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服部龍二『大平正芳』を読む(1) [われらの時代]

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「はしがき」に大平正芳(1910−80、1978−80首相)の航跡(功績)が簡潔に示されているので、まずそれを示しておこう。

〈第68、69代内閣総理大臣の大平は、香川県三豊郡和田村の農村に3男として生まれた。苦学して大蔵省に入省し、やがて衆議院議員に転じた。池田勇人内閣で官房長官、外相となった大平は、通産相、宏池会会長を経て、盟友の田中角栄が率いる内閣で2度目の外相を務めた。蔵相、自民党幹事長を歴任して首相に就任すると、大平は環太平洋構想を描き、アジア太平洋の秩序を模索した。福田赳夫との確執から党内をまとめ切れず、志の半ばで急逝した。〉

 このブログで紹介するのは、あくまでも「われらの時代」、つまりぼくの恥ずかし大学生時代のころ(1967年から72年ごろ)の大平に限られている。首相の時代は省略する。興味のある方は、本書をお読みください。
 上の略歴からみてもわかるように、大平は池田勇人の側近だったことがわかる。佐藤栄作時代はほされ、佐藤の子飼いだった福田赳夫とは対立した。田中角栄とは盟友関係にあり、首相に就任するのは、ロッキード事件で失脚した田中の後押しを受けてのことだった。
 通算4年の外相は、専任外相としては戦後最長だという。大平が外相を務めたのは池田内閣時代の1962─64年と田中内閣時代の1972─74年。佐藤にはほされたとはいえ、佐藤内閣時代の1968─70年には通産相としてアメリカとの経済交渉にあたっている。
 最初の外相時代には日韓関係を打開し、次の外相時代には日中国交正常化にこぎつけた。骨のある政治家だったといえる。本書に沿ってその姿を望見しておきたい。
 大平が生まれた村は、いまは香川県観音寺市に含まれている。農家の暮らしは楽ではなく、米麦をつくり、副業に明け暮れる毎日だった。富裕ではなかったが、困窮することはなかったという。
 1927年に三豊中学を卒業し、海軍兵学校を受験したが、急性中耳炎にかかり身体検査で不合格になった。そのあと、腸チフスにかかって、4カ月も生死の境をさまよったという。
 介抱してくれた父が間もなく亡くなり、進学をあきらめていたところ、親戚が手を差し伸べてくれて、高松高等商業高校に入学することができた。そのころキリスト教に出会い、クリスチャンになった。聖書や内村鑑三の著作を読み、大学にはいってからは矢内原忠雄の聖書研究会に参加した。
 大平は1932年に東京商科大学(現一橋大学)に入学している。すでに23歳になっていた。それから猛勉強して、高等文官試験に合格し、1936年に大蔵省に入省する。大平ら若手官僚は、当時、読書会を開き、マルクスや山田盛太郎、ケインズなどの本を読んで、切磋琢磨していたという。
 最初に配属されたのは預金部、翌年27歳で横浜税務署長となった。そのときの直属の上司が池田勇人だった。池田は横浜に来ると「おい、どこか飲みに行かんか」と大平を誘って、ふたりでよく縄のれんをくぐったという。
 仙台に転勤になったあと、大平は1939年5月に興亜院への出向を命じられる。興亜院は日中戦争期にあって日本の占領地政策を担う中央機関だった。北平(北京)、上海、張家口、厦門(アモイ)に事務所があり、大平の行き先は河北省北西部の張家口だった。
 内モンゴルを統轄する場所だったといってよい。大平はここに3年間いて、内モンゴルの経済政策を担った。そのころよく足を運んだ北平の事務所には、伊東正義や大来佐武郎、佐々木義武らがいた。のちに大平内閣の閣僚となるメンバーである。人の縁はこんなふうにつながっている。
 1942年7月に大平は大蔵省に復帰し、主計局で文部省と南洋庁の予算主査にあたった。大日本育英会の創設にも尽力した。そのとき、東京財務局長となった池田に呼ばれて、43年11月に東京財務局関税部長になった。
 終戦のときは、蔵相の秘書官となっていた。戦後も引きつづき津島寿一蔵相の秘書官を務めた。そのとき同僚だったのが宮澤喜一である。
 その後も大平の役人生活はつづく。経済安定本部にも出向し、GHQとの折衝にもあたった。英語の苦手な大平は、宮澤を連れて、よくGHQに出向いた。
 1949年、大蔵事務次官の池田は衆議院選挙に出馬して初当選し、第3次吉田内閣で、いきなり蔵相に抜擢された。そのとき池田は大平を呼び出し、「わしが大臣をやる以上、君が秘書官をやるのは当たり前のことではないか」と話し、大平を秘書官に任命した。
 3年以上、池田の秘書官をつとめるうち、池田と大平の縁はますます強まり、大平はついに政界進出を決意するようになる。それを促し、応援したのも池田だった。秘書官時代にはアメリカを訪れ、アメリカの「非凡な建設的能力」に感嘆し、親米的傾向を強めている。
 1952年10月に総選挙があり、大平は地元の香川県で立候補し、初当選する。42歳になっていた。政界入りの理由について、大平は「このまま役人生活をするより、自分の力で何か世の中のためにできることはないだろうか」と思ったからだ、と述べている。
 大平は吉田茂の派閥に属したが、身近に感じていたのは池田勇人であり、盟友ともいうべき田中角栄だった。
 1955年11月、自由党と民主党は合同し、自由民主党となった。大平の考え方は吉田茂を受け継ぎ、経済優先、軽武装、性急な憲法改正を戒めるというものだ。
 1957年、池田は宏池会を結成し、総理総裁の座をめざした。
 1960年、新安保条約が国会で承認されたあと、岸信介は強行採決の責任をとって辞任し、池田勇人内閣が発足、大平は官房長官に任命された。
 池田内閣は、内政面では「所得倍増計画」、外政面では「自由世界の一員」という方針を打ちだした。大平にとって、中立主義を排し、対米基軸をとるのは自明のことだった。
 1962年の内閣改造で、大平は志願して外相に就任する。
 このころの最大課題は、日韓関係の打開だった。日本と韓国のあいだでは、まだ国交が結ばれていなかった。韓国は海上にいわゆる李承晩ラインを引き、ここを越える日本の漁船と船員を拿捕していた。
 韓国ではクーデターにより朴正熙が実権を握った。韓国経済は逼迫しており、朴は日本の経済協力に期待した。韓国は植民地時代の賠償として、対日請求権を唱えていた。大平はこれにこたえようとした。日本は韓国と国交を結ぶと同時に、韓国に無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力をおこなうと提案したのだ。
 日本に派遣された朴の腹心、金鍾泌(キムジョンピル)中央情報部長に大平はこう語ったという。

