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メンガー『一般理論経済学』を読む(2) [商品世界論ノート]

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 現代は欲望の時代だといってもよい。身分制と節欲の時代は、いつのまにか自由と欲望の時代へと転換した。
 メンガーは経済活動の出発点を欲望においている。ここでいう欲望とは何かギラギラした強い望みを指すというより、むしろ「何々したい」という気持ちを意味している。人は生きているかぎり、何らかの欲望をもっているといえるだろう。
 労働ではなく、欲望を出発点に置くのが、これまでとは異なるメンガー経済学の特徴である。

〈欲望はあらゆる人間経済の究極の根拠であり、欲望の満足がわれわれにとって持つ意義は人間経済にとっての究極の尺度であり、欲望の満足の確保は人間経済の究極の目標である。〉

 人間は一定の条件のもとでしか生きることができない。そうした一定の条件を確保し、常に発生する障害を解消しながら、何とか生きていこうという意志をもちつづけるのが人間なのである。
 障害や制止にともなう不快感や渇望、苦痛は、何らかの財によって解消され、解放され、沈静化され、快楽へと変わっていかなければならない。だが、その過程は「事情によってはまさしく矛盾だらけの、まちがいのもとになる表現」をとりかねないし、そこに葛藤も生じる、とメンガーは述べている。
 人間の欲望には、時に誤謬や無知や激情がつきまとう。そのいっぽうで時に欲望を抑制しようというブレーキがはたらく。空想的で擬制的な欲望が生じることもある。とはいえ、欲望が人間の本性であることは疑いない、とメンガーは断言する。
 すべての生物は欲望をもっているけれども、他の有機体と比べものにならないほど発達しているのが人間の欲望だ。とりわけ自己関心の度合いの強さに関しては、人間は他の動物と比較にならない。
 個々人の欲望だけではなく、団体(国家や結社、企業)の欲望をもっているのも人間集団の特徴かもしれない。団体の欲望というには、たまたま個人が同じ欲望をもっていることを意味しない。それは集団としての共同の欲望にほかならない、とメンガーは論じている。
 メンガーは欲望の発展を歴史的、文化的に追跡しているわけではない。とはいえ、商品世界の前提として、第一に主観的な欲望が存在することを、あたりまえのように指摘したのは、かれの業績といえるだろう。
 欲望の対象を経済の次元にしぼるならば、それは財ということになるだろう。
「財は、人間の欲望を満足させるために役に立つと認められ、そしてこの目標のために支配可能な事物をいう」
 つまり、財は事物からなり、モノだけではなくコトも含まれる。さらにメンガーはいう。
 財は欲望を満たしうる性質と適性を有し、加えて人がそれを支配できる可能性をもたなければならない。そうした条件がなかったり、失われたりすれば、財としての性格は失われる。
逆に財として認識されていないけれども、効用を有するもの(たとえば空気)や、財としての潜在性(たとえば未知の資源や)を有するものも存在する。
 私有財産制度のもとでは、権利や商標などもまた一種の財だ。
 とはいえ、財はあくまでも主観的なものだメンガーは主張する。ある人にとって有用な財も、別の人にとっては無用なもの、あるいは有害なものでありうる。兵士にとって武器は有用かもしれないが、攻撃される側からすれば武器ほど有害なものはない。

〈したがって、われわれの手中にある諸財はそれぞれ特殊な関係をわれわれとの間にもっているのであって、それは一般の財としての性質とは区別しなければならないことは明らかである。各個人あるいは特定の人々にとっては、自分たちにたいして財としての性質を基礎づける関係にある物だけが財である。〉

