の責任事項に属する、と竹内は断言する。
 雑誌『中国』は、編集上のトラブルもあったとはいえ、この年12月に、いちおうの使命を終えて、休刊となった。
 1974年夏には朝日選書として『近代日本と中国』の2巻本が刊行された。
 その後、竹内は全力で魯迅の個人訳に取り組む。
 しかし、1976年12月、全7巻の刊行のめどがついたところで、食道がんとわかり、1977年3月に死去する。享年満66歳。
 本書にはこうしたことが淡々とつづられている。
 ぼくが竹内好を読みはじめたのは1968年からである。あのころは竹内好と吉本隆明のあいだを行ったり来たりしていた。
 いまの中国は様変わりした。これにたいし、日本人の意識は変わっていない。むしろ、中国への侮蔑と恐怖がいっそう増幅しているのではないかとさえ思える。
 竹内のいうように「[現在の動きを洞察するには]ある程度は距離をおいて、時間および空間のはばを拡げて、しかも理性をはたらかせて見ないといけない」。
 アメリカの尻馬に乗るな。

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