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ロバート・ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』 (まとめ、その2) [商品世界論ノート]

   6 戦後の衣食住

 本書では1870年から2014年までのアメリカ経済史の流れが、1870〜1940年、1940〜2014年の約70年で二分されている。
 しかし、1870年から2014年までの経済発展をみるには、1940年で二分するよりも、(1)1870〜1920年、(2)1920〜1970年、(3)1970〜2014年と50年ごとに三分したほうがよいかもしれないということを著者も認めている。
 それによると、(1)が始動期、(2)が加速期、(3)が減速期になる。
(2)の時期は、電気と内燃エンジンという19世紀末の発明(第2次産業革命)が、新たに実用化された商品を生みだし、それが普及した時期と重なる。とりわけ1940年代後半から1960年代にかけアメリカ経済は好調で、エアコン、高速道路、飛行機、テレビが人びとのライフスタイルに浸透していった。日本はおよそアメリカの20年遅れで、高度成長を経験したとみてよいだろう。
 第2次産業革命のもたらした範囲は広く、およそ人間活動の全域におよぶ。すなわち、この時期に、食料、衣服、住宅、輸送、娯楽、通信、情報、健康、医療、労働環境の面で、人はこれまでにない多くの満足すべき成果を得たのである。
 だが、年代区分はいずれ恣意的とならざるをえない。
 本書第1部では、1870年から1940年までの生活水準の発展をみてきた。
この時期、都市部では、ほぼどの家庭にも電気、ガス、水道が普及した。いわば都市がネットワーク化されたのである。遅ればせながら農村部でもネットワーク化は進み、農業の生産性は大幅に上昇した。
 全人口に占める都市人口の割合は、このかん25%から57%に上昇している。1人あたり実質GDPは、1870年は2770ドルだったが、1940年には約3倍の9950ドルになっている。だが、数字に表れる以上に、この70年は生活の質の変化がもたらされた時代だった、と著者はいう。そのことはこの時期の平均余命の伸びをみても明らかで、その分、近代化が進展したのである。
 これに対し、1940年から2014年はどうか。1940年から1970年まではたしかに高成長がつづいた。さらに、1960年代末に第3次産業革命が発生した。すなわちIT革命である。IT革命は、その後、通信や娯楽の面に大変革をもたらすことになる。
 だが、アメリカでは1970年からかえって成長が鈍化する分野が増えてくる。生活水準はむしろ伸び悩んでいる。1人あたりGDPの伸び率も低迷した。経済効果の面でみるかぎり、第3次産業革命は第2次産業革命ほどの成果をもたらしていない。その意味をどうとらえればいいのかが、後半の課題になるだろう。
 本書はここから第2部(日本語版では第2巻)にはいる。引きつづき、それを追ってみる。

 最初は、1940年から2015年までの衣服住、すなわち生活の基本要素についてである。
 まず食品をみると、1940年のアメリカでは肉の摂取量が減り、食品の種類が多様化し、野菜やパスタ、シリアルの消費が増えている。
 すでに1930年代からチェーンストアに代わって、スーパーマーケットが繁栄しつつある。戦争の時代は、砂糖や肉、果物、缶詰などが配給制になっていたが、配給制が解除されると、食卓は一気ににぎやかになる。
 1940年から50年にかけ、平均収入に対する家庭内の食費の割合は25%程度、外食費の割合は7%にのぼっていた。食費の割合が大きいのは、この時期、実質所得が落ちこんでいたためだ。だがその後、収入が増えてくると、食費の割合は徐々に減りはじめ、2000年には家庭内の食事がほぼ8%、外食の割合はほぼ5%になる。1960年から80年にかけては、家庭内の食事から外食へという流れが強くなった。
 肉類の1人あたり摂取量は一時減ったが、2010年の摂取量は1870年と変わらない。戦後の特徴は牛肉が多少減り、鶏肉の需要が増えたことだという。油脂類ではラードがほぼ姿を消し、サラダ油やコーン油、オリーブ油の需要が増えた。マーガリンの売り上げも伸びている。果物と野菜がますます重要になるとともに、戦後は冷凍食品の消費が急増した。
 1930年から60年にかけて、食品を買うのはスーパーマーケットが中心となった。消費者はひとつの店で、さまざまな食品を買い、その代金をレジでまとめて支払う。バーコードによる値段の読み取りができるようになるのは1980年代からである。それまでは会計係が商品に付けられた値札をみて、レジに値段を打ちこまなければならなかった。
 食品の種類は1980年代から2015年にかけて増え、選択肢が多様化した。著者によれば、平均的なスーパーの在庫は1950年に2200品目だったが、1985年には1万7500品目に増えたという。しかし、スーパーが大きくなりすぎて、かえって買い物がたいへんになると、便利なコンビニがはやるようになる。
スーパーマーケット業界は、1990年以降は、より高級志向の食料品小売チェーンとより低価格の大型量販店にはさまれて苦戦している。
 戦後は多くのファストフード店が生まれた。これは家計に余裕がでたことと、女性の労働参加が進んだことが関係している。
 現在のファストフード店は、まるで組み立てラインができているように工場さながらの効率のよさを実現している。
 アメリカでは、1945年から1975年にかけ、所得格差が縮小した。その後、この「大圧縮」の時代は逆転し、いまでは上位層、中間層、下級層のあいだで格差が広がっている。3つの層では、食べるものにも「天地の差」があるという。
 アメリカ人の1日あたり摂取総カロリーは、1970年以降20%以上増大した。原因は揚げ物類にあり、その大半はファストフード店でとられている。貧困層のあいだでは肥満が社会的問題になりつつある。「貧困家庭の子どもは暇をもてあまし、テレビの前に座って脂肪量とコレステロール値を高める安価なファストフードを食べている」
 肥満を助長するのが、ビデオゲームだ。肥満が糖尿病や心臓病を引き起こし、今後、平均余命が短くなることを著者は懸念している。
 次に衣を取りあげよう。
 1940年から2010年にかけ、消費に占める衣料品の割合は大きく減少し、10%から3%へと低下した。「他の消費財やサービスに比べ、衣服は長期にわたって一貫して安くなった」という。
 とりわけ1980年以降は、輸入品が国産品に取って代わった。その結果、消費に占める衣服の割合が低くなり、消費の対象が衣服以外に向かうことになった。
 素材面でいえば、1940年以降はこれまでの綿やウール、絹に加えて、化学繊維が大きな割合を占めるようになる。化学繊維の品質は次第に向上した。衣服の嗜好も変わった。堅苦しいものより、カジュアルウェアやスポーツウェアが好まれるようになった。
 衣料品はアジアからの輸入品が主流になったため、アメリカではアパレル産業の雇用が大きく失われた。いったんあけられたパンドラの箱は、もはや元に戻せない、と著者も感じている。
 最後に住宅について。
 アメリカの都市化率は1940年の56.5%から1970年の73.4%に上昇する。それにともない、現代的設備の整った住宅が普及した。1950年にはアメリカ全土に電力網が広がり、屋内の水洗トイレやバス、シャワーも行き渡る。1970年から2010年にかけては空調設備が普及した。
 戦後は世帯数に対する住宅着工件数は長期にわたって低下しつづけている。それは建築費が上昇したことと、人口増加率が徐々に低下していることと関係している。アメリカの住宅は戦後、規模も大きくなり、部屋数も増え、設備も充実した。さらにいえば、伝統的なリビングルームや正式なダイニングルームを小さくして、ファミリールームを広げる傾向が強まったという。
 設備面でいうと、1940年の段階で、冷蔵庫はまだ44%、洗濯機は40%の普及率にとどまっていたが、1970年にはほぼ100%を達成。1952年にオーブンやレンジをもつ家庭はまだ24%だったが、1990年には99%となった。1980年に8%にすぎなかった電子レンジはあっという間に普及し、2010年には96%に達した。食洗機は2010年時点で60%の家庭が所有するようになった。
 冷蔵庫は急速に進化した。大きさはほぼ2倍になり、食品の保存機能が高まり、安定した冷凍機能をもつようになった。消費電力も大幅に減る。修理の必要はほとんどなくなった。進化したのは洗濯機も同じだった。容量が大きくなり、全自動化が進んだ。
 戦後の特徴はエアコンが普及したことである。エアコンのエネルギー効率は急速に改善された。重量も軽くなり、設置が容易になり、コストも安くなったことから、急速に家庭にとりいれられた。工場でもエアコンは仕事の効率を高めた。そのため、企業が工場を北部から南部に移すことも可能になった。
 電子レンジは1965年に初めて商品化されたが、その後、計量化と小型化が進み、電子制御機能も加わり、値段も安くなった。そのため、一斉に普及する。しかし、いずれの家電も、1990年以降、品質の向上はほぼ頭打ちとなった、と著者はいう。
 戦後の住宅で目立つのは、郊外化とスプロール化である。自動車の普及にともない、郊外では大規模土地開発が進むいっぽう、都市の中心にはスラムが形成された。郊外には巨大なショッピングモールもつくられていく。
 ヨーロッパでは、都市のスプロール化は生じていない。それについて、著者はヨーロッパの土地利用規制を指摘する。それが都市中心部を保護し、郊外のスプロール化を防いでいる。とはいえ、この土地利用規制が、「経済全体の生産性や一人あたり実質生産性の低下という大きなコストになっている」面もいなめないという。
 アメリカで深刻な問題となっているのは、旧式の工場をかかえるラストベルト地域が衰退したことである。北部の工業地帯から多くの人口が南部や南西部に移動していった。シカゴやフィラデルフィアの一部、クリーヴランドやデトロイト、セントルイスの中心街はゴーストタウン化している。黒人差別がスラム化を促進している面もある。「貧困層の多くは都市のスラムと食の砂漠から抜け出せないままでいる」。地域格差が教育格差を助長していることも大きな問題だ、と著者は指摘する。

