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ハーヴェイ『経済的理性の狂気』を読む(7) [商品世界論ノート]

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 産業革命以来、資本主義は200年という時間をかけて、グローバルな空間に広がっていった。これは歴史的なテーマだが、同時に理論的なテーマでもある。ハーヴェイは『資本論』をベースとして、資本の時間と空間の広がりを論じようとしている。
 運動する価値としての資本は経済権力だといってもよい。それは原料を生産する場の景観をつくり、運輸ネットワークを組織し、ヒトとモノと情報の流れを統轄し、労働者を管理し、株価や地価を操作する。
 マルクスは資本が世界市場という空間を生みだすことを早くから意識していた。そもそも商人資本家は、ある場所で安く買ったものを別の場所で高く売ることで、大きな富を築いてきたのである。
 さらに産業資本は、はるか遠くの地域で産する原料にもとづいて、かずかずの新たな商品をつくりだし、それがなくては満たされない新しい欲求をつくりだし、これまでの産業を滅ぼしてきた。
 安価な商品は「どんな万里の長城をもうちくずさずにはおかない重砲だ」とマルクスは書いている。資本にはそもそも世界市場をつくりだしていく傾向がある。
加えて、運輸・情報革命が商品の流通を促進し、国境の壁をくずしていく。マルクスの時代においては、蒸気船や鉄道、港湾、運河、道路などの建設、電信や新聞の普及が、産業の発達に呼応するように進んでいた。
 マルクスはすでにこう書いていた。

〈資本は一方では、交易すなわち交換のあらゆる空間的制限を取り払い、全地球を資本の市場として征服しようと努めないではおられないのだが、他方では、時間によって空間を絶滅しようとする。資本が発展すればするほど、資本はますます大規模に空間的に市場を拡大しようとし、またそれと同時に時間によって空間をますます絶滅させようとする。〉