 このあたり、人間の主観的認識とそれにもとづく経済活動を重視するメンガーの考え方がうかがえる。
 財の種類についても論じられている。
 財が財となるには認識が決定的な契機になるというのがメンガーの考え方だ。
したがって、誤った認識が空想的あるいは擬制的な財をもたらす可能性もある。たとえばインチキな薬やあやしげな信仰物などもその例だ。
 ただし、文明が発展すればするほど、擬制財は減り、真実財が増えてくるはずだという。
 物質的な財だけではなく、非物質的な財も存在する。
「非物質的な財を無視したのでは、経済的現象の大部分はそもそも説明することができないし、まして完全な説明はなされえない」
 そもそも財は身体的だけではなく、心的な欲望を満たすのにも役立つはずであって、その意味で、さまざまなサービスや演劇の舞台、音楽活動などの非物質的な財も人間の生活に欠かせない重要な財となるだろう。
 財を消耗財と非消耗財に分けることも可能だ。食料品や飲料、さまざまな原料などは消耗財であり、ダイヤモンドや土地などは非消耗財である。機械や衣服、家具などをその中間の用役財に分類することもできる。
 さらに財を分析するさいには、財の連関を認識しておく必要がある。
 パンをつくるには小麦粉が必要だ。小麦粉のもとは小麦、そして、小麦をつくるには耕地や種子、農具、農作業が欠かせない。
 ここで直接的な消費財を第1次財と呼ぶなら、その第1次財をつくるための第2次財、第3次財、さらに高次のn次財が必要になってくる。
 高次の財が財となるのは、あくまでも低次の財を前提としている。経済が高度に発展している場合は、分業と交換にもとづいて、自分の製品を生みだすための補完財(高次財)はすぐに手にはいるのがふつうだ。
 だが、財の連関が失われると、生産に大きな影響が生じる。実際にそうしたできごとが起きるのはまれではない。メンガーはそうした例として、アメリカの南北戦争で一時ヨーロッパに綿花がはいらなくなり、工場の操業がストップし、労働者の仕事が失われたことなどを挙げている。
 また、直接消費財である第1次財が、人びとの嗜好の変化によって財としての性格を失うこともある。
たとえば、だれもたばこを吸わなくなったとすれば、どうだろう。そのことが高次財におよぼす影響は大きい。たばこの製造工場や設備、熟練労働者、たばこ農園等々へと影響は広がっていく。これは新聞や鉄道などとも無縁の話ではあるまい。
「ある低次財の財としての性質が消滅する場合には、同様の結果がそれに対応する高次財に関してもあらわれる」ということになる。

〈経済学者たちは、物が財であるのはそれが財から生産されているからであると考える傾向がある。しかしながら……実際にはまさしくその逆こそが真実である。すなわち生産物が財となるゆえに、諸財が生産のために用いられるのである。〉

 生産のための生産は実際の消費によって裏切られることになる。
 もちろん、高次の財によって低次の財が満たされるのが高度な文明社会の特徴だ、とメンガーは考えている。
 ただし、高次の財から低次の財にいたるには、時間の経過が必要である。工業製品にしても、たちどころに作られるわけではない。
「高次財の支配とそれに対応する低次財の支配との間に横たわる期間は完全に消滅することはありえない」
 そうしたことから、「高次財がその財としての性質を獲得し、またそれを主張するのは、直接の現在の欲望に関してではなく、ただ多少とも隔たった将来の欲望に関してにすぎない」という原理が導きだされる。
 経済に時間性が生じるということは、経済が不確実性にさらされていることを意味している。
たとえば、一定の土地と種子、肥料、労働力、農具をもっていても、そこから毎年何トンかの小麦を生産できるとはかぎらないし、かならずそれがどこかに引き取られるともかぎらない。
 こうした不確実性は、あらゆる生産に共通してつきまとう。
 人間の経済には不確実性がつきものであり、そのことが経済にとっては大きな意味をもつことになる、とメンガーは述べている。
 近代の経済社会は、不確実性に満ちた欲望と財の組み合わせの上に成り立っている。
 われわれはスミスやマルクスとはまるでちがう経済学の世界と出会っているといえるだろう。
 つづきはまた。

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