   7 自動車、飛行機、テレビの時代

 20世紀がアメリカの世紀になったのはなぜか。そして、それはどこに向かおうとしているのか。これが本書の問題意識である。アメリカを追ってきた日本にとってもけっして無縁のテーマとはいえない。
 現代が自動車と飛行機の時代であることはいうまでもない。
  20世紀に乗用車やトラック、バス、航空機、トラクターなどが実用化されたのは、1879年に発明された内燃エンジンのおかげである。アメリカでは1929年に自動車の世帯保有率がすでに90%に達していた。スーパーマーケットが登場するのも、自動車の利用が日常化したからである。これにたいし、日本でモータリゼーションが本格化するのは1960年代にはいってからだ。
 1958年から72年にかけては、全米に多車線の高速道路網が張りめぐらされる。航空技術も発達し、ジェット機が各地を結ぶようになった。
 戦後、アメリカではほとんどの都市で路面電車が廃止され、都市交通の中心はバスと車になった。各家庭では1950年代から60年代にかけ、2台の乗用車をもつのがふつうになる。だが、1970年以降はその伸びも収まり、自動車社会への大転換は終了する。
 自動車による1人あたり走行距離が鉄道を追い抜くのは1920年、飛行機が鉄道を追い抜くのは1956年である。鉄道の1人あたり旅客輸送距離は、1950年の360キロメートルから2012年の51キロメートルへと落ちこんでいる。
 乗用車とトラックの販売台数は、1929年に530万台、1941年に470万台、1950年に790万台、1955年に910万台に達した。自動車のモデルも増え、品質も向上していく。キャデラックやリンカーンが大企業の重役の車だとすれば、シボレーは新興の労働者階級の車だった。
 1950年から2010年にかけ、自動車の価格は相対的に上昇したが、その品質も大幅に向上している。安全装置や汚染防止装置も備わった。燃費も改善され、車は安全性が増し、より信頼に値するものとなった。政府がインフラに投資したことも手伝って、自動車による死亡率も減っていく。メンテナンスや故障修理の頻度や費用も減った。
 アメリカの自動車業界における重要な変化は、1970年代半ばから輸入車が増加したことである。その割合は1987年に42%というピークに達した。輸入車が増えた原因は、1973年と79年のオイルショックで、ガソリン価格が上昇したことである。なかでも日本車はデトロイトで製造される車にくらべ、小型で燃費がよく、品質もすぐれていた。
 州間高速道路の建設を決めたのは1950年代のアイゼンハワー政権である。この法律では費用の90%を連邦政府が、残りの10%を州政府が負担することになった。またガソリン税の税収も道路建設に組み入れられた。
 高速道路の建設はさまざまな経済効果をもたらした。最大の効果は輸送コストが削減されたことである。また人と物の移動がより活発になった。観光業界にもたらした影響も大きい。だが、そうしたメリットも1970年代以降は徐々に失われつつある、と著者はいう。
 いっぽう、1940年当時、航空業界はまだ黎明期にある。ジェット機が就航したのは1958年。それ以降、電子制御システムが導入され、燃費がけたはずれによくなり、機内エンターテインメントが導入された。だが、そのことを除いて、航空機のスピードや快適さ自体にさほど改善はみられない。
 ジェット機は画期的だった。1936年に、飛行機は途中3回給油しながら、西海岸から東海岸まで15時間でアメリカ大陸を横断したものだ。いまでは、ロサンゼルス・ニューヨーク間は5.6時間で結ばれている。
 航空機がすっかりジェット機に入れ替わったのは1960年代末である。それにより飛行時間は短縮された。しかし、それ以降、空の旅はけっして快適になっていない、と著者はいう。乗客は保安検査場に並ばされ、窮屈な座席に押し込められている。
 飛行機が大衆化し、だれでも乗れるようになったのは事実である。その安全性も向上した。製造上の欠陥、航空管制、機体整備も改善され、いまや空の旅はより安全になった。
 意外なことに距離あたりの航空運賃が相対的に下落したのは、60年代末のジェット機導入以前だ。それ以降、運賃は穏やかにしか下落せず、1980年以降は下落していないという。
 速度と快適さの点でみると、ジェット機での旅は1960年代以降、特段の変化はない。変化といえば1970年代末から規制緩和が進んだことである。航空会社はどの路線にも自由に参入できるようになった。すると、大きな航空会社が小さな会社を合併し、大会社どうしの競争が激しくなり、運賃体系はより複雑になった。だが、運賃そのものはけっして安くならなかった。
 その代わり、各社はマイレージ・サービスを導入するようになった。複雑な料金体系は、かえって格差を生み、空の旅の質を低下させている。「かつて乗客は、航空券の代金を支払いさえすればよかったが、今や各社とも乗客に追加料金を支払わせ、少しでも収益を増やそうとしのぎを削っている」と、著者はいう。

