最後の1日──南インドお気楽ツアー(8) [旅]
2月26日(月)
アレッピのバックウォーター(水郷)に停泊したクルーズ船の部屋に籠もって、おとなしくしています。胃腸の具合はまだ元に戻っていません。日が昇るのをみにいく気力もありませんでした。
朝も食べられず、8時すぎに下船しました。優雅な船旅を楽しめなかったのは、いかにも残念でした。
船着場で待っているバスに乗り込み、北のコーチン(コチとも)に向かいます。バスはアラビア海沿いに走ります。
9時半ごろコーチンに到着。正確にいうと、コーチンのなかでもフォート・コーチンと呼ばれる地区です。
アラビア海に面するコーチンは古くから貿易港として栄え、古代ローマ人やアラブ商人も訪れていたそうです。近世にはいると西洋の植民地となります。最初はポルトガル、次にオランダが支配しました。
コーチンにはキリスト教の人もイスラム教の人も多い、とガイドさんがいいます。大きな教会が立っていました。どこかインド風なのがおもしろいですね。
バスを降りたあたりには、古い西洋風の建物が残っていて、ホテルなども多いようです。
最初に向かったのが聖フランシス教会です。元はポルトガル人が建てたカトリック教会ですが、オランダ人がコーチンを占拠したあとはプロテスタントの教会に変わりました。
その内部はわりあい質素です。
この教会がなぜ有名かというと、1524年12月にヴァスコ・ダ・ガマがコーチンで亡くなったとき、その墓がつくられたのが、この礼拝堂だったからです。ガマの遺骸は14年後に本国ポルトガルに運ばれますが、最初につくられた墓地は、いまも教会のなかに保存されています。
ちなみに、ガマが喜望峰、アフリカ東海岸を経て、インド南部のカリカット(カレクト)に到着したのは1498年のことです。これが、ポルトガルによる「インド航路」発見の端緒となりました。
ガマの生涯は、アラビア海から現在のインドネシアに広がるイスラム勢力を排除し(自身は一種の「十字軍」と考えていました)、インドに交易の拠点を築くことに費やされます。
ガマ自身は3回インドに航海しています。そのころコーチンは香料の積み出し港になっていました。ゴアにポルトガルの要塞が築かれました。
そして3回目の航海となった1524年にコーチンで客死するわけです。それから18年後の1542年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルがゴアに到着、コーチンでも布教をはじめています。
その後、インドにはオランダやフランスが進出し、最後はイギリスが他の勢力を排して、全インドを植民地に組み込んでいくことになります。とりわけイギリス東インド会社は、インドをむさぼり尽くしたといっても過言ではないでしょう。
聖フランシス教会を見たあとは、歩いて海岸に出ました。前はアラビア海ですね。
網を海に沈めて、ロープで引き上げ、魚をとるのは、このあたり独特の漁法で、「チャイニーズ・フィッシング・ネット」というそうです。海岸沿いには屋台が並び、魚も売っています。ガイドさんがいろいろと説明してくれるのですが、体調の悪いぼくはもうろうとしています。
昼食の海鮮料理もほとんど食べられませんでした。
地元のスーパーに寄って、おみやげを買い、そのあと香辛料や宝石、衣料品などを売っている商店街にも訪れたのですが、ついていくのがせいいっぱいです。
あとで調べると、この商店街は「ユダヤ人町」と呼ばれていたことがわかります。ローマ帝国に国を滅ぼされたユダヤ人が、はるか南インドまでやってきて、この町で香辛料交易に従事していたといいます。シナゴーグも立っているようですが、いまはユダヤ人の姿を見かけることはありません。
最後に訪れたのが、カタカリダンスというコーチンの伝統舞踊が演じられる劇場でした。イギリスのチャールズ皇太子(現国王)夫妻も2019年のインド訪問のさい、ここを訪れたといいます。
劇場はすいていて、舞台を見たのはツアーのメンバー13人だけでしたが、おかげで二人の役者さんが化粧をするところから見ることができました。
舞台は二部構成です。
最初はひとりの役者さんが、目や眉の動きで愛や悲しみ、怒り、驚きなど9つの感情を表現します。見得を切るようなところもあって、ユーモラスで迫力のある舞台でした。
次はヒンドゥーの古代叙事詩「バーガヴァタプラナー」の一節で、ふたりの役者さんが登場します。
ケララの王子ジャヤンタに恋をした羅刹女(らせつにょ)は美女に化けて王子を誘惑しますが、王子に姿を見破られて、一刀のもとに切り捨てられます。最後は鋭い叫びを発して舞台を退場するのですが、その叫び声がすごかったので、びっくり仰天しました。
記念撮影に応じてくれたのにも感激しました。
短いインドツアーもこれで終わりです。われわれはコーチン空港からシンガポール経由で日本に戻ります。
旅をすると思い出が増えます。どんなに短い旅であっても、遠くにあったはずのその国の光景が、自分のからだや心にしみついて、忘れられなくなります。インドもそんな国のひとつでした。世界は広い。インドは深いです。