〈両国は永遠の隣人であります。だからここで思い切って一切の過去を一杯の灰として捨て去り、未来の展望に立とうではありませんか。もし貴方の方でそういう気持になっていただけるならば、日本としても分別があります。あなたの方はせっかく独立し、困難な国の建設をしなければならないわけだから、日本は貴国の永遠の隣人として、相当額の有償無償の経済協力をして、貴国の未来に向かっての前進を御手伝いいたしましょう。〉

 こうして、いわゆる大平・金メモが作成され、日韓交渉は大きく前進した。実際に日韓基本条約が結ばれるのは1965年の佐藤内閣のときだが、最大の課題はすでに池田内閣の大平外相時代にクリアされていた。
 だが、ヨーロッパ歴訪中だった池田は、何も知らなかった。池田はじゅうぶんな相談を受けなかったと激怒し、大平との仲は一時険悪となった(その後、すぐ仲直りする)。
 大平外交の基軸はアメリカにおかれていた。日米貿易経済合同委員会にはたびたび出席している。
 じつはアメリカとは、岸政権時代にいわゆる「核密約」が結ばれていた。核搭載艦艇の日本寄港は、核の持ち込みにあたらず、事前協議の対象外とするというものである。
 大平は外相就任当時、こうした合意があるとは知らず、野党の質問にも、事前協議の要請がない以上、核の持ち込みはないと答えていた。ライシャワー駐日大使は、大平の認識が誤っていることを指摘し、大平も「核密約」があることを知った。大平はその後、そのことを発表すべきかどうかについて、終生悩みつづけたという。
 そのころ、日本は台湾政府(中華民国)を中国の正統政府としており、北京政府をどう扱うかが悩みのタネだった。
 1962年11月、高碕達之助と廖承志は北京で貿易覚書を交わした。形式的には民間協定だが、実際は半官半民の協定だった。両者の頭文字をとって、LT貿易と呼ばれる。
 大平はアメリカの封じ込め政策と一線を画するかたちで、LT貿易を推進しようとしていた。インドネシアやビルマとも独自の関係を築こうとする。
 池田内閣が積極的な対中貿易に乗り出すと、台湾は反発した。ややこしい亡命事件もからんでいた。1964年7月、大平は台湾を訪問し、蒋介石総統などと会談、中共打倒を強調する蒋介石をいなしながら、台湾との関係修復をはかった。
 池田が3選をはたすと、3選に反対した大平は疎んじられ、党の副幹事長に格下げされた。そのころ病気で長男をなくしている。
 喉頭がんと診断された池田は、東京オリンピックを花道として、10月25日に退陣し、佐藤内閣が発足した。佐藤を推したにもかかわらず、大平は佐藤政権では冷遇されつづける。
 1965年8月13日に池田が死去したあと、宏池会を継承したのは前尾繁三郎だった。無役となった大平はこのころ思索と読書に明け暮れた。
 転機が訪れたのは1967年11月である。大平は自民党政調会長となった。
 さらに68年11月の自民党総裁選で佐藤が3選されると、大平は通産相に任命される。4年ぶりの入閣だった。アメリカとの繊維摩擦が最大の問題だった。アメリカが日本に繊維の輸出規制を求めるのは、少し筋ちがいではないかと思っていた。
 アメリカは沖縄返還の見返りとして、繊維の輸出規制を持ちだしていた。ニクソンとの会談で、佐藤は善処すると答えていたのに、大平には何も知らせなかった。そのため、両者の関係はぎくしゃくしたものとなった。
 1970年1月に第3次佐藤内閣が発足すると、またも大平ははずされ無役となった。前尾繁三郎との関係もぎくしゃくする。宏池会は分裂の危機に瀕するが、前尾と交代するかたちで、1971年4月に大平は宏池会会長に就任する。派閥の長となった大平は、こうして総裁候補の切符をつかんだ。
 1971年9月、大平は宏池会の議員研修会で「日本の新世紀の開幕──潮の流れを変えよう」と題して演説し、「政治不信の解消」と「自主平和外交の精力的展開」を訴えた。中国問題に決着をつける時期がいよいよ熟してきた、と大平はカンをはたらかせた。
 その大平は日本を「アジアに位する海洋国家」ととらえていた。それがのちの環太平洋構想につながっていく。
 1972年6月、大平は総裁選への出馬を表明する。だが、総裁選に勝利したのは、盟友の田中角栄だった。
 このつづきは、次回。

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