 次はテレビと電話の話だ。
「1940年以後の情報と娯楽の世界にはテレビが君臨した」と、著者は書いている。商業放送がはじまったのは、第2次世界大戦後(ちなみに日本でのテレビ放送開始は1953年)。テレビはまたたくまにリビングにはいりこみ、それによりアメリカ人の生活は家庭中心になっていったという。
 テレビの前段階にはラジオがあった。だが、テレビが家庭に浸透したあとも、ラジオはテレビの隙間で生き残った。それは映画も同じだ。映画はけっしてなくならなかった。いまではテレビやパソコン、スマホでも映画がみられるようになった。
 テレビ自体も進化する。1970年代半ばにはカラーテレビの時代になり、大型化し、ビデオやDVDと一体化し、さらにデジタル時代がはじまる。
 電話はまず長距離通話料金が大幅値下げとなるところからはじまり、1980年代に携帯電話が登場して持ち歩けるものになり、いまではスマートフォンを使えば通話だけではなく、ウェブ検索やメールの受信、音楽や映画の鑑賞もできるようになった。スマホやソーシャルメディアにより、1970年以降、通信分野の進化はむしろ加速している。
テレビの開発には1870年以来の前史があるが、テレビの商業放送開始は戦後になってからで、戦時中はもっぱらラジオが世界の動きを伝える大きな役割をはたしていた。そのころは映画産業も活況を呈し、「アメリカ人の娯楽費の23%が映画に費やされていた」ほどだという。
 テレビが普及するのは1950年以降だが、アメリカではテレビのある世帯は1950年で全世帯の9%にすぎなかった。しかし、わずか5年後には64.5%に達し、1960年には90%以上の世帯に普及した。もちろん、それはテレビ放送の視聴可能エリアが広がり、番組が増えたからでもある(日本はこれを追いかけている)。
 全世帯に普及する前は、アメリカでも人びとは公共の場や食堂、あるいは近所の家でテレビを見ていた。子どもにせがまれてテレビを買う家庭も多かった。購入理由でもっとも多かったのは、スポーツ観戦である。その後、ドタバタ喜劇もおおはやりとなり、人びとをなごませようになった。2005年にアメリカではテレビの1日あたり平均視聴時間は8時間に達しているという。
 テレビは世論を左右する力をもつようになった。それが典型的にあらわれたのが、1960年のニクソンとケネディの大統領選テレビ討論だった。このとき、ケネディは視聴者に圧倒的な好印象を与えた。公民権運動にテレビがはたした影響も大きかったといわれる。
 テレビの影響で、戦後、映画の観客動員数は激減した。そのため映画はあの手、この手を使って、観客を引きつけようとした。1990年代半ばには巨大シネマコンプレックスが誕生するが、観客数自体はけっして増えていない。それでも映画は生き残った。映画の大画面はテレビにはない迫力や醍醐味、洞窟の快楽めいたものを味わわせてくれるからだ。さらに収入面で映画が生き残ったのは、映画館での上映のあと、テレビでも放映され、あるいはDVDやNetflixなどでも見られるようになったことも大きいという。
 ラジオもテレビの隙間をぬって生き残った。ラジオを聞くことはきわめて個人的な行為となり、そこからは、それまでとはちがう楽しみや憩いが生まれた。
 音楽の世界も激変する。終戦から30年はまだレコードプレーヤーの時代だった。レコードは78回転から33回転のLPへと進化し、さらにシングル盤も登場した。磁気テープレコーダーは録音可能時間が長く、しかも編集が可能で、プロのあいだで広くもちいられていた。60年代に登場したカセットテープは、テープレコーダーとの組み合わせで、音楽の幅を広げ、通勤の車のなかでも、好きなアルバムを聴くことができるようになった。ウォークマンが出現すると、どこにでも音楽を連れていけるようになった。
 画期的なのはコンパクトディスク、つまりCDの発明だった。1978年から88年にかけレコードの売り上げは80%減少する。CDにとって代わられたのだ。しかし、21世紀にはいると、そのCDもiPodとデジタル音楽のダウンロードによって売り上げを激減させることになる。
 携帯できることが重視されたのは音楽の世界だけではない。電話も同じだった。交換手なしに直接ダイヤルで電話が通じるようになったのは1943年以降である。1951年にはニューヨーク−カリフォルニア間で、ダイヤル電話がつながるようになった。電話が自動化できたのは、1948年にトランジスタが発明されたためだという。「自動化によって効率性が向上し、オペレーターを使う必要性が減ったおかげで、電話が素早くつながって利便性が上がり、通話料も安くなった」
 セル方式の移動電話が登場するのは1970年代になってからである。最初は自動車電話で、レンガのように大きかった。携帯電話が普及するのは1990年代末になってからだ。2000年以降、携帯電話は通信手段として固定電話を抜くようになる。さらにスマホの登場は、人びとのライフスタイルを大きく変えようとしている。いまでは固定電話をやめる家庭も増えているという。
 1960年代からはニュース、とりわけ速報で映像を伝えるテレビニュースが大きな威力をもつようになった。新聞購読数は戦後に頂点を迎えたあと、緩やかに減少しはじめる。しかし、記事に分析を織り交ぜるなどして、独自の工夫もこらし、生き残りをはかった。
 1990年代末になると、インターネット配信があらわれ、テレビと新聞の競争相手となった。スマホやタブレットをもつ人の大多数は端末でニュースを読むようになった。ブログやチャットも、人びとの関心を引きつける情報源となった。
 娯楽と通信が進歩するスピードは鈍化していない。「デジタルメディアへ向かう流れは1990年代に生まれ、過去15年に加速した」。
 2001年に登場したiPodは、コンピュータにダウンロードして音楽を再生できる装置だった。アナログAV機器からデジタルAV機器への移行は段階的に進んだ。YouTubeやNetflixのような映像ストリーミングサービスも登場した。Kindleをはじめとする電子書籍は、デジタル書籍へと向かう流れを生みだした。スマホが1台あれば、単に電話をするだけではなく、音楽を聴いたり、ニュースを見たり、メールを送ったり、情報を検索したりすることもできるようになった。スマホのアプリは爆発的に増え、ゲーム会社やソーシャルネットワーク会社に大きな成功をもたらしている。
 こんな時代がくるとは、マルクスもケインズも予想していなかっただろう。

