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倫理・歴史意識の「原型」──『丸山眞男講義録[第七冊]』を読む(2) [われらの時代]

 丸山はこんなふうに話している。

〈日本の思想史は、外来思想の受容と修正の歴史である。ただし「受容」はすぐれて主体的な選択であるから、これを摂取という。つぎつぎに摂取された外来文化は日本の精神構造の内部に層をなし、より新しい層と古い層の間に不断の相互作用が行われる。最下層に沈殿しているものを「原型」とよぶ。〉

 その「原型」がどのようなものかを探るのはむずかしい。しかし、大陸由来の儒教や仏教などの語法や観念を除去し、神道や民間伝承などの観念と照らし合わせていくと、そこに固有の思考様式や価値意識を認めることができる。それを再構成して仮設として立てたものが「原型」なのだ、と丸山はいう。
 丸山が注目するのは日本の神話である。「神話こそ、環境に意味連関を与える人類文化史上最初の意識的な試みであり、ここにおいて、ある文化圏の根元的な概念のフレームワーク(枠組)を見ることができる」という。その点は、宗教も同じであって、人間は「『宗教』のない世界で生きてゆくことはできない」。神話や宗教があってこそ、人は厳しい環境に対応することができる。
 そこで、まず論じられるのが、倫理意識の「原型」についてである。
 日本では、タマやカミは、畏るべきものであり、尋常を超えた能力をもつものである。それらは鎮め、遠ざけられねばならない。禍いは神の怒りであり、その怒りは人間が神の掟に背いたために生じ、そうしたたたりや罪は、ハラヒ、キヨメられなければならない。
 こうして次第に神々への祭儀が定型化していく。日本では、歴史に記録された最古の時代(紀元3世紀ごろ)に、呪術から祭儀への発展がみられる。聖と俗(ハレとケ)の分化も意識されていた。ハレのさいには、ミソギによって、ケガレ(=罪)を除去しなければならなかった。
 日本の祭祀では、呪術的性格が濃厚に残っていた。呪術の世界には、かまどの神とか厠の神といった特定の精霊がかかわっており、それに応じて、祭儀が多様化する。場に応じた行動様式の使い分けは、日本人の特徴でもある。
 記紀神話は、高天原系と筑紫系、出雲系の3つの系統からなるが、結局はヤマトの国の成立と統治者の由来を語る物語へと収斂していく。そこには、さまざまな矛盾や撞着がみられる。とはいえ、重視されるのは、特定共同体への服従と献身をあらわすキヨキ心である。
 イザナギ神話をみれば、ミソギからはまがごとを起こす悪神と、禍いを直す善神が生まれている。しかし、ふたつの神がミソギから生まれていることをみてもわかるように、善神と悪神は相関的な存在である。善神もたまには悪行をするし、悪神も悪行しかしないわけではない。その意味で、プラグマティックな適応性に富んでいる、と丸山はいう。
 古代人にとって、死はケガレと結びついており、人はそこから遠ざかろうとした。日本で仏教が受容されたのは、葬儀を通じてである。それまでも葬儀に相当するものがなかったわけではない。死者がよみがえる、言い換えれば死霊が戻ってこないようにするために、境界を防ぐという発想があった。黄泉の国という水平的空間性にたいし、仏教は地獄、極楽という別世界の概念を導入した。よみがえりの代わりに、死後の救済という観念が移入された。
 生成と生殖を賛美する自然的生のオプティズム、死にたいする生の優越が記紀神話をおおっている。悪とは生成と生殖を阻害するものであり、それをなおし、生成力を復元させるのが、直毘霊(なおびのみたま)ということになる。
 ナルとウムはともに「生」である。生成作用は神格化される。まず「あしかび」のようなものが神となる。すなわち国常立尊(くにのとこたちのみこと)。それから七代の神がなり、イザナギ、イザナミにいたる。イザナギがイザナミの黄泉の国から戻って生まれた神が、アマテラス、ツクヨミ、スサノオとなる。なるとうむは連続している。つくるという主体性は薄弱である。「なりゆき」と「いきほひ」の世界が生まれる。
「なりゆき」と「いきほひ」は歴史意識の「原型」となる。これが次のテーマだ。
 日本には、自然的時間の流れについてのオプティミズムがある。ここは自然的時間の経過において万物が生成活動し、増殖する、成りゆく世界である。自然的時間のなかには勢いがそなわっている。そこで、日本人は「歴史は人間がつくるものであり、歴史的現実や状況はわれわれが起すものというよりは、われわれの外にあるどこからか起ってくるものであり、如何ともすべからざる勢の作用であるという考えに傾きやすい」と、丸山はいう。それが時勢、大勢という観念につながってくる。なりゆき史観は、時勢への追随となってあらわれる。
 こうしたなりゆき史観は、古代インドやキリスト教、古代中国思想とは異なる。
 丸山によれば、日本の歴史意識の原型は次のようにえがかれる。

「歴史は現在を中心とした、過去から未来への無限の流れである」
「時間を超越した『永遠』も『絶対者』もない。永遠はただ時間における無限の持続である」
「現在は過去の生成(なる=ある)の結果であり、顕現である」
過去は現在によって、はじめて位置づけられる。したがって、原始時代がユートピアとみなされることはない。
未来は「現在からの発射であり、噴出である」。したがって、目的ないし終着点としてのユートピアも存在しない。

 そうした思考からは、いくつかの帰結が導かれる、と丸山はいう。
 日本人の歴史観は現在中心的であり、過去を規範的に絶対化せず、未来の目標もない。「なりゆき」の時勢史観である。ユートピア思想はほとんどみられず、海外にある地上の模範国をモデルとする傾向が強い。
 現世主義的、此岸主義的だが、現世はうつろう世としてとらえられる。「不断に推移転変する時間の流れに乗りながら、つねに現在の瞬間を肯定的に生きる」のが日本人だ。しかし、生の意味は必ずしも肯定的にとらえられていないから、いっぽうでは享楽主義、他方では淡泊に死を選ぶ態度がでてくる。
 過去─現在─未来は、血縁の系譜や世代の継承によって象徴的に表現される。氏や家の無窮の連続が、永遠のイメージとして尊重される。
 日本ではすでに7世紀ごろから、氏神信仰と血縁系譜を尊ぶ観念が生まれていた。そして、皇室を中心に有力豪族を政治的に統制するためのイデオロギーが整備されていく。神代史においては、アマテラスが皇祖神として位置づけられ、そこに登場する神々が皇室に臣従する有力豪族の祖神として配されていく。
 中国の祖先崇拝は、子の父にたいする「孝」というかたちをとって規範化されるが、日本では祖霊が子に宿って、「古きものの死から新しきものの生への流れを通じての継続」が歴史意識をかたちづくる。その典型的な儀式が大嘗祭である。この儀式によって、新天皇は象徴的にはアマテラスの直接の子になる、と丸山は指摘する。
 日本の神話では究極の絶対神は存在しない。あるのは天つ神への道筋だけであって、そこにおいて神事がなされる。こうして原初の再生が状況への適応を生み出す。変革は天つ神の意を受けて、おこなわれるのである。これが惟神(かむながら)ということになる。すなわち、天にいます神の思し召すままに改革がなされる。これと同じパターンが明治維新にもみられた、と丸山はいう。
 天地初発に立ち返ることが、「タマ」の活力(いきおい)になって、混沌からの再出発と、大胆な改革を可能にする、と丸山はみている。
 ちょっと頭をかかえるしかない。
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