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メンガー『一般理論経済学』を読む(3) [商品世界論ノート]

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 人間の欲望と財はどのように対応しているのだろう。
 メンガーはここで人間の欲望を満たしうる財の量全体を「需求」と名づけ、これにたいし現存する財を「支配可能な財の数量」と呼んでいる。
 われわれが求めるのは直接に消費対象となる第1次財である。だが、第1次財の背後には第1次財をつくるのに必要となる何層もの(高次の)間接的な財がひそんでいることはいうまでもない。それは1冊の本をみてもわかるだろう。
 人間の欲望は自然発生的なもので、意志の力や外的な条件によっては完全にコントロールできない、とメンガーは考えている。欲望はあらゆる方向に広がっていく。
 とはいえ、欲望は満たされなければならない。それには、さまざまな財との組み合わせが可能である。ここから需求は現に与えられている財にたいする「選択的な決定」とならざるをえないというメンガーの定理が導きだされる。
 すると、直接的な需求と直接的な財数量は、はたして確定できるのかという問題がでてくる。
 まず需求についていえば、少なくとも現時点の欲望を満たすだけなら、食料や飲料、衣服、住居関係にどれだけのものが必要かを確定することは可能だ。
 だが、それだけではすまない。人間は将来に向かって生きているからだ。しかも、それは不確実性に満ちている。
 不確実性に満ちた将来を想定するなら、需求を現在の直接的需求だけに限定するわけにはいかない。戦争や地震、火事、病気、家族の将来、その他もろもろの不安が、需求の確定をむずかしくする。人間の欲望は、将来の不安をできるかぎり乗り越えることにも向けられているからだ。
 さらに、欲望が無限に発展する可能性を考えれば、需求の確定はそれこそ不可能のようにみえてくる。とはいえ、一定の期間をとれば、1次財にたいする需求は一定の量に限られるとメンガーはいう。
 いっぽう、支配可能な財数量、言いかえれば財のストックのほうはどうだろう。これも一定の時間をとれば、その数量は与えられ、確定されているといえるだろう。
 将来を考えれば、不確実性が増大することはいうまでもない。だが、重要なことは、われわれが将来、直接支配可能となる財数量について、現時点で常に先行的に判断を下していることだ、とメンガーは書いている。現在の生活経験を基準として、将来の財のストック水準が見定められているといってよい。
 1次財の需求と数量への考察は、とうぜん間接的な高次財の需求と数量へと拡張されなければならない(紙の本をつくるには紙が必要だ)。
 間接的な高次財への需求は、1次財の需求によって制約されている。高次の財への需求は、ひとつ低次の財への需求を反映するのであって、高次財の需求が単独にあらわれるわけではない、とメンガーは述べている。
 とはいえ、高次財への最終的な需求が常に満たされるとはかぎらない。靴の需求が1万足あったとしても、じっさいには5000足しかつくれないこともある。支配できる(提供できる)高次財(材料、道具、労働力など)がかぎられているからである。
 メンガー自身は「われわれが高次財への有効な需求をもちうるかどうかは、補完的な諸高次財の対応した数量をわれわれが支配できるかどうかによって制約されている」と論じている。
 たとえば、広大な農地をもっていても、そこにまくだけの種子がないとか、逆に種子があっても農地がないとするなら、いくら高次財としての小麦が求められていても、有効な需求は制限されてしまうことになる。
 ここで選択と予見がはたらく。直接的な需求にもとづいて、どのような間接財を選択するかは自由である。さらに直接的、間接的を問わず、将来の需求を予見することによって、技術の発展がうながされることになる。そのことが制約の突破に結びついていく。

 メンガーは人間の経済を考察するにあたっては「時間」が大きな位置を占めることを強調している。

〈われわれの生活は、人間一般に、ことに各個人にわりあてられた時間の範囲内で実現される一つの過程である。われわれの欲望は徐々にしか現実の世界の中に現われず、かくしてこれらの欲望は、具体的な形をとって特定の時間のみに現われてくる。各人の需求はすべて、特定の期間をとってみれば、特有の大きさなのである。〉

 ある時間、あるいは一定の時代において、人間の需求、人間の支配可能な財、技術は、その時点での特有の大きさと質をもっている。それは移ろいやすいものだ。また次第に大きくなり、発展していく性格をもっている。
 さらにいえば、人間の経済においては、特定の量の需求を満たすためには一定の時間を要する。その典型的な例が穀物だ。穀物の成育にはそれなりの時間がかかる。
学校教師を増やすことが求められる場合も、有能な人材はたちどころに生まれるわけではない。長い時間の訓練が必要だ。
 一般に、将来の1次財を満たすためには、早い時期に高次財の準備がなされなければならない。
 こうしたことを前提として、「需求と支配可能な財数量は、人間経済のどのような時期においても、特定の量としてたがいに向かい合っている」ということがいえるのだ。
 ただし、このことは需求が常に満たされることを意味しない。低次財と高次財には、その形成に時間差があり、したがって不確実性がともなう。さらに、ある財の需求が満たされないときは、別の財が選ばれるといった選択の論理もはたらく。

 さらに、需求は個人の需求だけではなく、一国民の社会的な需求としてとらえなければならない、とメンガーは主張する。
 社会的需求とは、社会全体の欲望を量的にも質的にも完全に満足させるのに必要な財の総体を指している。
 とはいえ、現実に国民需求の充足を自身の任務として経済活動をおこなう主体は存在していない、とメンガーはいう。国家は国家機関にしか関与していない。実業界はみずからの利益に関心をもっても、貧窮にあえいでいる人びとの需求には関心をもたない。
 それでも、国民経済は社会全体の需求を確定するという課題を放棄できない、とメンガーは述べている。社会的需求には諸個人の需求だけでなく、社会の共通の利益(たとえば街路、公園、治安、環境)なども含まれている。さらに、将来の不確実性にたいする需求も配慮しなくてはならない。いずれにせよ、社会全体の需求をとらえるのが重要であることをメンガーは強調している。
 それは支配可能な財数量についてもいえる。財のストックとしてあげられるのは、国家資産と個人資産だが、真の意味での国民資産は把握されていないと述べている。
 真の国民経済が存在するものとすれば、国民にとって支配可能な諸財がどの程度なのかがとらえられなければならない。ところが関心がもたれているのは、もっぱら直接的な供給と需要だけときている。
 ここでメンガーが関心をいだいているのは国民全体の財のストックだといえるだろう。こうした財は幅広く交換されることによって、国民全体の需求に応えることができる。
 国民経済は、国家が国民の需求を把握すると同時に、社会全体の財のストックを認識し、自由な交換をうながすことでしか成立しない、というのがメンガーの基本的な考え方だったように思える。

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