   8 コンピュータ社会の到来と生活環境

 1960年以降、コンピュータの性能は猛烈な勢いで向上したが、コンピュータは経済成長にさほど寄与しているわけではない、と著者は論じる。
 コンピュータははたして何をもたらしたのだろう。ひとつは単調な定型作業の省力化である。電子タイプライター、銀行のATM、スーパーなどのバーコードスキャナーなどが初期の成果だった。
 1980年代以降はパソコンが身近なものになった。ワープロや表計算ソフトは画期的だった。ゲームソフトも人気を博した。電子メールは便利な通信手段となった。電子商取引やウェブ検索、音楽や映像の鑑賞も手軽にできる。ニュースもパソコンでみられるようになる。フェイスタイムなどでの無料通信も可能になった。それは驚くべき進化のように思えた。
 1970年代前半までは、まだスーパーコンピュータの時代だったが、いまではノートパソコンがかつてのスーパーコンピュータの能力をはるかに凌駕している。半導体の集積密度が2年ごとに倍増するというムーアの法則(予想)は、これまでほぼ実現されてきた。モニターやマウス、計算能力、パソコンの操作方法も急速に改善された。だが、2006年以降は、パソコンの進化も頭打ちになっている。
 電子計算機が構想されたのは1940年代である。最初は軍事目的だった。だが、それはあまりに巨大で、莫大な電力を要した。戦後、アメリカン航空は増えつづける旅客の事務処理をする必要から、新たなシステムを開発した。生命保険会社も顧客データを管理するため、1950年代に初の商用コンピュータを導入する。銀行も小切手処理のためにマシーンを開発し、クレジットカード、ATMの導入へと進んだ。バーコードは1970年代半ばまでに利用できるようになっていたが、実際にこれがスーパーマーケットで活用されるのは1980年代になってからである
 ゼロックスは1959年にコピー機を開発し、1960年代から70年代にかけ、屈指の人気企業となった。タイプライターはふつうの家で使われていたが、1964年にIBMが最初に電子タイプライターを開発する。それからワープロ専用のミニコンピュータへと突きすすんでいった。
 パソコン革命がはじまる。1975年にビル・ゲイツらはマイクロソフト社を設立する。スティーブ・ウォズニアックは友人のスティーブ・ジョブズと協力してアップル・コンピュータを生み出した。1990年代からはインターネットによって、ハードウェアとソフトウェアがつながり、電子メール通信がはじまり、さらに数年後には一般向けのウェブブラウザが登場する。
 インターネットを開発したのは、もともと国防総省だった。だがインターネット革命をおこしたのは、1995年に発売されたウインドウズ95である。とはいえ、このころのインターネットはワープロと電子メール以外、ほとんど使い物にならなかった。
 しかし、それ以降、インターネットは急速に普及する。人びとはパソコンを通じて、航空券やホテル、レストランを予約し、音楽を聴き、映像をみ、情報や知識を得、友達と交流できるようになった。ソーシャルネットワーキングも広がった。
 インターネットは流通業界に革命をもたらし、消費者に計り知れない恩恵を与えた。1994年に創業したAmazonは当初、書籍を販売していたが、いまではアメリカだけで2億3200万の商品を扱っているという。アマゾン革命のおかげで、大勢の顧客は幅広い選択肢を手に入れた。だが、そのおかげで多くの書店が閉店し、ショッピングモールの衰退をもたらすという現象も招いている。
 コンピュータとインターネットが圧倒的な恩恵をもたらしたのはたしかだ。そのいっぽうで、ネットいじめ、プライバシー侵害、オンラインゲームへの依存、子どもの集中力や読み書き能力の低下などの弊害をもたらしていることもまちがいない。商品には利便性と裏腹の弊害や危険性、環境破壊などを伴うことも忘れてはならない。

 次に保健と医療の発展をみておこう。
 まず平均余命に関して。1870年から1940年にかけては乳幼児の死亡率が低下したが、これにたいし、1940年から2010年にかけては高齢者の死亡率が低下したのが特徴だ。平均余命の延びるペースは、とうぜんながら落ちてきた。
 医療の重点は、感染症の撲滅から慢性疾患の治療へと移った。健康状態の改善ペースは緩慢になるいっぽう、医療費負担は増え、アメリカではとりわけ医療制度によってもたらされる格差が問題になっている。
 平均余命は1950年まで急速に延び、その後は緩慢になっている。20世紀の最大の死因は心臓病だったが、1960年代以降は死因に占める心臓病の割合は減り、その代わりがんが増えている。ほかに多いのは呼吸器疾患と脳血管疾患、そして最近はアルツハイマー病である。
 フレミングによってペニシリンが発見されたのは1928年だが、これが量産され、手軽に買えるようになったのは戦後になってからである。ほかの抗生物質も次々と現れ、量産によって値段も安くなった。結核はほぼ撲滅されるにいたった。
 戦時下の研究から、蘇生法や輸血技術、人工関節などの医療技術が生まれた。ポリオワクチンも開発された。
 心臓移植手術は1960年代後半にはじめて行われたものの、生存率は低かった。いまでも、まれにしか実施されない。それよりも心臓病のリスク要因となる高血圧やコレステロールの管理と治療が進む。さらにペースメーカーの埋め込みや心臓カテーテル法、冠動脈バイパス手術が広く用いられるようになっている。
 20世紀にがんは増加の一途をたどったが、その対策は外科手術と放射線治療が中心で、戦後になって化学療法が加わった。1970年代にはCTスキャンによるがんの早期発見も可能になった。しかし、70年代以降、がん治療の技術そのものはさほど進歩していない。
 1980年代にはエイズの蔓延が問題になった。アメリカでは1995年に50万人以上がエイズに感染し、30万人が死亡している。だが、抗レトロウイルス療法が開発されるとともに、エイズの進行を抑えることが可能になった。
 1960年以降、たばこは健康に害をもたらすという意識が高まった。幅広い啓蒙活動も功を奏して、その後、たばこの消費量は減少の一途をたどる。とはいえ、アメリカではいまでも成人の喫煙率は18%近くで、高止まりしている。
 最近はメンタルヘルスの面の取り組みも進んだ。大気汚染にたいする意識も高まっている。
 死因に占める割合としては、事故と暴力も見逃せない。自動車事故を除く事故による死亡率は、1940年には10万人あたり48人(自動車事故を含むと70人)という割合だったが、1990年には10万人あたり19人(同35人)に減った。しかし、2000年以降は逆に増えはじめ、2011年には30人(同40人)になっている。
 これはアメリカでは、殺人をはじめとする重大犯罪の件数が減っていないことを意味している。そのいっぽう、1970年代から、レイプやドメスティックバイオレンスなど女性や子どもにたいする暴力が強く非難されるようになったこともまちがいない。
 医療の専門化は戦後の特徴である。医薬品も医師の処方によるものが増えた。医療分野ではCTやMRIなどの画像診断システムが開発された。ゲノム技術は急速に進んでいる。再生療法のひとつとして幹細胞研究も進められている。だが、それらはまだ本格的な臨床段階にいたっていない。
 戦後、病院は急速な発展を遂げた。各地に病院が建設され、医師や設備も増強され、多くの患者が病院を訪れるようになった。だが、それとともに医療費も増大した。その効率性が見直されることはあまりなかった。地域住民の啓発や予防などの活動もあまりおこなわれなかった。「1970年代から1980年代にかけて、病院の姿勢は営利志向に傾いていった」と、著者はいう。
 現在の問題は慢性疾患をもつ高齢者が増大していることである。いまの70歳は検査や管理を受けつづけ、アルツハイマー病にかかる可能性と向き合っている。高齢者は入退院をくり返しながら余生をやりすごしているのが現実だという。
 1960年代には経口避妊薬が一般でも使用できるようになった。これにより女性は出産の時期と頻度を選ぶことができるようになり、女性の労働参加率が高まった、と著者はいう。
 たいていの先進国は国民皆医療保険を採用しているのに、アメリカはこれを採用していない。医療保険に加入している人の割合は2010年時点で84%だが、アメリカの医療費はイタリアやイギリスの2倍以上、日本の1.8倍になっている。高コストと非効率が問題だ。
「他の先進国では、医療保険は雇用主の提供するものでなく、市民の権利のひとつととらえられ、国民皆保険の方向へ向かっていたが、アメリカはその流れに逆行していた」と、著者は指摘する。