アレッピのバックウォーター(水郷)に停泊したクルーズ船の部屋に籠もって、おとなしくしています。胃腸の具合はまだ元に戻っていません。日が昇るのをみにいく気力もありませんでした。
朝も食べられず、8時すぎに下船しました。優雅な船旅を楽しめなかったのは、いかにも残念でした。
船着場で待っているバスに乗り込み、北のコーチン(コチとも)に向かいます。バスはアラビア海沿いに走ります。
9時半ごろコーチンに到着。正確にいうと、コーチンのなかでもフォート・コーチンと呼ばれる地区です。
アラビア海に面するコーチンは古くから貿易港として栄え、古代ローマ人やアラブ商人も訪れていたそうです。近世にはいると西洋の植民地となります。最初はポルトガル、次にオランダが支配しました。
コーチンにはキリスト教の人もイスラム教の人も多い、とガイドさんがいいます。大きな教会が立っていました。どこかインド風なのがおもしろいですね。
バスを降りたあたりには、古い西洋風の建物が残っていて、ホテルなども多いようです。
最初に向かったのが聖フランシス教会です。元はポルトガル人が建てたカトリック教会ですが、オランダ人がコーチンを占拠したあとはプロテスタントの教会に変わりました。
その内部はわりあい質素です。
この教会がなぜ有名かというと、1524年12月にヴァスコ・ダ・ガマがコーチンで亡くなったとき、その墓がつくられたのが、この礼拝堂だったからです。ガマの遺骸は14年後に本国ポルトガルに運ばれますが、最初につくられた墓地は、いまも教会のなかに保存されています。
ちなみに、ガマが喜望峰、アフリカ東海岸を経て、インド南部のカリカット(カレクト)に到着したのは1498年のことです。これが、ポルトガルによる「インド航路」発見の端緒となりました。
ガマの生涯は、アラビア海から現在のインドネシアに広がるイスラム勢力を排除し(自身は一種の「十字軍」と考えていました)、インドに交易の拠点を築くことに費やされます。
ガマ自身は3回インドに航海しています。そのころコーチンは香料の積み出し港になっていました。ゴアにポルトガルの要塞が築かれました。
そして3回目の航海となった1524年にコーチンで客死するわけです。それから18年後の1542年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルがゴアに到着、コーチンでも布教をはじめています。
その後、インドにはオランダやフランスが進出し、最後はイギリスが他の勢力を排して、全インドを植民地に組み込んでいくことになります。とりわけイギリス東インド会社は、インドをむさぼり尽くしたといっても過言ではないでしょう。
聖フランシス教会を見たあとは、歩いて海岸に出ました。前はアラビア海ですね。
網を海に沈めて、ロープで引き上げ、魚をとるのは、このあたり独特の漁法で、「チャイニーズ・フィッシング・ネット」というそうです。海岸沿いには屋台が並び、魚も売っています。ガイドさんがいろいろと説明してくれるのですが、体調の悪いぼくはもうろうとしています。
昼食の海鮮料理もほとんど食べられませんでした。
地元のスーパーに寄って、おみやげを買い、そのあと香辛料や宝石、衣料品などを売っている商店街にも訪れたのですが、ついていくのがせいいっぱいです。
あとで調べると、この商店街は「ユダヤ人町」と呼ばれていたことがわかります。ローマ帝国に国を滅ぼされたユダヤ人が、はるか南インドまでやってきて、この町で香辛料交易に従事していたといいます。シナゴーグも立っているようですが、いまはユダヤ人の姿を見かけることはありません。
最後に訪れたのが、カタカリダンスというコーチンの伝統舞踊が演じられる劇場でした。イギリスのチャールズ皇太子(現国王)夫妻も2019年のインド訪問のさい、ここを訪れたといいます。
劇場はすいていて、舞台を見たのはツアーのメンバー13人だけでしたが、おかげで二人の役者さんが化粧をするところから見ることができました。
舞台は二部構成です。
最初はひとりの役者さんが、目や眉の動きで愛や悲しみ、怒り、驚きなど9つの感情を表現します。見得を切るようなところもあって、ユーモラスで迫力のある舞台でした。
次はヒンドゥーの古代叙事詩「バーガヴァタプラナー」の一節で、ふたりの役者さんが登場します。
ケララの王子ジャヤンタに恋をした羅刹女(らせつにょ)は美女に化けて王子を誘惑しますが、王子に姿を見破られて、一刀のもとに切り捨てられます。最後は鋭い叫びを発して舞台を退場するのですが、その叫び声がすごかったので、びっくり仰天しました。
記念撮影に応じてくれたのにも感激しました。
短いインドツアーもこれで終わりです。われわれはコーチン空港からシンガポール経由で日本に戻ります。
旅をすると思い出が増えます。どんなに短い旅であっても、遠くにあったはずのその国の光景が、自分のからだや心にしみついて、忘れられなくなります。インドもそんな国のひとつでした。世界は広い。インドは深いです。