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人間至上主義──『ホモ・デウス』を読む(4) [本]

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 近代の思想は、神がいなくても人間には意味があることを示すことに向けられてきた、と著者はいう。その中心は、いわば人間至上主義だ。人間はいまや神に代わって善や正義、美を定義できるようになった。
 いまでは人間が意味の源泉であり、自由意志こそが最高の導き手と理解される。人はみずからの心の声にしたがえというわけだ。
 人は神の定めによってではなく、愛によって結婚するようになった。愛がなくなれば、離婚も許される。愛しあっていれば、同性結婚も認められる。
 政治プロセスにおいても、民主主義、すなわち有権者の自由な選択が最高の政治的権威であるという考え方が広まった。
 芸術や音楽も、いまや神によってではなく、人間の内なる声によってつくられ、評価されるものとなった。人びとが芸術と思えば、それは芸術なのだ。
 経済を動かすのも、いまや消費者の自由意志だ。消費者が買ってくれない商品は価値がない。逆に消費者ができるだけ安い肉を求めるなら、遺伝子操作で家畜を改良することも許される。すべては消費者の欲望や欲求を満たすことにある。
 そんなふうに著者はたたみかけている。
 もはや神はいなくてもよくなった。「神の存在を信じていると言っているときにさえも、じつは私は、自分自身の内なる声のほうをはるかに強く信じている」と、著者はいう。
 人類はもはや神と切断されたのだろうか。
 現在において知識はデータにもとづくものとされる。そこには倫理的判断が入りこむ余地はない。
とはいえ、人間社会は価値判断なしにはつづかない。そこで登場するのが、経験と感性だ、と著者はいう。ここではヒューム流の経験論が復元されようとしているとみてよい。
 経験と感性はどちらも主観的な現象で、それは積み重ねられていく実用的な技能である。現代人の目標は、いわば経験と感性を通じて、知識を深めることにあるとされる。これも一種の人間至上主義だ。
 いまや戦争も神の視点からはとらえられない。戦争に関しても、個人の経験こそが意味の源泉なのだ。個人の感性に訴えることから、戦争ははじまる。
 ただし、人間至上主義にもいろいろな立場がある、と著者はいう。だれもがかけがえのない個だとする人間至上主義もあれば、社会主義こそが人を解放するという人間至上主義もある。さらに、ファシズムは、この世はジャングルであり、優秀な人間が劣悪な人間のうえに君臨すべきだと唱える。これも進化論的人間至上主義だという。
 20世紀に自由主義、社会主義、ファシズムの3つの人間主義は相争い、当初は左右両側から叩かれていた自由主義が、けっきょくは勝利を収めた。
「自由民主主義は歴史のゴミ箱から這い出し、汚れを落として身なりを整え、世界を征服した」と、著者は書いている。これが20世紀末の状況だ。

〈20世紀全体が、とんだ間違いのように見える。人類は自由主義のハイウェイを疾走していたが、1914年春、道を誤って袋小路に入り込んだ。その後、80年の年月と3つの恐ろしいグローバルな戦争を経てようやく、もとのハイウェイに戻ることができた。……自由主義は依然として個人の自由を何よりも神聖視するし、相変わらず有権者と消費者を固く信用している。21世紀初頭の今、生き残ったのは自由主義だけなのだ。〉

 いまや個人主義と人権、民主主義と自由市場という自由主義のパッケージに替わるものはない、と著者はいう。共産主義を掲げる中国ですら、いまやこの方向に進んでいる。イスラム過激派は自由主義に替わる何の代替物も提供していない。
 これからはますますAIの時代にはいっていく。
 高度なテクノロジー社会のなかでどう生きるかという答えは、どの聖典にも書かれていない。古い宗教的教義にもとづく政治運動は、しょせん反動しかもたらさない。イスラム過激派がそうだし、それはマルクス主義も同じである。
 けっきょく進歩の汽車に乗りそびれた人は取り残されるのだ、と著者はいう。「この列車に席を確保するためには、21世紀のテクノロジー、それもバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの力を理解する必要がある」
 新しいテクノロジーについていけなかった社会主義は没落し、それに適応した自由主義は生き残った、と著者はいう。『資本論』を読む暇があるなら、インターネットとヒトゲノムを勉強したほうがいい、とも。
 キリスト教もイスラム教もいまや新しいテクノロジーに対応できなくなっている。宗教の聖典はもはや創造性の源泉ではなくなっている。

〈伝統的な宗教は自由主義の真の代替となるものを提供してくれない。聖典には、遺伝子工学やAIについて語るべきことがないし、ほとんどの司祭やラビやムフティーは生物学とコンピューター科学の最新の飛躍的な発展を理解していない。〉

 だが、こうしたテクノロジーが発展するなかで、民主主義と自由市場も時代遅れになる可能性もある、と著者はいう。
 それでは、われわれはどこに向かおうとしているのか。これが、最後の第3部の問いになる。
 これについては、また次回読むことにしよう。

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