 最後に1940年以降の職場と家庭の労働環境の変化をみておこう。アメリカはすでに農村社会から都市社会への移行を完了していた。
 1940年段階で、工場の作業環境はかなり改善されている。職種としては事務職と販売職が増えていた。労働時間も週40時間となっている。家庭の労働環境も改善され、電気、水道、ガスが普及し、ほぼ半数近い家庭が電気冷蔵庫や洗濯機をもつようになっていた。
 ベビーブームのあいだ、女性は子育てに忙しかったが、1960年ごろから労働に続々と参入するようになる。
 製造業の就業者は1953年に労働力人口の30%に達したあと、1980年代にはいると急激に低下する。機械が労働に取って代わり、輸入品が押し寄せるようになったためである。2015年には製造業就業者の割合は労働力人口の10%まで低下している。安定した雇用が失われたことで、ブルーカラーの生活は苦しくなった。
 労働環境が改善されたことで、若年層は高校に行くのがふつうになった。1970年には高卒率は70%に達した。だが、それ以降は頭打ちになっている。貧困家庭出身者のなかには、高校を卒業できず、最低賃金レベルの単純労働を余儀なくされる者も多い。
 大学卒業者の割合は増えたが、その40%が大卒向けの仕事をみつけられないでいる。授業料が高騰するいっぽう、卒業してからも学資ローンに苦しむ若者も少なくない。
 1940年以降、高齢者の生活も一変した。年金制度により、年金の支給開始年齢になれば退職することも可能になった。とはいえ、いまでは「退職後の人生が長くなり、将来の社会保障費の財源をどう確保するかという頭の痛い問題が持ち上がっている」。
 1953年には農業労働者の割合が10%を切った。農作業を農業機械が代替するにつれて、農業就業者の割合はさらに減り、2000年以降はほぼ2%の水準となっている。
 労働者の雇用は、農業やブルーカラーからホワイトカラー中心に移行した。20世紀後半には中産階級の割合が大きくなった。製造業が衰退するものの、サービス業が成長したのだ。そうしたなかで製造業や鉱業でも安全性が向上する。空調設備の普及は労働環境を改善し、生産性を増大させた。
 1950年代から60年代にかけては実質賃金が大幅に上昇し、賃金格差が圧縮され、経済成長が黄金期を迎えた。しかし、1975年以降は、成長の鈍化とともに、所得格差が拡大し、所得階層の下半分が中産階級から脱落しはじめている。
 戦後の労働市場の変化で重要なのは女性の参入である。戦後当初は出生率が高かったため、女性は家事や子育てに忙しかった。しかし、女性が仕事を得ようとすると、当初はとてつもない女性差別の壁にぶつかった。
 女性による本格的な労働市場参入がはじまるのは、1960年代半ばからである。1964年に44.5%に達した女性の労働参加率は1999年に76.8%となり、その後は緩やかに低下し、2014年には73.9%となっている。
 1970年代から80年代にかけ、女性の学歴も高くなった。女性はまもなくホワイトカラーの専門職、医師、弁護士、管理職のポストへの道をも歩み始める。1970年代以降は、男女同一賃金に向けて、かなりの前進がみられるようになった。それでもいまでも賃金格差は残っている。
 25歳−29歳でみる大卒者の割合は1940年には5%だったが、1966年には10%、1990年には20%、2013年には32%に上昇した。大卒者の数が増えるなかで、女性の比率が上昇し、1978年には50%を超えた。
 しかし、いまでは卒業してから学生ローンの返済に苦しむ若者も増えている。大学を卒業しても、タクシー運転手やスターバックスのバリスタなどの単純労働にしかつけない人も増えている。それでも、大卒者は労働市場で有利な位置にあり、失業することも少ない。しかし、過去17年をみると学位をもたない大卒者の実質所得水準はむしろ下がっている。
 全人口に占める退職年齢層の割合は、1940年の7.1%から2010年の13.1%へと確実に増えている。1935年にはニューディール政策で社会保障制度が導入され、失業保険や年金が保障されるようになった。アメリカでは1959年に高齢者の貧困率は35%だったが、2003年には10%に減っている。だが、今後はふたたび貧困率が増大していくのではないか、と著者は懸念している。
 年金の黄金時代は1970年代だった。余命が延び、退職者の所得が増えたことから、高齢者向けのあらたな産業やコミュニティも生まれた。しかし、現在は老齢人口が増え続けるなか、退職後の生活の持続可能性にたいする懸念が高まっている。中産階級労働者の49%が退職後に貧困線以下、もしくは貧困線以下で生活するようになるという最近のデータもでている。預金口座にわずかな資金しか残っていない多くの労働者は、65歳を過ぎても働きつづけなければならない状況にある。


   9 経済成長の加速時代

 最後の第3部「成長の加速要因と減速要因」にはいる。
 1920年から1970年にかけて、アメリカでは史上もっとも労働生産性の高い時代が訪れ、それによりアメリカ人の生活は大きく改善された、と著者は書いている。さまざまなイノベーションがなされただけではない。この期間に、労働時間も週60時間から週40時間に減った。
 1920年から70年にかけての成長ペースが、それ以降鈍化し、とりわけ2000年以降、大きく減少したのはなぜか。これが、本書のメインテーマのひとつといえるだろう。
 1970年以降、労働生産性の伸びが低下したのは事実である。1996年から2004年にかけては、情報技術への投資によって、労働生産性は一時回復する。だが、それ以降、労働生産性の伸びはさらに鈍化している。
 1970年以降、成長をリードしたのは娯楽、通信、デジタル機器、IT部門だった。だが、それも2005年以降は頭打ちになる。
 食料や衣服、住宅については、すでに1940年代までにほぼ満足できる状態に達していた。1940年代から70年代にかけては、家庭に電化製品が普及し、豊かさが広がる。その後の進化は微々たるものである。
 高速道路網は1970年代にほぼ完成をみた。航空機もジェット機への転換が完了した1970年代以降、大きな進歩はみられない。医療や健康面も1970年代でほぼ体制が固まっている。
 労働環境の改善も基本的には1940年までに実現し、1970年代がピークとなった。1980年代以降は、女性の社会進出が目立つ。
 1人あたり実質GDPには、生活水準や労働生産性の伸びがもたらした大きな進歩が反映されていない、と著者は考えている。言い換えれば、消費者余剰やイノベーションの価値が過小評価されているというのだ。そうした価値は価格指数でとらえきれないもので、経済成長が人びとの生活改善に与えた影響ははかりしれないものがある、と著者はいう。
 第3部では、次のことが検討される。
 第1は1920年から1970年にかけての経済成長の足どりである。とりわけ重視されるのは大恐慌の時期と第2次世界大戦の時期だ。
 第2に検討されるのは、1970年以降に成長が減速した理由である。1990年代末のIT革命は一時的なものに終わり、大きな経済成長に結びつかなかった。これからの25年間も、たとえイノベーションがあっても生産性全体に与える影響はごくかぎられるだろう、と著者はいう。
 第3に検討されるのは、1970年代後半から広がりはじめた経済格差が、これからどうなっていくのかという問題である。学歴の上昇も頭打ちになり、学歴が生産性向上に結びつかなくなっているという現実もある。1990年以降、女性の労働市場参入によって、1人あたり労働時間は増加したものの、2008年以降はベビーブーム世代が退職したことにより、1人当たり労働時間は減少しはじめている。結婚制度が機能しなくなったことも問題だ。そのような時代においては、どのような政策が可能なのか、と著者は問う。