 空間の拡大と時間の圧縮が資本の求める夢なのだ。
 資本によって生みだされるかずかずの商品は、世界の伝統社会を解体していく先兵にほかならない。こうした資本の破壊的傾向に対抗するには、地域自体もまた資本主義的な生産様式を取り入れる以外に道はない。古びた世界が近代への扉を開くと、結果的には資本のグローバル化が進むことになる。
 その過程で発生するのが巨大な都市だ。そして、これまで支配的だった農村は都市に従わざるをえなくなる。都市には人口が密集し、生産手段が集中し、財産が集積する。
いっぽう政治は中央集権的となる。それまで独立していた地方は、ひとつの国家のもとに結びつけられ、国家を単位として、政府と国民、法典、利害関係が生まれ、近代の国民国家が誕生する。
 先に中央集権化された国家と市民社会は、それ自体、帝国主義的侵略や植民地拡大の志向を秘めていた。マルクスは自身の理論的モデルに植民地などの外的要因を組み込んでいない。とはいえ、「世界市場をつくりだそうとする傾向は、直接に、資本そのものの概念のうちに与えられている」というのがかれの基本的な考え方だった。そして、列強の暴力による植民地形成が、現地での強い抵抗に見舞われるのも必至だとみていた。
 とはいえ、『資本論』でマルクスが重視したのは、資本の空間的広がりよりも時間的持続だった。資本が拡大する秘密は、資本がじっさいに支払う以上の、できるだけ多くの超過労働時間を盗み取ることによるものだった。それによって、資本は剰余価値を獲得し、自己拡大する循環過程をえがくことになるのだ。
 ここでハーヴェイは資本の時間的循環を空間的広がりにまで拡張しようとこころみている。
 とはいえ、空間と時間という概念は一筋縄では説明しがたい。空間や時間は地図や時計で表されるものなのか、それとも文化的に規定されるものなのか。空間と時間にたいする意識は、過去200年間をとっただけでも、大きく異なっている。それは革命的な力である資本が「日常生活の、経済計算の、官僚行政の、そして金融取引の空間的、時間的枠組みを変化させてきた」からだ。
 空間と時間という概念を把握するために、ハーヴェイは「絶対的」、「相対的」、「関係的」というカテゴリーをもちだしている。それは固定的、流動的、外部効果的という規定に置き換えてもいいのだが、これについては深入りしない。いずれにせよ、空間と時間という概念がきわめて動的であることを念頭においておけばよいように思われる。
 資本はなぜ時間を圧縮し、空間を拡大しようとする傾向をもつのか。そのことを理解するには、総資本の回転をチャート化するのが、いちばんわかりやすいとハーヴェイは考えている。
 資本は消費財を生産する資本だけではない。固定財(機械や耐久財)を生産する「固定資本」もある。さらに、貨幣を生みだし運用する「利子生み資本」もあるだろう。それに流通資本を加えてもいいのだが、こうした資本の総体を総資本と名づけるならば、資本は単なる「資本」としてではなく、総資本としての運動(循環)をくり返していることがわかる。
 消費財の生産と消費のくり返しが第1次循環をかたちづくるとすれば、これに「固定資本」と「利子生み資本」がからんでくると第2次循環が形成される。それだけではない。資本主義社会は国家なしには成り立たないのだから、国家による資本主義社会への関与が第3次循環を形成する。現代の資本主義は、こうした第1次、第2次、第3次の総循環と、空間・時間のうえに成り立っているというのがハーヴェイの解釈だといえるだろう。
 もう少し詳しくみていこう。
 マルクスは、さまざまな資本がさまざまな回転期間をもつこと、さらにその流れは時間的にみれば、生産期間と流通期間に分類できることを指摘した。それでは固定資本の形成と流通はどう理解すればいいのか、とハーヴェイは問う。
 産業資本家にとっての固定資本は、何といっても機械である。この機械が最先端のものであるなら、資本家は特別剰余価値を得ることができる。だが、それはほかの産業資本家がこの機械を導入するまでのことだ。しかも、その機械を得るためにおこなった投資は機械の耐用期間のうちに回収されなければならない。そのもっとも単純な方法は定額原価償却だ。
 しかし、そうのんびりと構えていられないのは、次々と新しい機械が発明される可能性があるからだ。更新費用や機械の価値評価が変動する可能性もある。資本家はそれにそなえる資金を積み立てるか、銀行からの借り入れを想定しなければならない。しかし、機械を毎年リース契約すれば、そうした変動はそのリース料に反映されることになるだろう。
 固定資本である機械をリース契約する場合には、利子生み資本がかかわってくる。すると、とうぜん資本の空間はさらに広がってくる。機械をリースで貸与する会社は、いうまでもなく利子相当分を期待する。
 いずれにせよ固定資本の形成と利子生み資本(金融資本)とのかかわりは必至である。
 ハーヴェイは資本主義が発展するにつれて、固定資本の割合が大きくなることを指摘している。それは過剰人口を吸収するとともに、商品の量的過剰を抑制し、新たな商品やインフラを生みだす。そこに利子生み資本と国家がかかわって、日常生活の形態自体を変えていく。
 マルクスの時代においては、かずかずの機械に加え、鉄道や運河、水道、電信などのインフラもそうした固定資本だった。いまでも自動車、高速道路、高層マンション、病院など固定資本の占める割合はますます増えているといえる。日常生活にはいりこむ固定資本(たとえば電気製品)も多くなっている。すると、固定資本の循環が大きな課題となってくる。
 消費財資本と固定資本は密接にかかわり、それぞれ循環し資本の時空間を広げながら、価値の増殖をめざしている。だが、そうした時空間に「反価値」がはいりこむことは避けられない、とハーヴェイはいう。
 固定資本の規模が大きくなればなるほど、利子生み資本は債務の返済という致命的代償を要求する。しかも、固定資本が耐用期間をすぎてまで、価値を生みだしつづけるかは不確実である。はたしてどこまで利子負担をまかないきれるのかは未知数だ。
 固定資本の価値は常に減価される危険性をはらんでいる。固定資本は過剰資本と過剰労働力を吸収するテコになるけれども、いっぽうで過剰な資金を固定し、恐慌を引きだすバネともなっていく。
 資本の空間と時間はすでに飽和状態となっているのだろうか。あるいは古い資本は新しい資本に置きかわりながら、市場を淘汰していく作用をくり返しているのだろうか。だが、その作用が苛酷な現実をもたらす。1980年代以降、先進国の大半では、産業の空洞化が地域社会を破壊し、中間層や労働者階級に大きな打撃を与え、あちこちに見捨てられた産業景観や自然風景、住環境を残したことも事実である。
 資本には第3の循環も存在する、とハーヴェイはいう。それは国家財政にもとづく循環である。国家は国民に教育や職業訓練を課し、医療や年金といった社会的サービスを提供する。さらに軍や警察によって治安を維持するとともに、科学技術やインフラを促進して新たな価値の創造に寄与するといった面もある。それが、資本の総循環に深く関係していることはいうまでもない。
 こうして、ハーヴェイは、現代の経済社会(資本の時空間)を理解するには、単なる生産資本だけではなく、固定資本や金融資本、流通資本、国家財政の動きと循環をとらえることが重要だというごくあたりまえの結論を導いている。

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