 まず第1の問題。1920年から1970年にかけての経済成長をふりかえってみよう。
 1920年代から1950年代をふりかえると、アメリカで生産が大躍進したのは、意外なことに1928年から1950年にかけてだ、と著者は指摘する。
 とはいえ、1929年から33年にかけては大恐慌の時期である。生産量、労働時間、雇用は壊滅状態となる。その後、経済は部分的に回復するが、1938年にはふたたび不況になった。
 1938年から45年にかけてGDPは大幅に伸びる。巨額の戦時支出がなされたことが大きな刺激となった。だが、その後も経済は崩壊しなかった。軍事生産が住宅や自動車、家電に転換されたためである。
 大恐慌はニューディール政策をもたらした。
 ニューディールは社会保障政策を導入しただけでなく、労働組合の組織化を促した。それにより、実質賃金は引き上げられ、1日8時間労働が実現した。だが、それは経済社会の停滞をもたらさなかった。むしろ逆である。
 ニューディールにおいて、政府はインフラ投資を拡大し、金門橋やベイブリッジ、テネシー川流域開発公社、フーバー・ダムなどの巨大プロジェクトを推進した。
 1939年からは第2次世界大戦がはじまるが、とりわけアメリカの場合は、戦争が経済にもたらしたプラス面を否定できない、と著者はいう。政府は軍事生産のために、資金を負担して工場や設備を新設した。1930年代は、技術革新の時代でもあった。そして戦時下に滞留した家計の貯蓄は、戦後になって消費財の購入にあてられていくことになる。
 1人あたりGDPは、大恐慌がはじまった1929年から33年にかけ急減したあと、第2次世界大戦中に急増し、その後も増えていった。
 1930年代後半以降、実質賃金の上昇ペースは以前よりも高くなり、その時期、同時に労働生産性も高まっている。引きつづき、1950年代から70年代半ばにかけても、実質賃金の伸びが労働生産性の伸びを上回った。逆に1970年代半ばから2014年にかけては、逆の現象が生じる。労働生産性が伸びても、実質賃金は低迷するのだ。
 労働の質は教育水準ではかられることが多い。第2次世界大戦前後に、アメリカの教育水準は大きく向上した。高卒率は1900年の6%から1970年の80%に上昇した。大卒者も増えてくる。そのことと労働生産性の伸びは関係している。
 しかし、労働生産性は資本投入量とも関係している。資本の投入なくして、労働生産性の上昇はありえない。資本投入量は大恐慌時に落ち込み、その後1935年に回復、1941年に急増し、1944年に倍増している。戦後も資本投入量はさほど減っていない。
「単純化すれば、アメリカの総生産量は、1928年から1972年にかけて資本投入量をはるかに上回るペースで増加したが、その後、1972年から2013年にかけては、そのペースがきわめて緩慢になっている」
 専門的な論議は省略するが、1920年代から1950年代にかけ、とりわけ大恐慌後、経済の「大躍進」が生じた原因を著者は次のようにみている。
 ひとつは、労働者寄りのニューディール法制により、労働者の実質賃金が上昇したこと。それにより労働から資本の代替が進み、活発な設備投資がおこなわれ、労働生産性が上昇したこと。
 もうひとつは、戦争による高圧経済である。たとえば戦争を遂行するため、造船所や飛行機工場などには、生産をさらに増やすよう圧力がかかった。それにより1日24時間体制が実施される。さらに生産の効率化とコスト削減が同時に進められた。
 戦後、軍事から民間へと需要がシフトしたあとも、需要は減らなかった。

〈1946−47年、鬱積した需要が解き放たれ、軍事品から民生品の生産へと迅速に切り替えられた工場は、自動車やテレビは言うに及ばず、冷蔵庫、ストーブ、洗濯機、ドライヤー、食洗機の需要を満たすべく奮闘した。無尽蔵ともいえる需要に応えるため、第2次世界大戦下の高圧経済で効率的な生産について学んだあらゆる手法が導入された。〉

 多少の生活の不便はあっても、戦時の活況が、大恐慌時の絶望感を払拭し、国民全体に先行きへの期待をもたらした、と著者は書いている。
 さらにもうひとつ、著者が注目するのが政府による資金投入である。1930年から45年にかけ、アメリカ政府は新工場の建設資金を負担し、民間企業に軍需品の生産を促した。政府は軍需工場を新設し、それを民間企業に委託しただけではない。テキサスからニュージャージーにいたるパイプラインなどを敷設するために、大量の資金を投入した。そうした政府の資金投入によって、アメリカの生産技術が大幅に向上した面はいなめない、と著者も認めている。
 さらに、この3つの要因に加えて、著者の指摘するのが都市化である。都市化によって、労働者が農村から都市にシフトしたことが、経済全体の生産性を高めた。
 もうひとつは閉鎖経済である。1930年から60年にかけ、アメリカでは移民が制限された。そのため、移民との競争がなくなり、労働者の賃金が上昇した。さらに高関税により輸入が抑えられ、国内の工場にイノベーションが施された。
「移民制限法と高関税によるアメリカの閉鎖経済は、1930年代の実質賃金の上昇と、国内経済における革新的技術への重点投資、1920年代から50年代の一般的な格差の縮小に寄与したとみられる」
19世紀末の最大の発明は電気と内燃エンジンだった。だが、それらが汎用化されるには20世紀前半を待たなければならなかった。その汎用化がもっとも進展したのが1930年代である。
 1930年代には運輸・流通業が発展する。電力発電量も大幅に増加した。流通システムも大幅に改善された。
 アメリカにとって画期的だったのは1930年10月に東テキサス油田が発見されたことである。それにより、アメリカでも化学産業がスタートを切った。プラスチックが発明されたのも1930年代だった。セルロイドやビニール、セロファン、ベークライト、アクリル、テフロン、ナイロンなどの新製品も生まれた。タイヤの質の改善も生産性の向上に寄与した。「1930年代は、技術進歩の10年として輝きを放っている」
 皮肉なことに、恐慌と戦争が生みだしたさまざまなイノベーションが1970年代までのアメリカの経済成長を支えた。
 そのあとはどうか。

   10 経済停滞時代の課題

 次の問題は、1970年代以降、アメリカではなぜ経済成長が停滞したか、そしてこれからの課題についてである。
 経済成長の源泉は、イノベーションと技術革新であり、そこに資本と労働が投入されることによって経済発展が生ずる。起業家の役割はけっして無視できない、と著者はいう。1970年以降のそうした起業家としては、マイクロソフトのビル・ゲイツ、アップルのスティーブ・ジョブズ、アマゾンのジェフ・ベソス、グーグルのセルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグなどの名前を挙げることができる。アメリカで起業家が活躍できるのは、民主的な特許制度があるからだ、と著者は指摘する。
 ここで新たに開発された生産性の指標として、全要素生産性(TFP)の伸び率を調べてみると、それが圧倒的に高かったのは1920〜70年であり、1.89という数字が出ている。これにたいし、1970年以降は、1970〜94年が0.57、1994〜2004年が1.03、2004〜14年が0.40となっている。
 1920〜70年は、第2次産業革命によって、経済が順調に成長した時期にあたる。1994年からの10年間が盛り返したのは、いわゆるデジタル革命(第3次産業革命)の成果があらわれたためである。このかん、インターネットやブラウザ、検索エンジン、電子商取引が普及した。しかし、その後2004年以降の指数は落ちこんでいる。
 第3次産業革命の成果は、通信分野と情報技術にかぎられる。通信分野を引っぱったのは携帯電話からスマホへにいたる流れである。情報技術ではパソコンが普及するとともに、巨大なネット企業が誕生した。しかし、デジタル革命が生活の改善にもたらした分野は限られている、と著者はいう。
 たしかにパソコンはオフィスや家庭の環境を変えた。それまでの商品カタログも電子化された。スマホやタブレットが普及して、人どうしの連絡も容易になった。何もかも簡単にできるようになったのに、経済の成長がみられないのはどうしてだろう。
 小売業は停滞し、ATM化の進展にもかかわらず銀行業界はかえって苦境におちいっている。家電の開発はほぼ終わり、スマホの進化もこれ以上、たいして期待できそうにない。
 経済の活力が低下したようにみえるのは、2005年以降、市場への新規企業の参入率が低くなり、それを越える割合で既存企業の退出率が増えているからだ。市場から退出する小売業者やサービス業者が多くなっている。いっぽうハイテク分野でも新規参入する企業が減っている。労働者のあいだでは新たな雇用機会が少なくなり、失業期間が長引くと職を得るのが、いちだんとむずかしくなっている。
 製造業の生産能力の伸び率は低下している。設備投資にも力強さがみられない。コンピュータの性能向上ペースも最近は鈍化している。
 将来のイノベーションとして考えられる分野としては、どのようなものがあるだろうか。技術楽観派が持ちだすのは、とりわけ人工知能(AI)分野である。具体的には、医療、小型ロボットと3D印刷、ビッグデータ、自動運転などがよく挙げられる。
 1940年から80年にかけ、医療技術は急速に進歩した。進歩はその後も緩慢ながらつづいている。がん特効薬の開発も進んでいる。認知症の治療薬にも関心が向けられている。わずかにせよ今後も平均余命は延びるだろう。
 ロボットの小型化、高性能化も進んでいる。ロボットは職場から労働者を排除するものではなく、むしろ人間とともに作業をおこなうものになるはずだ、と著者はいう。3D印刷の強みは、新しい設計モデルを比較的低コストでつくれることにあり、さまざまな分野での効果が期待されている。
AIは人間に似た能力をもつコンピュータである。そのひとつの応用としてのビッグデータは、強力なマーケティング・ツールとして、さらに利用されるようになるだろう。
 さらにAIは、最新の検索ツールを使って、大量のデータのなかから必要な情報を瞬時に見つけだす。だからといって、AIが完全に人間に代わるわけではない。「コンピュータが人間に代わって分析するケースもあるが、多くの場合、コンピュータは人間と共同で分析スピードを速め、より正確にする」だけである。
 そして、自動運転である。自動運転のメリットは、自動車事故の発生率をより低下させ、カーシェアリングの普及を促進し、それによってガソリン消費を減らし、大気汚染を改善することにある。さらに自動運転はトラック運転手の負担を減らし、配送の生産性を高める可能性もある。しかし、安全に走れるようになるまでには、まだまだ改善すべき課題が多い。
 こんなふうに将来のイノベーションには多くの期待すべき面がある。しかし、デジタル革命がそうであったように、そうしたイノベーションは1920年代から1970年代にかけてもたらされた生活の改善にくらべれば、派生的で微々たるものだ、と著者はみている。
 現在の課題について、著者は以下のように指摘する。
 社会のすべての構成員が経済成長の成果を等しく享受できるとはかぎらない。とりわけ1970年以降は所得格差が目立つようになってきた。イノベーションの効果は減退し、むしろさまざまな逆風が吹くようになった。その逆風は、所得格差、教育、人口、政府債務の面で、とりわけ顕著になっている。
「すべての逆風を勘案したとき、1人あたり実質可処分所得の中央値の将来の伸び率は、プラスを維持するのがむずかしく、19世紀末以来のアメリカ国民の各世代が享受した伸び率を大幅に下回ることになろう」。これが将来にたいする著者の悲観的な見通しだ。
1972年から2013年までの、所得上位10%と下位90%の人びとの実質所得の伸び率を調べてみよう。この期間、上位10%の伸び率が1.42%にたいし、下位90%は−0.17%になっている。
 1917年以降の統計をみると、1972年までは、上位10%よりも下位90%の所得伸び率のほうが上回っていた。言い換えれば、このかん経済格差が徐々に縮まっていたことがわかる。ところが、1972年以降は、それが逆転し、上位10%と下位90%の所得格差が広がっているのだ。
「1970年代半ばを転換点に、低中所得層の賃金が着実に上昇していた時代が終わり、過去40年は、低所得層では賃金がほとんど伸びない反面、高所得層の賃金は高い伸びを示した」と著者は書いている。
 その原因を、著者は労働組合の衰退、輸入の増加、移民の流入に求めている。加えて、オートメーション化と実質最低賃金の低下も大きな要因として挙げられている。
 労働組合の組織率が低下したのは、製造業の雇用縮小と非正規雇用の増大が原因である。加えて、輸入品の増加が国内の雇用を代替し、中低熟練労働者の相対的賃金低下をもたらした。とくに1990年から2007年にかけては中国からの輸入が拡大した。
「輸入の浸透とアウトソーシングの増加は、グローバル化の複合効果であり、国内の雇用と賃金両面に影響を及ぼした」
 1995年から2005年にかけて、アメリカでは移民の流入が目立つ。移民によって国内労働者の賃金は小幅に引き下げられ、高卒資格のない国内労働者に打撃を与えた。加えて、労働現場では自動化が進み、それによって賃金の高い製造業の雇用が失われ、下位労働者の所得が相対的に低下した。
 とはいえ、大量失業が発生したわけではない。「職業の構成が変わり、職業分布の上位と下位で雇用が創出される一方、中間部分の雇用が消失したのだ」
 専門職とマニュアル業務へと仕事が分極化し、中間部分の雇用が失われていったことがわかる。賃金の高い製造業の雇用は失われ、コンビニや外食産業、小売りやクリーニング業、管理業務など比較的賃金の低い部分の雇用が増えていった。アメリカでは実質最低賃金も下がっているという。
 1940年代から50年代にかけての所得税制は、限界税率が90%と累進性が高かったが、レーガン政権は1980年代前半に累進性を見直し、減税の方向に舵を切った。その結果、最高経営責任者(CEO)と平均従業員の賃金格差は、1973年の23倍から2013年の257倍へと拡大することになった。
 ファストフードチェーンの従業員は、最低賃金すれすれの賃金で働いている。これにたいし、所得分布の最上位に属する人びとはヘッジファンドなどを利用してさらに資産を増やしている。
中位グループはほとんど資産を増やすことができず、下位グループはますます資産を減らしている。「アメリカの下位80パーセントの所得層で実質資産が伸び悩んでいるという事実は、過去30年間、生活水準の向上のペースが鈍化したとの見方を裏付ける有力な証拠である」
 ここからは下位層の賃金が伸び悩むいっぽう、上位1%層の所得が押し上げられ、中間層の一部が下位層に転落しているという構図が浮かびあがる。
 学歴は収入と関係がある。2000年以降、高卒者や高校中退者の賃金は緩やかに低下し、大卒者の賃金は伸び悩み、大学教育の必要がない職に就かざるをえない大卒者の割合も増えている。専門職をになうのは、いまや大学院卒業者である。
 しかも「教育が格差に及ぼす影響は、現世代の所得への直接的影響にとどまらない」。格差は世代間に引き継がれていく。「高所得世帯はほぼすべて、子どもを4年制大学に進学させるのに対し、最貧困層が子どもを進学させることは稀である」と、著者はいう。
 現在のアメリカの問題は、教育水準向上のスピードが低下していることとと、学費の高騰で低中所得層の子どもが大学に行けなくなっていることだ。全般的な学力低下も目立っている。「中等教育の悲惨な結果をみれば、教育が将来の経済成長の足かせになるのは間違いない」と、著者はいう。学生ローンによる負債が、卒業後も大きな負担になっている。
 人口問題もある。アメリカでは2007年から2015年にかけ、労働参加率が66.0%から62.6%に低下した。これはベビーブーム世代が退職したことが大きいという。労働参加率の低下は、とうぜん経済にも影響をもたらす。
 政府債務も大きな問題だ。それを処理するためには税収を増やすほかなく、そのことが可処分所得を低下させ、経済成長の逆風となることはまちがいない。
 所得格差の拡大は社会環境の劣化をもたらす。婚姻率の低下と片親家庭の増加は、恵まれた雇用機会が減っていることを反映している。「過去30年の賃金伸び悩みと結婚の意欲低下は相互に関連しあっている」
 賃金の相対的低下は犯罪の増加とも無縁ではない。「黒人の高卒中退者の3分の2は、40歳になるまでに少なくとも一度は刑務所に入る」との驚くべき指摘もある。
 さらに、グローバル化が格差を拡大する要因になっている。輸入品の増大によって、工場が閉鎖され、数百万の労働者が中程度の賃金を得る機会を奪われた。また国内に外国資本が誘致されても、安い労働力を求める外国企業の活動が、賃金の伸びを低下させる要因となっているという。
 地球温暖化などの環境問題もある。アメリカでは水平粉砕法で、掘削可能なガス田や油田が増えたため、エネルギー問題はまず心配ないといえるが、資源がどうなるかは、これからも大きな問題でありつづける。
 これらのことを勘案して、著者は2015年から2040年にかけてのトレンドを予測する。
 それによると、今後25年の年平均伸び率は、労働生産性が1.20%、1人あたりGDPが0.80%、1人あたりGDPの中央値が0.40%、1人あたり可処分所得の中央値が0.30%になるという。これはあくまでも予測だが、端的にいって、ほとんどゼロ成長の時代になるということだ。
 著者はこう書いている。

〈1770年まで、千年にわたって経済成長といったものはなかった。1870年までの過渡期の1世紀には、経済は緩やかに拡大し、アメリカの場合は、1970年までの革新の世紀にめざましい成長を遂げた。それ以降、成長は鈍化している。アメリカの成長が1970年以降、鈍化したのは、発明家がひらめかなくなったわけではないし、新しいアイデアが枯渇したわけでもない。食料、衣服、住宅、輸送、娯楽、通信、医療、労働環境など、生活の基本的な部分が、その時点で一定の水準に達してしまったからだ。〉

 つまり、経済はほぼ飽和状態に達し、AIが生活水準の向上にもたらす影響はかぎられているということだ。
 そのいっぽうで、著者は、いまでもアメリカは世界で優位性を保ち、その経済システムは堅固であり、こうした状態は少なくともあと25年はつづくとも予想している。
 これからはゼロ成長の時代にはいっていくが、そのこと自体は問題ではない。むしろ、問題は経済格差が広がっていることである。これにたいし、政府は何らかの手を打たねばならないと著者は考えている。経済格差の拡大を圧縮し、さらなる平等を実現し、社会の一体感を保つために、政府は行動しなければならない。
 そのためには、次のような政策が考えられる。
 ひとつは上乗せ報酬にたいする課税、100万ドル以上の所得にたいする特別課税、そして相続時の金融資産にたいする課税強化である。そのいっぽうで、最低賃金の引き上げや、低所得層の所得税免除も考えるべきだ。
 機会の平等を高めるためには、教育の役割が何よりも重要である。まず幼児教育の充実がはかられねばならない。とりわけ貧困家庭でリスクにさらされている子どもにとっては、幼児教育が将来を左右する。政府は幼児教育にもっと予算をつぎ込むべきだ、と著者は主張する。
 中等・高等教育が重要なのはもちろんである。豊かな地域と貧しい地域とでは、現在、教育体制に格差がある。それを平等なものに変え、全般的に学力を向上させる必要がある。大学の学生ローン問題にも対処しなくてはならない。著者は、大学在学中は授業料がかからず、卒業後に所得に応じて返済するシステムができないかと考えている。
 著作権法や特許法、土地利用規制などによる規制や新規参入を制限する認可制度を見直す必要がある。「過度の規制を緩和することが、格差を縮小し、生産性の伸びを押し上げるうえで、実現可能な政策手段のひとつである」
 高スキルの移民を増やすことも必要だ。公平性を大幅に高めるため、租税優遇措置などを見直し、税制改革をおこなう必要がある。財政再建も欠かせない。そのためには所得上位層への課税、炭素税の導入なども考えられる。
 こうした政策をとるのは、経済格差をできるだけ圧縮することで、より公平で賢明な社会をつくるためである、と著者はいう。
 このままではいけないという真摯な思いが伝わってくる。
 政治の役割が問われている。
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